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探偵物語(16)


休日、わたしは時間の都合がつけば近くを散歩します。
住まいから少し足を延ばすと、果樹の畑が方々に広がっています。
小さな公園もあって、平日はほとんど人がいません。
仕事の日は街中をほっつき歩いて、半日は夢の中で光景を切り取っています。
その反動か、休日は静かな場所で風景と向き合う事が多くなっています。



池のある公園です。
今日も朝から蒸し暑く、足は自然と水辺に向かいました。
案の定、公園にはベンチで休んでいる一人しかいません。
隣りの福祉施設で雑務をしているらしく、休憩時間に木陰で涼んでいるようです。

公園を突っ切ると細い道路があって、その向こうは運動場です。
サッカーのゴールが設置されていますが、サッカーの練習や試合を見たことがありません。
先日の夕方に来たときは、ゴルフの練習をしている人が数人いました。
今日は・・・・。


ゲートボールの試合をしていました。
お年寄りの男女が十数人、二組に別れて試合の最中でした。
所々に旗が立っていて、どうやらそこがゲートのようです。

邪魔をしては申し訳ないので、わたしは運動場の端を一周することにしました。
周りは木立で囲まれていますから、涼しげな木陰を伝わることにしました。



途中で見かけた、補修された金網です。
手をかけていない運動場ですから、予算がなかったのでしょう。
有り合わせの金網を、破れた金網の箇所に当てています。
窮余の策ですが、金網の重なった所が何となくオシャレで、とっても良い感じです。
ハイブリッドパターンの金網ですね。



運動場の周りは、少し荒れた雰囲気で、ベンチや不用な柵などが放置されています。
それでも、通りから外れた場所なので、コンビニのビニール袋に入ったゴミや空き缶などはありません。
朽ちたゴミだけです。

運動場の入口の丁度反対側まで歩いてくると、木陰に何かが見えました。
石の、ようです。



逆光で良く見えませんが、石の像のようなものが、三体あります。
この場所の向こうは土手で、土手へ続く小道が見えます。
夏の陽が土手に容赦なく当たり、石の像は木陰でヒッソリと佇んでいます。
その対称が、余計にわたしの興味を引きました。

ここは運動場の外れで、人が滅多に来ない場所です。
運動場が出来る前は、小さな辻だったのでしょうか。
そうでないと、ここに存在する理由が判然としません。
像の雰囲気からして、かなり古いもののように見えます。


三体の正面に回ってみました。
右端の背の高い石は、人の形に見えますが、定かではありません。
文字などもまったく見当たりません。

中央の四角の石は、地蔵のようなものが六体彫られています。
左端の石には、女性像が彫られています。
民俗に不案内なわたしは、この三体が何であるか分かりません。
分かりませんが、この場所には、直(すぐ)には去りがたい何かがあります。

わたしは立ち止まって、考えを巡らせました。
わたしが日頃探索している街の中には、実体といったものがほとんどありません。
あるのは、イメージと記号です。
(それと上手に戯れるのが、都会人です。)

路傍の石像は、イメージを石に彫り込んだものかといえば、どうも違います。
そこには、確かな実体のようなものがあります。
市井の探偵がそれを説明するのは難しいのですが、石であって、像でもありうる実体です。

わたしが夢半ばで街中を歩き回るのは、そこがわたしの故郷だからです。
わたしが生まれ育った所だからです。
イメージと記号に溢れていようと、わたしは故郷に執着しています。
そこで、失ったものの探索(確認)をしたいからです。

この石像を、単にある宗教の一部と見るのは間違いでしょう。
それは、生活と関係があって、生きることと不可分であったはずです。
今のわたしには、想像することしか出来ないのですが。

ふと、わたしの頭に一つの言葉が浮かびました。
気配(けはい)、という言葉です。
気配はイメージでも、記号でもありません。
では実体かといえば、今は実体とは言えないかもしれません。
しかし、気配が実体である時代もあったはずです。
それも、そう遠くない昔に。

石像は、気配を含んでいるのでしょうか。
気配ではなくても、そういった類いのものが石像にはあります。
このことと、街が実体を失ったのは、もちろん無関係ではありません。
関係が、わたしに見えないだけの話です。

わたしは光景を切り取って、又歩き始めました。
少し休みたくなったので、サッカーゴールの背後にある木陰のベンチを目指しました。