ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を気取ったわけではありませんが、今回はピンぼけ写真をご覧いただきます。
ピンぼけの原因は、ピントが合っていないか手振れのどちらかです。
近年のカメラはほとんどがオートフォーカスなので、一目瞭然のピンぼけは少なくなりました。
ピントを外そうとしても、オートの場合はカメラが勝手に合焦してしまいます。
ですから、ピンぼけの多くは手振れです。
その手振れも、手振れ補正機能のお陰で少なくなりつつあります。
ピンぼけは、(大袈裟にいえば)今や絶滅しつつある現象です。
ボケてます。
ピントがどこにも合っていませんね。
原因は、ピントが外れてしまったからです。
カメラはオートフォーカスだったのですが、レンズがマニュアル仕様で、見事に外しました。
被写体は近所(山梨)の幼稚園の遊具です。
わたしは、金属にカラフルなペンキが塗ってある物体に魅かれます。
金属に彩色したアンソニー・カロの現代彫刻も、当然好きです。
日常でそのような物体が目立つのは、公園か幼稚園、保育園の遊具です。
カメラを持っていれば撮影するのですが、なかなか上手く撮れません。
現実で見た感じと、微妙に違ってしまいます。
上の画像も、記憶とはかなり違います。
違いますが、逆に現実離れした雰囲気が気に入った一枚です。
続いては、これ又近所の結婚披露宴会場です。
外してますね〜。
この場合は、金属のポールのメッシュにピントを合わせたのですが、空振りでした。
カメラはマニュアルオンリーの仕様で、当然レンズもマニュアルでした。
マニュアル初心者のわたしとしては、致し方ない結果です。
直後に絞りを変えて撮ったカットは合焦していましたが、今一つの出来。
上のピンぼけの方が、良い感じです。
怪我の功名でしょうか。
自室の壁面とビデオテープの山です。
壁面にかかっているのは中村政人さんの平面で、サイズはサムホールです。
(地の色は中村さんのテーマカラーである、イエローです。)
ビデオテープは、画面に写っていないテレビの上に載っていますが、ほとんどが宝塚モノです。
ええ、妻の趣味です。
しかしまぁ、こういうビデオは溜まる一方ですね。
友人にジャニーズ系の「おっかけ」をなさっている方がいますが、やはりテープの山脈です。
省スペース化を狙ってDVDにダビングする計画も、時間がかかりすぎて頓挫したそうです。
あのシーンを、何時でもすぐに見たいという気持ちと、事細かくチェックしたい研究心がテープの山を築くのでしょうね。
地震が起きたら、もちろん山崩れです。
何の話でしたっけ?
そうそう、ピンぼけでした。
上の画像は、手振れかもしれません。
夜間の室内の撮影で、手持ちでしたから。
それじゃ、ボケますよね。
でも、何となく間延びしたような雰囲気が、好きです。
さて、ピンぼけ写真。
ピンぼけ写真には大家が何人もいます。
例えば1960年代末の森山大道さん。
わたしの身近にも浜田涼さんというピンぼけ名人の美術作家がいます。
そのような作家の方々は、概ね最初からピンぼけを意図しています。
しっかりした作品コンセプトがあるからです。
あるいは偶発的現象を集積して、一つの表現に昇華しています。
どうして、そのようなことをするのでしょうか。
考えられる一つは、やはり近代批判です。
カメラは機械ですが、近代は機械文明であり、機械と科学は密接な関係にあります。
自然や人間の観察に正確さを求めて、カメラ(機械)は発達してきました。
人間の眼よりも遥に精緻な観察を可能し、真実への認識を深めると考えられたからです。
ピンぼけとは、それに対するアンチテーゼです。
人間の眼には光学的数値や画素数に還元できない能力があります。
その能力の源を求めて、(先祖返りのような)ピンぼけの作品は生まれたと思います。
これは、オマケです。
撮影者はわたしではありません。
脳梗塞のリハビリ中の父がシャッターを切りました。
父は写真を趣味としていましたので、リハビリとして勧めてみました。
わたしが機材のセッティングと被写体のセットをして、構図とピントを任せました。
が、父は久しぶりの撮影で手順を忘れ、ピントも構図もアバウトのままシャッターを切ってしまいました。
それが、上の画像です。
これも怪我の功名かもしれません。
テーブルの上は洋梨と無花果の作り物です。
偶然とはいえ、構図と配色がナイスと思っているのですが、如何でしょうか。