休みの朝、気が向いてわたしは散歩に出かける用意をしました。
小さなカメラとiPodをポケットに入れて、近所の公園に向かいました。
イヤホンを耳に差し込み、いつものように曲のシャッフルを選択。
公園の入口を過ぎたころ、曲の調子が変化しました。
ロックやファンクから歌謡曲に変わったのです。
むせび泣くようなサックスのイントロにストリングスが絡み、気怠(けだる)い女性ヴォーカルが歌いだしました。
西田佐知子です。
たしか散々聴いた曲なのですが、とても新鮮です。
iPodのディスプレイで曲名を確認すると、「たそがれの恋」。
気分は高揚して、わたしは歩きながら歌詞に聴き入りました。
二番の歌詞の後半、そこで足が止まってしまいました。
ありふれた言葉を使いながら、見事な心模様の描写。
それを歌い上げる西田佐知子の歌唱。
今まで気が付かなかったのが不思議なほどの、佳曲、佳唱です。
二番の「ひとりで悩んで〜」から「疲れたわ」までが一息で歌われ、そこから少しスローになって「何をするのも いやなのよ」、そして一層テンポを落として、「もう いやなのよ」。
ありきたりの失恋歌ですが、痛いほど女性の気持ちが解かる歌詞と歌唱です。
西田佐知子の代表曲は「アカシヤの雨がやむとき」です。
「たそがれの恋」は同じ作詞作曲家コンビ。
三番の歌詞は「このまま死んでしまいたい」と同意ですから、「アカシヤの雨」のバリエーションともいえます。
(ミモザはアカシヤの親戚の植物です。)
「アカシヤの雨」よりは歌謡曲らしい歌謡曲で、西田佐知子もより深い感情を込めて歌っています。
歌謡曲は、虚構の世界にリアリティを現出させる芸能です。
失恋した女が、ひとり港のホテルに泊まっている。
現実ではこんなことはありません。
あったとしたら、その女はよほどのナルシストです。
散らかったアパートの一室で泣きはらしているか、どこかのバーで自棄(やけ)酒を飲んでいるが、現実です。
「たそがれの恋」は1967年のリリース。
高度成長期ですね。
港のホテルも遠い夢物語ではなく、現実のすぐ近くまで来た時代です。
汽笛の音は、多分外国に行く客船が鳴らしているのでしょう。
「たそがれの恋」の時代背景は、日本に個人という概念が定着した頃です。
女が旅館にひとりで泊まったら、怪しまれる。
自殺でもされるのではないかと、警戒されます。
でもホテルだったら、何の問題もありません。
ホテルの一室は、生活の匂いがなくて、自分自身の世界に没入できます。
個人が占有できる、空間です。
自由な恋に破れた女が、虚脱して、タバコの灰に気が付かない。
その虚ろな眼は、海の遠い向こうを見ていたのかもしれません。
「たそがれの恋」は、何のしがらみもない個人の関係喪失の詩です。
だから、深読みすれば、
「ひとりで悩んで 苦しんで なんだかとても 疲れたわ 何をするのも めんどうくさくて もう いやなのよ」
は、近代の個人の詩なのかもしれません。