わたしは、今悩んでいます。
何を悩んでいるかといえば、窓から見える景色に悩んでいます。
わたしは、東京恵比寿の某ホテルのエグゼクティヴ・スイートから外を見ています。
仕事中です。
隣室にこれから調査対象が現われるはずです。
依頼人は調査対象の配偶者で、依頼内容は素行です。
有体にいえば、不倫の現場確認です。
わたしの探偵事務所は東京に近いK市です。
人口五十万余の都市で、住居であるダイナマイト・シティの隣市です。
探偵業からすれば、広すぎず狭すぎない、ほど良い広さの都市です。
調査するには広すぎず、顔を覚えらるほどには狭くない、からです。
今回は出張で東京に来ました。
学生時代と就職、結婚は東京でしたから、土地勘はあります。
それに、別居の妻は東京在住ですし、住民票もまだ東京にあります。
窓から見える、景色です。
東京タワーが見えますね。
左端は六本木ヒルズです。
ホテルの部屋に着いて、窓を開けました。
十五階から見える景色は新鮮で、しばらく眺めていました。
その時、頭の中で一つのメロディが流れ始めました。
「東京物語」。
森進一のヒット曲で、わたしが愛聴したのは近田春夫&ハルヲフォンのカヴァー。
アルバム「電撃的東京」の一曲でした。
作詞は当時のヒットメーカー、阿久悠。
阿久悠はある雑誌のインタビューで、「東京物語」について語っていました。
「東京物語」は小津安二郎監督の名作「東京物語」へのリスペクトであり、誰しもが夫々の「東京物語」を持っていると。
つまり、歌謡曲「東京物語」は、阿久悠の個人的な「東京物語」なのです。
そのことを思い出したわたしは、唐突にわたし自身の「東京物語」について考え始めました。
夕暮れです。
隣室に到着した調査対象とその連れは、二人だけの「東京物語」に浸っています。
わたしの仕事は、その「東京物語」を「動かぬ証拠」に換えることです。
さて、わたしはまだ悩んでします。
わたし自身の「東京物語」が描けないからです。
わたしにとって東京とは何だったのでしょうか。
東京で過ごした時間は、今までの人生の半分ぐらいです。
しかし、わたしの精神に及ぼした影響はそれよりももっと大きいでしょう。
わたしは、長らく東京依存症の患者で、今も完治していません。
窓から見えるのは観光的景色ですが、東京は多くの地方人にとって、観光として最初に姿を現します。
ですから、わたしの「東京物語」もこの景色から出発したはずなのです。
朝、です。
調査は順調に進んだので、少しだけ休ませてもらいました。
ツインのベッドの窓側に横になり、東京の夜景を見ながら眠りにつきました。
「東京物語」の歌詞は、都会の片隅で芽生えた恋のスナップです。
すれ違いざまに目と目が合って、生活を共にする二人。
そんな自由と、背中合わせにある切なさを描写した、青春の詩(うた)です。
どこかで忘れた青春のかざりもの
さがしているような東京物語
「東京物語」の一番の歌詞の最後です。
この歌詞を思い出して、わたしは悩みから少し解放されました。
わたしは、この広い東京のどこかに青春のかざりものを忘れたのです。
わたしにとって、東京とは青春の街だったのです。
唯一、「ノー」と大声でいえる街だったのです。
わたしは、探偵です。
仕事の大半を終えた探偵は、自分自身の探し物をしています。
窓から見える景色から、「東京物語」をスタートさせなければなりません。