その日わたしは、少し疲れていました。
馴れない街を用事で歩いたせいか、夕方には足取りが重くなっていました。
一息入れたくなって辺りを見回すと、一軒のバーが目に入りました。
正確にいえば、チャイニーズレストランに付属したバーです。
お腹は空いていなかったので、バーの利用であることを断って、スツールに腰を下ろしました。
まだ夕方の六時前だったので、わたし以外に客はいませんでした。
酒に強くないわたしが一人でバーに入るのは珍しいことですが、その日はそんな気分でした。
コーヒーではなく、アルコールで疲れを癒したいと身体が要求したからです。
注文したギネスをユックリ飲んでいると、一つ置いた隣りの席に男が座りました。
男はスーツ姿で、定年間近と思える年頃です。
しばらくして、男が「火を貸してくれませんか」と声を掛けてきました。
わたしがカウンターにタバコとライターを置いていたからでしょう。
「あ、良いですよ」とわたしはライターを点けましたが、生憎ガス切れで点火しません。
やり取りを見ていたバーテンダーが、スッとマッチをカウンターに出してきました。
男は「気が利くねェ」と会釈して、タバコに火を点け、マッチをわたしに差し出しました。
わたしも会釈して受取り、タバコに火を点けました。
それがきっかけとなって、わたしと男の話が始まりました。
仕事の話から始まって、話題が二転したころ、二杯目のギネスが空になりました。
わたしが席を立つと、男も席を立ち、ドアを出て反対方向に別れました。
男も、帰宅前に軽く飲みたくて寄ったのでしょうか。
自室に帰ってバッグからタバコを出すと、一緒にあのバーのマッチが出てきました。
わたしは持ち帰る必要がなかったので、男に渡したつもりが、バッグに入れてしまったようです。
マッチを裏返すと、そこにボールペンで走り書きがありました。
「今週日曜J植物園温室」。
J植物園は東京近郊にある著名な植物園です。
男は多分、予定を忘れないようにマッチに書き留めたのでしょう。
わたしは植物にはさほど興味がありませんが、温室には一度行ってみたいと思っていました。
わたしには温室のイメージが二つあって、一つは植物の科学的観察や観賞です。
もう一つは退廃したイメージで、映画「三つ数えろ」のシーンが因(もと)です。
「三つ数えろ」は、ハンフリー・ボガードが私立探偵フィリップ・マーローに扮した映画です。
ストーリーはすっかり忘れてしまいましたが、冒頭辺りに温室のシーンがあります。
マーロウの依頼主は両肢不随の富豪老人で、老人は温室で詳細を語ります。
車椅子の老人は、汗を滴らす秘書やマーロウとは対照的に、温室に似合わない厚着をしています。
むしろ、寒そうな様子さえ見せます。
その不健康さは、身体の病気というより精神のそれで、映画の舞台であるロスアンジェルスの腐敗を象徴しているようでした。
わたしは、J植物園の温室に行ってみることにしました。
立派な温室に行った記憶がないので、一度は見てみたいと思ったのです。
男と会う可能性はありますが、又話をしてみるのも面白かもしれません。
男は礼儀正しくて、会話の巧みな人でしたから。
温室は、広大な植物園の入口すぐ右にあったのですが、左に出てしまったわたしは三十分ほど回り道をしてしまいました。
ガラス張りの二棟の温室が翼のように拡がり、間に休憩室らしきものがあります。
入口を入ると、密度の濃い暖気と湿気が全身に降りてきます。
繁殖する植物の間に小道が設けられていて、下ると小さな池に通じていました。
高い湿度の所為か、池の前でメガネが曇り、しばらく立ち止まりました。
曇ったレンズ越しに二灯の照明が、白くボンヤリと見えます。
池から先はカーブした上りの小道で、上りきるとドアがあります。
開けると広い休憩室で、テーブルと椅子、飲料の自販機、トイレなどがあります。
とりあえず休憩は後にすることにして、向こう側の温室に入ってみました。
こちらは大きな池が二つあって、蓮と水草の温室でした。
池の周りには鉄の手すりが廻してあり、観客は手すりに身を預けるようにして覗き込んでいます。
日曜ですから、結構な人だかりです。
狭い通路を注意して歩いていると、出口辺りで男の背中を見つけました。
肩をそっと手を触れて、「こんにちは」と声を掛けました。
振り返った男は訝しげな顔をしながら頭を下げましたが、すぐに気が付いて、「ああ」と応えました。
マッチの一件を話すと男は得心したようで、わたしを休憩室に誘いました。
テーブルは一つだけ空いていて、男は自販機からアイスコーヒーを二つ買ってきました。
外は初冬の陽気でしたが、温室の中は冷たい飲み物の方が適しています。
男は、休日を利用して方々の温室を訪ねているそうです。
ここのような公共に限らず、時には私有(プライベート)の大きな温室も見学しています。
最初は植物や花に興味があって、そのうち温室そのものに魅かれたようです。
「温室の美しさは、人工的で不自然です。その美しさに魅かれるわたしも、相当に不自然な人間です」。
男は自嘲気味に自分の趣味を語り始めました。
「鉄とガラスで覆われた亜熱帯の楽園には、過去がないのです」。
わたしは意味が良く分からなくて、聞き返しました。
「過去がないとは?」。
「ここで繁殖している美しい花や植物には、過去がないのです。過去を失ったものには現在もありません。だからわたし達が見ているのは幻かもしれません」。
ますます、分かりません。
男は学校の講義のように、温室の由来について話してくれました。
17世紀のヨーロッパ王族、貴族で広まった温室は、プラントハンターと呼ばれる人たちによって亜熱帯の植物が移植されました。
温室には政治的意味合いもあって、王権の確立と植民地支配に無縁ではなかったそうです。
その後に起きた産業革命によって、ガラスと鉄の建築が温室に定着しました。
つまり、時代の転換が温室を生み、そのまま現代まで残ったのです。
「美しい女や男に過去がなかったら、貴方はどう思われますか」。
男が質問してきました。
過去のない女や男、それが絶世の美しさであっても、気持ち悪いものです。
「そういう女や男が哀れで、わたしは温室に足を運ぶのです」。
話が一段落すると、男は先に失礼することの非礼を詫びて席を立ち、外の植物園の散策に出かけました。
整理のつかない考えを抱えたわたしは、残りのコーヒーを飲みながら、頭で会話を反芻しました。
「過去がない、花や植物」。
思考が進まないまま、いつしか想いが「三つ数えろ」に移っていました。
あの富豪の老人は退役軍人で、温室や温室の植物を愛でていました。
あるいは、ステータスとして誇っていたのかもしれません。
わたしの記憶は不確かですが、いずれにしても、そんな理由で温室を面会に選んだのでしょう。
あのシーンの異常さは、倒錯した人間と社会を連想させました。
温室には、その明るさとは対照的に、暗い秘密が潜んでいるようです。
気が付くと、一時は混みあっていた休憩室も、空いたテーブルの方が多くなっていました。
わたしも席を立とうとして顔を上げると、又メガネのレンズが曇ってきました。
湿気が休憩室まで漏れてきたのでしょうか。
ハンカチで拭こうとすると、曇っているのはレンズではなくて、窓ガラスでした。
朧げに見える景色は、内側に回り込んだガラスと鉄の温室でした。