東北自動車道の館林インターを降りて、バイパスを高崎方面に走り、小桑原の交差点を右折。
バイパスはわたしの住む山梨と同じで、チェーンのファミリーレストランと大型物販店が並んでいます。
どこの地方都市でも見られる光景で、初めてきた土地とは思えません。
小桑原の交差点から五分ほど行くと、群馬県立館林美術館の大きな案内板が立っています。
そこを左折すると辺りは公園で、駐車場の案内に沿って進むと、美術館が見えてきます。
クルマを停めて道の反対側を見渡せば、遠くの方まで緑の水田が続いています。
エアコンの効いた車内から出ると、幸いの曇り空にも関わらず、蒸し暑い空気が身体に張り付いてきます。
駐車場からアプローチを経て美術館の中に入ると、再びエアコンの涼気が全身を冷やします。
「夏の蜃気楼」。
今日の目的の展覧会です。
平日の昼とあって、館内は疎らな人。
十人前後のグループが広いロビーに入ってきただけで、館内の雰囲気が賑やかになります。
近代的な平屋の二棟(別館も一棟あり)の周りは芝生と池で囲まれ、途中のロードサイドとは別世界です。
「夏の蜃気楼」、見応えのある展覧会でした。
お目当ては写真作品を出品した二作家でしたが、他の作品も楽しめました。
ミュージアムショップでカタログやグッズを買って、隣接したレストランで一休み。
レストランに他の客はなく、ユッタリとした気分で、わたしと妻はケーキセットとビールをいただきました。
ガラス張りのレストランから見えるのは一面の芝生。
遠くに見えるのは運動場の照明灯と送電搭。
お茶を中座して、わたしは持参したカメラを手に芝生の庭に出ました。
店内からの景色とは異り、庭は地面からの熱気が立ち昇っています。
それでも遮るものがないだけに、身体にあたる風が気持ち良く感じられます。
美術館の全景です。
庭に突き出した展示室と本館で構成された、モダンな建築です。
幾何でデザインされた、スッキリとした空間。
わたしの好きな造形です。
とても気持ち良い空間ですが、わたしはふと考えてしまいました。
文化とは何だろうか。
唐突な設問ですが、頭に浮かんだものは致し方ありません。
美術館の、日常とは別世界のような空間が文化なのか。
もしこれが文化だとしたら、途中のロードサイドの風景は何だろうか。
あれも、文化なのだろうか。
もしどちらも文化だとしたら、それを結ぶ回路は存在するのだろうか。
わたし達の日常生活の中に文化があるとすれば、それは消費文化です。
モノやサービスを貨幣の対価として消費していく、文化です。
文化とは生活様式、行動様式の総体です。
わたし達の生活様式、行動様式を規定しているのは消費ですから、それは文化と呼ぶ他ありません。
だとしたら、ロードサイドのショッピングセンターは文化の中心地といえます。
一方で、人間の精神活動から生まれたものも文化と呼びます。
それを展示、観賞する場所が、美術館のような文化施設です。
前者の文化で、わたし達は消費者として存在します。
後者の文化では、わたし達は市民として存在します。
この二重構造が近代的人間の特徴で、それぞれの文化の基盤になっているのは市場経済と民主主義です。
いきなり難しいことを考えてしまったわたしは、思考が停止してしまいました。
そういうことではなくて、直観で感じたことを感覚的に考えなければいけません。
このページは、「iの研究」ではなくて「iPhoto」ですから。
つまり、こういうことです。
わたしは常々自分の生活が貧しいと感じていました。
生活の中心が、モノやサービスを購入してそれを消費するだけだからです。
そこには確かな何かが欠けていて、生活をしている実感がありません。
わたしはパートタイムとはいえ美術関係者ですから、一般の方よりは文化の近くにいます。
映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたりするのも好きです。
人間の精神活動としての文化に親しんでします。
にもかかわらず、わたしの生活は悲惨なほど貧しい。
嘆いても誰も助けてくれないし、自分の責任かもしれないので、わたしはなおも考えました。
生活と(人間の精神活動としての)文化の乖離、分離がその因ではないか、と。
(生活の中に芸術を、といった文化運動で救われる話ではありません。)
館林美術館は自然環境に位置しています。
しかし、その自然環境はむき出しの自然ではなくて、当然人間の手の入った自然です。
そして、美術館の周囲は人間の手によって見事に管理された自然です。
人工的な自然です。
この空間を、わたしは気持ち良いと思う。
思いながら、もしかしたらそれは気持ち悪いことかもしれない、とも思ってしまう。
機械的な直線や曲線で構成された建築と自然環境。
それを美しいと思うわたしの感覚と、それを密かに疑う気持ち。
わたしの生活の文化的貧しさと、この分裂した思いは、今は結びつきません。
漠然と感じた二つの事項に過ぎません。
お読みになっている方には、何が何だか分からないと思います。
わたしの頭の悪さの所為であり、文化の本当の意味を解っていない所為です。
でも、いずれは結びつけなればいけませんし、そうしなければわたしの貧しさは救われないでしょう。
結びついた時、わたしはもう少し文化について語れると思います。