「iの研究」の第一回は<愛>の研究です。
<愛>とは何か?この問題をちょっとだけ考えてみます。
極端なケースからいきます。
<愛>のために死ねるか?<愛>のために人を殺せるか?
極端でしょ?
実はですね,BSで録画した昔の日本映画観てたら,映画がそんなテーマだったんですよ。
監督増村保造、主演若尾文子の二本立。
「妻は告白する」(昭和39年製作)、「女の小箱・より/夫が見た」(製作年度不明)。
なかなか扇情的(死語?)なタイトルです。
「夫が見た」はいきなり若尾文子の入浴シーンから始まります。
当時のごく普通の手法で、顔が写ると若尾文子本人、裸体は別の人。
今観ると微笑ましい。
しかし若尾文子の化粧が濃い。
これまた当時としては普通だったんでしょうが、それにしても濃い。
今の化粧は濃くても濃く見えないから濃さでは変わらないかもしれないが、これでは素顔がよくわからない。
というわけで3時間余りその濃い化粧と付き合ったわけですが、中身も濃かったです。
ストーリーを紹介すると・・・・。
「夫が見た」は、若尾文子と川崎敬三が夫婦。
川崎敬三は一流企業のサラリーマンだが、会社が乗っ取りの危機に遭っている。
乗っ取ろうとしているが田宮二郎で、彼はボーイからたたき上げ今はナイトクラブを数件経営している。
彼の夢は一流企業の経営で、その野望の為に愛人岸田今日子に犠牲を強いる。
つまりここぞという時には岸田今日子の身体を使う。
川崎敬三は乗っ取り阻止の最前線で田宮二郎と戦うが、妻である若尾文子には飽きている。
仕事と称して愛人をつくったりもする。
さて、ひょんなことから若尾文子と田宮二郎が知りあい、田宮二郎が川崎敬三の保有する株主名簿目当てに若尾文子に接近する。
そこから恋愛まで一直線。
もちろんその間にはいろいろありますが。
すべてを捨てて愛を成就しようとするのだが、後一歩のところで、裏切りに耐えられなかった岸田今日子に田宮二郎は刺される。
若尾文子も呼び出して殺そうとする岸田今日子を田宮二郎は死を覚悟で殺す。
駆けつけた若尾文子と田宮二郎は血の海の中で抱擁する。
田宮二郎の死で映画は終わる。
若尾文子は夫に愛されていない事がどうしても我慢できない。
彼女は専業主婦で真面目な人だからそれはよく解る。
時代も今とは違う。
岸田今日子は田宮二郎の野望に身体を張って尽くした人である。
彼女は田宮二郎を深く愛している。
別れの代償として渡された大金(田宮二郎の精一杯の誠意)に彼女は意味を見いだせない。
当たり前ですね。
田宮二郎は野望のために遮二無二に生きてきたが、愛の深さを知ってすべてを捨てそれに忠実に生きようとする。
三人は愛することに真剣に自分の人生を賭けたのです。
その結果が二人死亡、一人は廃人(多分)。
怖いですね、<愛>は。
郷ひろみの「アッチッチ」どころじゃないです。
まともに<愛>と付き合うとこうなっちゃうんでしょうね。
映画の中で若尾文子は執拗なほど相手に<愛>を確認します。
「あなたは私を愛してますか?」「あなたの夢を捨ててまで私を愛せますか?」
この執拗さが悲劇の原因といえば原因ですが、なんか説得力ありますよ、若尾文子の演技。
演技派というより大根に近い人だと思うのですが、女優として色気があります。
<愛>とはじつに危険なものであるという映画でした。
さてもう一本。
「妻は告白する」。
今度は若尾文子が命を賭ける。
薬学部教授小沢栄太郎と若尾文子が夫婦。
小沢栄太郎が助教授時代、苦学生だった若尾文子がアルバイトで助手を勤めるが、半ば暴力的に結婚させられる。
苦学生だった若尾文子は将来に夢もなく、現実の辛さから逃れようとして小沢栄一の意のままとなる。
薬学部教授である小沢栄太郎のもとに製薬会社の社員である川口浩が仕事で足しげく通うようになる。
定石どうり川口浩と若尾文子は親しくなる。
そして山好きの小沢栄太郎に連れられて三人で登山に出かけるが、滑落して小沢と若尾は一本のロープで結ばれて宙吊りになる。
滑落から逃れた川口が上で必死でロープを掴む。
そこで宙吊りの上側にいた若尾がロープをナイフで切る。
果たしてその行為は不倫による殺意からなのか、緊急避難(このままでは三人とも死ぬので)なのか?
映画はその裁判の冒頭から始まります。
映画は法廷ドラマとして過去を振り返りつつ進行します。
ここでも若尾文子は夫に愛されない妻、夫につきあってもらえない妻の役柄です。
実は小沢栄太郎は妻を愛しているのですが、愛し方がよく解らない。
若尾と川口の中を疑って愛が憎悪に逆転します。
こういう人は憎悪の表現だけは上手い。
ネチネチいくわけですね。
川口浩には取引先の令嬢という婚約者がいる。
エリートで前途も洋々です。
前の映画との大きな違いは、田宮二郎が修羅をくぐった大人であるのに対して川口浩は純真な青年である事です。
つまり大人の納得ずくの恋愛が前者で、後者は若尾文子に引きずられる形で川口浩は恋愛にはまっていきます。
川口浩は裁判中も若尾文子が殺意をもってロープを切ったのではないかという疑いから逃れられないが、若尾文子の愛情の濃さにズルズル引き込まれていく。
気が付いてみると若尾文子は無罪になり、自分は婚約を破棄して若尾と一緒になることになっている。
青年の正義と若さの所為です。
「実は殺意をもってロープを切った」と告白されても、彼は引き返せない。
愛情が正義に勝ったわけです。
が、無罪になった若尾文子が夫の保険金で二人の新生活用に豪華なアパートに引っ越すと彼の正義が俄然力をもたげて別れてしまう。
「そんな金で贅沢はしたくない」と。
すべてに失望した川口浩は自ら転勤を願い出て、元婚約者に今までの経緯を話して東京を離れる決意をする。
その日、元婚約者は退社する川口を会社の入り口で待っている。
川口に面会の知らせが来る。
聞くと、若尾であるという。
彼は居留守を使うが、すでに若尾は部屋の入り口に立っている。
ここがこの映画のハイライトです。
全身ずぶ濡れの和服姿で、その異様さにまったく気が付かず立っている若尾。
部屋中の社員はその姿を見て、全員凍りついたように立ち尽くす。
怖いですよ〜、このシーン。
<愛>が服を着て立っている!
凄まじく純度の高い<愛>が。
すでにアッチの世界の住人である若尾に恐れをなした川口はそれでも自分の正義故に別れを宣言する。
「人を殺した人は、人を愛せるはずがない」と言って。
若尾は会社の洗面所で服毒自殺する。
(若尾は若い頃から青酸カリを隠し持ってるようなアブナイ人でもありました。)
その前のシーンに元婚約者と川口の会話があります。
自分の非を詫びる川口に婚約者は言う、「貴方は奥さん(若尾)を愛していましたか?奥さんは貴方を本当に愛していましたよ。なんで受け止めてあげないのですか?私と貴方と奥さんの中で本当に人を愛していたのは奥さんです。人を殺してまで貴方を愛していたんです。私も女としてそうしたい。でも私には勇気がない。女はみんなおんなじ気持ちです。」。
そして若尾の死後、駄目押しのように元婚約者は決別の言葉を放つ。
「奥さんを殺したのは貴方です。奥さんが人殺しなら、貴方も人殺しです。もうお会いしませんわ。さようなら。」。
わたしは川口青年が可哀想でなりません。
こんな純度の高い<愛>にいきなり会ってしまったら誰だって川口青年と同じ行動をとるでしょう。
何たって彼は若いのですから。
こっちの映画も死者二名、再起不能(多分)一名。
映画では特に触れていませんが、若尾文子は結婚前から心に空洞を持った人だったんでしょう。
その空洞を結婚生活で満たそうとしたがかえって拡がった。
大きくなってどうしようもなくなった空洞を<愛>で一気に埋めようとした。
そういった心の空洞は仕事とか趣味とかで少しづつ埋めたり誤魔化したりできるのですが、彼女にはそれが無かった。
大きな空洞を<愛>で一気に埋めようとした、そこに悲劇がありました。
空洞とは何でしょうか?
空洞とは関係の欠如だと思います。
自分が必要とし、必要とされる関係からの疎外ではないでしょうか。
関係から疎外された時、人は往々にしてもっとも濃い関係である<愛>に奔ります。
しかし、<愛>とは危険なものです。
求める強さが強いほど純度が高くなります。
純度が高ければ高いほど怖い。
しかも快感が強い。
求める強さ(純度)にすれ違いが出来ると悲劇が生まれます。
川口青年は若尾の空洞の大きさ(求める<愛>の純度の高さ)が解らなかったのです。
ありふれたドラマの筋でありながら、<愛>の怖さを見せつけてくれた増村保造監督と若尾文子の力量は流石です。
純度の高い<愛>がこれほど恐ろしく、しかも崇高な<美しさ>を持っているとは思いませんでした。
人が空洞を埋めようとして真剣に関わるとき、そこには<美しさ>があります。
優れた美術作品も同じです。
作家が空洞を必死になって埋めようとしてそれが作品になったとき、わたしはそこに<美しさ>を観ます。
そしてそこに作家と観る者の関係が出来るのです。さて、最初の設問の答えは?
<愛>のために死ねるか?<愛>のために人を殺せるか?
死ねます、殺せます。
それが人間というものではないかと思います。
<第一回終わり>