<美貌>というものは不思議なものである。
<美貌>を目のあたりにすると心が浮き浮きしたり、うっとりもしたりする。
世の中から<美貌>と認定された人以外、つまり大多数の人は<美貌>に憧れる。
自分が<美貌>であったらと、夢を見る。<美貌>という言葉は今あまり使われていませんが、わたしはこの言葉が好きです。
この言葉の響き、及び文字の並びも好きです。
<美貌>とは、「美しい顔かたち」のことです。
同じような意味で「美人」という言葉も使います。
「美人」は概ね顔かたちを指しますが、スタイル(プロポーション)も含まれます。
逆にプロポーションを指して、顔かたちが従の場合もあります。
スーパーモデルとかマレーネ・デイトリッヒがそれです。
上の画像の人(宝塚宙組の新トップ)もプロポーションが抜けて綺麗な方です。
現実にはやはり「美しい顔かたち」として使われてる場合が多いようです。
ですから、今回の研究はおおよそ「美人」の研究とも言えます。「美人」の研究と言えば井上章一さんの「美人論」が有名です。
わたしもこの本が出た当時読んだのですが、大方のことは忘れてしまいました。
今憶えているのは、「美人」の基準が時代によって違うという論考です。
時代によって「美人」像が違い、「美人」に対する考え方も違うということです。
確かに、わたしが小さかった頃<美貌>ともてはやされた女優も、今ビデオで観てみると大した事がなかったりします。
わたしが個人的に<美貌>と思った女優さんもしかりです。
あの時のわたしはどういう基準でモノを見ていたのだろう、と自分が疑わしくもなります。
今<美貌>だと思っているあのタレントも20年たって振り返ったら・・・・・・・。
<美貌>が時代によって変わるということは、人々の顔に対する審美基準が一定でないということですね。
考えてみれば、眉、眼、鼻、唇それに耳の各器官の造作と配置具合、それと顔全体の形で<美貌>が構成されているわけです。
なんかバカバカしくなりますね。
恐らくですね、冒頭に書いた「浮き浮き」、「うっとり」はそういったディテールを見て感じるわけではないと思います。
あくまでも結果的に分析すると、「鼻が高い」とか「眼がぱっちりしてる」とかになるわけで、その学習効果として、自分はどうも「タラコ唇」を美しいと思うらしい、になるわけです。
では、人は<美貌>に出会ったとき何をそこに見るのでしょうか?
わたしは「夢」ではないかと思うんですよ。
自分が求めているのだけれど、一体なんなんだか解らない曖昧模糊とした「夢」。
それが、<美貌>の正体ではないでしょうか。「夢」であれば、同時代的な共有もありますよね。
アメリカに憧れたあの時代、といった意味で。
「夢」も長いスパンのものと、短いスパンのものがあって、それがそのまま長続きする<美貌>と短命に終わる<美貌>になります。
かっては映画は夢の世界で、スクリーンの美男/美女の<美貌>はそれを体現するものでした。
わたしが高校生の頃見た映画に「グレート・レース」という映画がありました。
大昔の自動車レースをストーリーの軸にしたドタバタ喜劇で、ジャック・レモンとトニー・カーティスが主演でした。
トニー・カーティスが<美貌>の二枚目で、いつも白ずくめの衣装に身を纏い、もちろん正義の人です。
対するジャック・レモンは悪の博士でいつも黒ずくめ。
が、主役はジャック・レモン。
この人がメチャメチャ面白い、ドジで間抜けだけど面白い。
トニー・カーティスはなんとなく所在なげで影が薄い。
でも、彼が笑うと綺麗な歯からキラリと星形の光が放たれます。
こちらをニッコリして見る眼からも星形の光がキラリ。
これは比喩ではなくて、映画で実際にそうなります。
この映画は、それまでの<美貌>がすでに有効でないことを告げていたのですね。
「夢」は終わったと。
後年、わたしは橋本治の著作でそのことを知りました。
「夢」云々はわたしの勝手な発想ですが、あの星形の光は忘れられません。
それを笑った自分に戸惑った記憶があります。
多分わたしは、まだ「夢」を見ていたのでしょう。
そして、時代はテレビの全盛になるわけです。
テレビの時代にももちろん「夢」はあります。
「夢」のない時代だ、と言われても「夢」はあります。
だって、<美貌>は今だってあるでしょ?
さて、その「夢」を努力で叶えようとする人がいたら何をするのでしょうか。
「整形」ですね。
ま、「化粧」というのもありますが、わたしにはまだ研究不足。
これはこれで奥が深い話になりそうなので後日・・・・。
「整形」、ここでハタと気がつきました。
叶姉妹の叶は「夢」を叶えるの叶だったのか!
叶恭子さんはそれであの本を書いたんだ、「夢」を叶える=<幸せ>だと。
日々の努力で内外の<美貌>を研くが、あの本の主題でした。
そうか、それで叶恭子さんは「整形」してるんだ。
「整形」は「夢」を叶える努力であるにもかかわらず、嫌われています。
安直すぎる、発想がなじめない等々、この努力はなかなか認められません。
<美貌>のもつ神秘性や、それこそ「夢」が壊れるからでしょうね。
日本の文化的環境にも今一つ馴染まない。
しかも、「整形」には重大な欠点がある。
それは、古くなった「夢」は恥ずかしいということです。
かって憧れた「夢」も時が経てば単なる恥ずかしい思い込みであったという経験、ありませんか?
その「夢」が現前にあるというのは残酷なものです。
常に「整形」を更新しなければ、<美貌>に置いていかれてしまう。
ちょっと大変ですね。
ここまで書いてみると、わたしが男性であることもあって、<美貌>の対象が女性の場合が多いように思いました。
<美貌>自体は当然男女共にあるわけですが、結婚という「市場」を考えると、やはり女性の<美貌>の商品価値の方が高くなります。
<美貌>である方が「市場」では有利である。
男は経済力のある方が有利です。
それもだんだん変わりつつありますが、現状ではまだそんなところです。
でも、<美貌>の方も結構大変じゃないかと思います。
だって、みんなの「夢」を体現してるわけですから。
本人の都合には全然関係なく。
(ここもわたしが<美貌>でない為に推論になってしまいますが。)
羨ましいと思いますが、大変だなーとも思います。
スタァが短命だったり、変な死に方をするのはその所為でしょうか。
「夢」に潰された結果なのかもしれません。
さて、最後に男の<美貌>。
このあいだの連休に友人が泊り掛けで遊びに来ました。
夜は映画でも観ようかということで、ビデオを借りてきました。
「踊る大走査線 the MoVIE」。
一昨年から去年にかけて大ヒットした映画です。
映画の最後の方で、怪我をした織田裕二が病院でリハビリするシーンがあります。
この時、アップになった織田裕二の顔は<美貌>そのものです。
ニッコリ笑った織田裕二の表情には眩しい「夢」があります。
この映画は織田裕二の<美貌>が全てですね。
しかもその<美貌>には説得力がある。
別にファンでも何でもないわたしがそう思ったんですから、ヒットするわけです。
蛇足的に書くと、この映画は織田と柳葉敏郎の恋愛映画でもあります。
「友情」ではないですね、これは「恋愛」です。
しかも相当濃い。
柳葉の初めから終わりまで続いた思い詰めたような顔つきがその証拠。
よって、本来の相手であるはずの深津絵里は刺し身のツマ。
でもですね、織田裕二は全然それに気がつかない。
<美貌>ってどこかマヌケなところがありますね。
そこが又良いのか。今回の研究は、美学的な見地をあえて外しました。
実際問題、やろうとしても力量がないので出来ません。
とりあえず、「夢」は「夢」のままにしたいと思いまして。
それの方がね・・・・・・・・。<第八回終わり>
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