iの研究

第八十四回 <コインランドリー>の研究


あれはもう60数年前の事ですから、朧げにしか憶えていません。
わたしが幼稚園に入園する前の5才ぐらいの時のことです。
当時家族4人で住んでいた貸間(水道もトイレも何も付いていない部屋)から歩いて数分のところに、小さな川がありました。
その川に、母は洗濯に出掛けました。
いくら昔とは言え、その時代に川で洗濯するのは稀で、水道や井戸のある水場が普通でした。
川の近くには家内工業的な繊維関係の工場があり、そこから温水が川に注ぎ込んでいました。
つまり冬でも川の水温が高かったので、母は川まで洗濯に出掛けたのです。
幼い子供がそんな事まで憶えていたのは不思議ですが、映像的な記憶は1枚の静止画しかありません。
川の縁で洗濯をする母と近所の主婦の姿だけです。
貸間のあったところも、小さな川のあった場所も、その後広い幹線道路に変わって、今はまったく面影もありません。
だからその工場も確かめようがなく、母も亡くなったので、朧げな記憶だけが残っています。

わたしが大学入学で上京したのは1968年で、川の洗濯から13年ほど過ぎてからです。
既に二層式の電気洗濯機が多くの家庭に普及していましたが、下宿、アパート暮らしの学生は従来通り手で洗濯をしていました。
そんな中、東京青山にコインランドリーが出現しました。
丁度マクドナルド1号店(銀座三越)オープンと同時期で、コインランドリーの出店も最先端の出来事でした。
場所も流行の発信地、青山。
今では信じられない事ですが、コインランドリーの利用はアメリカ映画でしか見たことのない、オシャレな行為だったのです。
大学の同級生だった妻の親友(同じく同級生)は下北沢に住んでしました。
彼女は九州出身でしたが流行に敏感な質(たち)で、ファッションもメイクも最先端。
その彼女がさっそく、洗濯物を持って電車に乗り、青山のコインランドリーに出掛けたのです。
サスガと言うか何と言うか、この話は最初は驚きとして、やがては笑い話としてわたしの頭のメモリーに収蔵されました。
しかし時代というものは恐ろしいもので、最先端が笑い話になり、そして再度最先端になって行くのです。

その後、青山で誕生したコインランドリーは都内のどの町にも見られるようになり、全国に普及して行きました。
多かったのは銭湯に付設されたコインランドリーで、入浴している間に洗濯が終わるのは誠に便利でした。
人間も衣類も同時にランドリー、というわけですね。
しかしながら、その普及が進むにつれコインランドリーは暗い場所へと変化していきました。
蛍光灯の幾分暗く冷たい光、乱雑に置かれたマンガ本や雑誌、洗濯機の共有もいつしか不衛生を覚えるようになります。
あの青山のコインランドリーの輝きは遠い過去で、笑い話として話題になるのがオチでした。
ところがところがです、去年あたりからコインランドリーは再び最先端としてスポットを浴び始めたのです。



コインランドリーなのにカフェやショップが併設されていて、スタイリッシュなコミュニティに変身していたのです。
しかもこの波は青山ならぬドイツや北欧からで、オシャレ度も倍増。
テレビやネットの映像で見ると、店舗はアップルストアかと思えるほど清潔で洗練されていています。
あの銭湯横のコインランドリーの貧乏臭さは皆無で、大型のマシンもあって、毛布や布団もリーズナブルな価格で洗濯できます。
洗濯代行などの各種会員特典、又店舗によっては衣類を畳んで配送といったサービスも。
背景には働く女性や共働きの主婦が増えたことが関係しているそうです。
下北沢の彼女とは疎遠になってしまいましたが、この先端のコインランドリー、もう行ったのでしょうか。
彼女に孫はいないはずですが、もしいたとしたら遠い昔の先駆として、あの青山のコインランドリーは誇るべき逸話に違いありません。

小さな川での母の洗濯は近所の主婦と一緒でした。
あの時代の共同の水場での洗濯も、井戸端会議の花が咲いたでしょう。
今の言葉で言えばコミュニティですね。
もしかしたら、最先端のコインランドリーにもコミュニティの芽が育つかもしれません。
そうなったら、まさに時代は巡るですよね。
そう言えば、80年代に『マイ・ビューティフル・ランドレッド』というイギリス映画がありました。
若き日のダニエル・デイ=ルイス主演で、移民問題とゲイを絡ませた青春の佳作でした。
舞台は題名通り、コインランドリー。
薄暗いコインランドリーと時代(イギリス)が交錯していたような記憶がありますが、それは不確かです。
何分、これも遠い昔に見た映画ですから。