iの研究

第八十回 <近頃の小説>の研究 (及び宣伝)


本が売れない、特に文芸書が不振と言われてから長い時が経っています。
原因もいろいろ挙げられていますが、小説のレベルの低下もその一つだと思います。
わたしが学生だった1960年代末、安部公房、大江健三郎、高橋和巳、遠藤周作、三島由紀夫などが旺盛に執筆していました。
今振り返ると、文学界にはキラ星のごとく小説家がいました。
現状は村上春樹の一人勝ちで、後に続く作家が見当たりません。
しかし、この時代でも優れた小説は生み出されています。
例えば、橋本治『98歳になった私』。
内容を本の惹句から引用すると、『時は2046年、東京大震災を生き延びた、独居老人で元小説家の「私」のもとを、「ボランティアのバーさん」やゆとり世代の50代編集者などさまざまな人たちが訪れる……。生きるのは面倒くさいとボヤキつつ、人生の真実を喝破する、橋本流老人文学の傑作!』。
正に惹句の通り、この近未来小説はここ数年ではピカイチの傑作小説です。
なにしろ、ボヤキと呆けが入り混じった独創的な文体には笑えます。
しかも作者(1948年生れ)とわたしはほぼ同年代で、老人の仲間入りした身には分かり過ぎるほど分かってしまう内容です。
人が生きて、生き過ぎて長生きするとどうなるか。
長寿の実態が笑いとともに展開されて、人の哀れや滑稽が容赦なく描写されている。
いやはや長生きするってことは、こういうことなんですね!
悲惨だけど、とにかく笑える。
ほとんど、スプラスティック・コメディ。
生きたくないのに死ねないのは、ホント喜劇です。
自虐と言えば自虐ですが、惹句に偽りなく人生の真実(まこと)を突いています。
そのうち来るであろう人生100年時代が恐ろしい。
長寿とは、人の寿命とは何か、考えさせられました。

ついでといえば何ですが、老人文学では谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』がダントツに面白い。
『98歳になった私』も橋本治自身がモデルの小説ですが、これも谷崎がモデルの話です。
主人公の老人は、足に踏まれたいというフット・フェティシズムとマゾヒズムの持ち主です。
息子の妻に性的魅力を感じ、いろいろと戯れた挙句、仏足石に目をつけます。
仏足石とは釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたものです。
息子の妻の足で型を作りそれを仏足石として、墓に置くことを企てます。
(仏足石の下の空間に骨壷が収納されます。)
つまりは死後も女人に踏みつけ続けられ、永遠の快楽を貪るという寸法です。
まァ何とヘンタイでお茶目なジイさんでしょうか!
これも実に笑える一遍で、しかも小説として逸品です。


『98歳になった私』、残念ながら売れないでしょうね。
どうでも良いような小説がベストセラーで、リアリティのある真の小説が不遇をかこつ。
時代の不幸です。
一部での評価に終わるのは、ちょっと悔しい。
そんなわけで、今回わたしが宣伝部長となって吹聴した次第です。
よろしく!