昭和二十九年のヒット曲「お富さん」、歌ったのは春日八郎。
由緒正しき宴会ソングです。
(手拍子だけで歌えるのが宴会ソング、ですよ。)
五十代以上の人は誰でも知っている曲で、若い人は誰も知らない曲でしょうね。
知っている人は、上記の一番の歌詞を空(そら)で歌えます。
それくらい流行った歌で、歌謡曲が好きだった子供のわたしも歌っていました。
出だしの「粋な黒塀」に注目して下さい。
粋(すい)は元々上方の言葉で、「いき」の語源です。
粋(すい)と「いき」の意味合いはちょっと違っていて、粋(すい)は「いき」に比べて派手な趣味を指します。
「いき」は江戸の言葉ですが、「いき」が粋を凌駕して上方に逆流し、粋は「いき」とふりがなを振るようになりました。
ですから、この場合も粋(いき)な黒塀です。
どうして、黒塀が「いき」なんでしょうか。
「いき」は塀の造作に重点を置いている可能性もありますが、色も「いき」には重要な要素です。
赤い塀は「いき」ではなくて、黒い塀が「いき」。
「いき」というのは美意識ですが、その美意識によれば、黒は「いき」ということになります。
正確には、黒みを帯びた色が「いき」とされています。
歌謡曲「お富さん」の下敷きになっている物語は、歌舞伎の「与話情浮名横櫛」の一場面「源氏店」(げんじだな)です。
どういう話かわたしも詳しく知らないし、調べて書くと長くなるので割愛しますが、歌舞伎が江戸時代の町人文化であったことは記憶しておいて下さい。
重要です。
「お富さん」は子供心にも色っぽい歌だと思いましたが、改めて出だしの歌詞だけをみても色っぽいですね。
何となく雰囲気がセクシーです。
黒い塀に緑の松、白い肌に黒髪、しかも湯上がり。
色っぽいですねェ。
これも、重要です。
「お富さん」という名前は小学校の同級生にはいませんでした。
旧い名前だったからです。
まぁ、江戸時代の話の歌ですから当然ですが、子供心にも「お富さん」は年増のような気がしました。
昔の年増ですから、今でいえば三十代になるでしょうか。
今の三十代の女性に年増といえば怒られますが、当時は充分年増でした。
黒塀の家に住む、色っぽいと思わせる「お富さん」は年増だった。
これも、重要ですから憶えておいて下さい。
話かわって、着物の柄を取り上げます。
縦縞と横縞、どちらが「いき」でしょうか。
正解は縦縞です。
理由は、横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるから、だそうです。
分かります?
分からないでしょうね。
もちろん、わたしにも分かりませんでした。
平行線を知覚させるのが、何で「いき」なんだろう。
そう、思いました。
物の本によれば、着物の縦縞の平行線は男と女の暗示になります。
男と女は、平行線である方が「いき」である。
そうなるそうです。
誤解を生みそうなのでもう少し詳しく書きますが、最初から最後まで平行に並ぶ線で良いというわけではありません。
二つの線は限りなく近づくが決して接しない、その状態を「いき」とよびます。
「決して接しない=平行線」を強調する縦縞が「いき」なのは、その所為です。
「いき」は男と女の関係に類する言葉で、だから色気があって、しかもある程度年輪を重ねている方が良い。
簡単な考察ではそうなりますが、それを「いき」と感じる意識構造は不明です。
「いき」は江戸時代に発生した美意識で、現代でも細々と生きている価値観です。
今これを書いていて、どのくらいの年齢の人までが「いき」を感覚的に知っているか分かりません。
死語にはなっていない言葉ですが、もはや日常語ではありません。
だから見当がつかないのですが、感覚的に知っていても知らなくても話をドンドン進めます。
「いき」を突破口にした、美術関係者、美術愛好家には避けて通れない〈美意識〉の研究ですから、そのつもりで読んで下さいね。
縦縞を「いき」と断定した物の本とは、『「いき」の構造』です。
哲学者九鬼周蔵が著した『「いき」の構造』は古典的名著です。
今ではどうか知りませんが、わたしの学生時代は必読図書でした。
必読図書だからといって誰もが読んだかといえば、ほとんどの学生は読んでいません。
わたしも読んでいません。
三十数年前の大学とは、すでにそのような学問の府でした。
わたしはその当時、『「いき」の構造』の「いき」は「息」だと思っていました。
『「いき」の構造』を、笑い事ではなくマジで、呼吸を研究した本だと思っていたのです。
しかし『「いき」の構造』が自然科学書ではなく、人文、社会科学系の本だという認識はありました。
これは矛盾ですが、人というのは存外そのようなものを抱え込んだまま平気で生きていきます。
このわたしのように。
さて、バカの勘違いは時として的を射ることがあります。
『「いき」の構造』を読んでみたら、「いき」は「息」の意味も含めた言葉でした。
『「いき」の構造』の最後の最後の脚注に、「いき」を形成する言葉の一つとして「息」があったのです。
バカでも勘が良いのが、わたしの取り柄かもしれませんね。
美意識とは、美しいと思う心の働きです。
画廊で作品を見て美しいと思うのは、わたしの美意識です。
わたしの経験、学習がそれを美しいと思うのです。
美術作品の美しさは表層的な美しさとは異なります。
美しい山や海の景色が上手に描かれていれば美しい作品、と単純にはいえないのです。
では何をもって美しいと判断するのでしょうか。
それは、作品が内包する世界観です。
表現された世界の諸相や在り方が、わたしの感覚を通して美しいと感じさせます。
美術は視覚を入口とした思想のようなものです。
現代美術が難解な一つの理由は、それが思想のようなものだからです。
しかも現代美術は、その思想は一人ひとりの作家の独自の作法で語られます。
独自ですから、これが簡単、平易であるはずがありません。
どうしたって、難しい。
難しさの問題はさて置いて、世界が開示されれば、当然その世界での生き方が出てきます。
どのように生きたら良いか、という問題ですね。
思想の意義とは生き方の模索であり、つまるところは、その為に思索を重ねるわけです。
もし世界が海だとしたら、海を知らなければなりませんし、泳ぐ方法も会得しなければなりません。
そのような世界観、生き方が視覚的に表出されたものが美術作品です。
想像力と論理を言葉で積み重ねるのが思想ですが、美術はより直感的で感覚的な営為です。
美意識は、通常趣味を通して語られることが多い言葉です。
良い趣味であれば、美意識が高いといわれますね。
ファッションやインテリアやコレクション(収集品)の趣味の良さが、美意識の高低を判断することになります。
高価なモノばかりを集めても、趣味が悪ければ成り金趣味(美意識が低い)とかえってバカにされます。
趣味の良さも突き詰めていくと、その人のトータルな趣味の一貫性にまで及びます。
その統一された趣味の背景に何かがみえたとき、美意識の評価は一層高まります。
何かとは、美術と同じように世界観であり、生き方ですね。
そのような美意識が小さな地域、集団を超えて広まると、その時代の文化に昇華され、時代の美意識となります。
「いき」は江戸時代の文化文政期の美意識であり、その時代の世界観、生き方を反映したものです。
「いき」が特異なのは、その美意識が被支配者階級である町人の、その又特殊地域である遊里、花柳界から生まれたことです。
そして細い糸ですが、現代のわたし達にもその美意識が及んでいることです。
「いき」は美意識として非常に洗練された、強度の高いものといえます。
『「いき」の構造』の解説(岩波文庫判)によれば、本書は九鬼周蔵のヨーロッパ留学中(1921〜1929年)に書き始めたと推測されています。
パリ留学中のことです。
パリといえば、ヨーロッパの中でも美意識が高いとされた都市です。
その只中で、九鬼周蔵ははるか彼方の日本の江戸時代の美意識に思いを馳せていたことになります。
近代化という物差しで見れば、当然後進国であった日本の学研の徒が、美意識でパリを見下したのは痛快といえば痛快です。
『「いき」の構造』は哲学の小論文です。
岩波文庫で100ページ弱の小論で、言葉使いが哲学ゆえ多少難解ですが、読み進めるのは苦痛ではありません。
とにかく、面白い本です。
具体的で、世俗的な事柄が厳めしい哲学用語で解析されているのを読むと、笑いを禁じえません。
「色目」、「流し目」とか「都々逸(どどいつ」が、哲学の方法論、用語で真面目に語られています。
その違和感が九鬼周蔵の展開する論で一本に収拾されたとき、読者は感動を覚えます。
「いき」の美学の世界観と生き方に、感動します。
以上を総括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。
そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。
序説に続く第二章の「いき」の内包的構造の結論です。
「いき」の意識現象の存在様態が何であるかということなのですが、少し補足してみます。
三契機は、「いき」という美を生み出した意識の在り方のことです。
この意識から、関係する意味との位相や具体的な所作、芸術的表現が出てきます。
上品、下品、派手、地味等々の意味との位相、身体の動作、着こなし、冒頭の着物の柄とか色彩感、建築、音楽が出てくるわけです。
『「いき」の構造』の最も哲学的な部分が上記の内包的構造の分析であり、本質的なところです。
「いき」の基調は三契機の中の「媚態」です。
「媚態」の一般的な意味は、「女が男にこびて、なまめかしくふるまう態度、こび」のことです。
『「いき」の構造』では「媚態」をもう少し広い意味に使っていて、異性への接近の態度としています。
媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。
そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやぽっさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。
哲学的な難解な言い回しですね。
要は、異性を好きになって、相手が自分に興味を持つようにアレコレすることが媚態ということです。
「気を引く」のが媚態で、「気を引く」の「気」は精気でしょうね。
異性の精気を引き寄せる、が媚態です。
媚態は生、性が引き起こす態度です。
人間の根源的なエネルギーが媚態を生み出します。
これをまず、全面的に肯定することによって、「いき」は成り立っています。
「気を引く」のは人間本来の在り方であり、関係の可能性を構築しようとする緊張感は美しいという考え方です。
ここでのポイントは、緊張感です。
緊張感があって、初めて媚態に美が発生するということですね。
江戸時代の性風俗を指して、「大らかな性」という表現を使うことがあります。
性に対して開けっ広げで、それを愉しむ風潮のことです。
一昔前の田舎もそういわれましたね。
いわれた当人達は、当然のことながらそれを「大らかな性」とは思っていません。
普通のことだと思っています。
性に開放的だった、というのは後世からの見方です。
逆説的に考えれば、「大らかな性」と形容した方は、「大らかではない性」が普通ということです。
そうなりますよね。
大らかではない=限定的な性を享受していることになります。
ブレーキがかかった性、ですね。
「大らかな性」という形容には、憧憬と侮蔑が入り交じっています。
正直いえば羨ましいけど、江戸時代の人間や田舎の人には理性や羞恥が欠けている。
そう、思うのですね。
性にブレーキをかけているのは理性や羞恥で、とりわけ理性を持つことが近代的人間の特質とされています。
しかしながら、一切の肉を独断的に呪った基督(キリスト)教の影響の下に生立った西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性関係は、早くも唯物主義と手を携えて地獄に落ちたのである。
本書の最終章で、キリスト教の禁欲主義が近代(唯物主義)で加速されたことを記した文です。
禁欲(理性)は心理的な抑圧となって近代人を苦しめるのですが、江戸時代に禁欲がなかったわけではありません。
当時の江戸は世界有数の大都市でしたから、そんなわけはありません。
タブーは存在しましたし、法(刑罰)による規制もありました。
といっても、キリスト教下や近代に比べれば緩やかなもので、充分に「大らかな性」でした。
ここで留意しなければならないのは、「いき」が江戸時代の特殊地域で生まれたことです。
遊里、花柳界という、特殊な地域で育まれたことです。
この地域は限定的な「性の解放区」です。
世間とはルールが異なった地域で、そのルールを洗練させたのが「いき」です。
特殊地域の事情については『「いき」の構造』は詳しくはありません。
社会学書ではなくて哲学書だからでしょうか。
特殊地域、遊里、花柳界という言葉が僅かに出てくるだけで、「いき」の土壌を詳しく論じていません。
そこで「自由な恋愛」が行われていた、と推測させるだけです。
「自由な恋愛」は近代的用語で、その自由も恋愛も江戸時代の特殊地域のそれとは微妙に異なります。
客と遊女、芸者を取り持つのは金銭ですが、その金銭がすべてかといえば、そうでもない。
そこには意気(意気地)や垢抜けた(諦め)資質が幅を利かせていた。
それを持ち合わせていない客は、金持ちであろうと身分が高かろうと、「野暮」と呼ばれて蔑まれた。
そういう場所での 「自由な恋愛」です。
惚れた好いた(恋愛)の愉しみ(快楽)は、長続きすればするほど良い。
そうですね。
皆さん、そう思っていますね。
しかし、現実にはそうはならない。
それも、皆さんは経験済みです。
媚態は異性の征服を仮想目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。
媚態が消滅すると、倦怠、絶望、嫌悪の情がそれに取って代わります。
絶望、嫌悪はともかく、倦怠は間違いなく訪れます。
だったら媚態を消滅させないようにすれば良いのですが、征服を制御するものがありません。
それに、世間の仕組みでは通らないことです。
遊里、花柳界という特殊地域だからこそ、媚態を存続させることができるのです。
そこが特殊な「性の解放区」だからです。
媚態を持続させることを、抽象的に考えるどうなるでしょうか。
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
つまりは、平行線で行こうということです。
縦縞、ですね。
二つの線が交わりそうで交わらない、そういう状態を無限に続けることです。
これは愉しいですが、そんなことができるのでしょうか。
そこで登場するのが「意気」と「諦め」です。
この二つが媚態を制御して、緊張感を持続させ、媚態を永遠の美へと昇りつめさせるのです。
意気は意気地で、江戸文化の道徳的理想です。
テレビや映画の時代劇をご覧になっていれば、意気や意気地(心意気)が感覚的に理解できると思います。
元々は武士道の理想だったものが、町人文化に下降した理想主義的な倫理観です。
金や権力に取り込まれない、心意気、生き方ですね。
特殊地域も人間の社会ですから、金や権力に晒されます。
(金銭の授受が地域の成り立ちですから、当然ですね。)
しかし、それに抗する気概を尊ぶ気風があって、そこに緊張感が生まれます。
「傾城はかねでかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」。
郭の掟です。
もし意気地を最後まで通し抜いたらどうなるか。
心中(しんじゅう)立て、ですね。
二人であの世に行ってしまう。
意気とはそういう理想主義で、媚態に緊張を与え、それを「霊化」します。
媚態があって意気があって、その次に「諦め」があると、話が複雑になります。
理想主義と諦観とは一見相いれない関係だからです。
ここに「垢抜ける」という言葉を入れると、幾分話はスッキリします。
「いき」の第三の微表「諦め」である。
運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。
垢抜けるとは、浮世で苦労を重ねてその垢を洗い去ることです。
郭は別名苦界ですから、その勤めは並大抵の苦労ではありません。
苦労に苦労を重ねて、世にスレるのではなく、洗練されることを垢抜けるといいます。
垢抜けると、執着を離脱して無関心を獲得します。
世が常なるぬ事や、運命を受け入れる世界観になります。
この世界観の背景には宗教的な人生観があります。
仏教の世界観ですね。
これが「諦め」を支えています。
具体的な例を出しましょう。
遊女と客が恋におちる。
そこには、ものすごい性のエネルギーが立ち上がります。
お互いの気を引くために、媚態が大量に発生します。
なまめかしい色気、が充満します。
それが頂点に達しようとしたとき、邪魔が入ります。
お大尽が、遊女を身請けしようとするのです。
遊女は言いなりにならないのですが、男(客)には身請けの金がありません。
仕方なく、付けてはいけないお金に手を付ける。
公金か商売上の預かったお金です。
当然、男(客)にはお上からの咎めが迫ってきます。
そこで、道行(駆け落ち)となって、心中(情死)となる。
媚態が身請け話によって緊張感を増し、さらなる接近と関係の密度を増します。
意気によって「野暮」を出し抜いた媚態は、運命を受け入れ(世俗から離脱して)、非現実世界に旅立ちます。
大尽になびかないのは、遊女の意気です。
苦界の理想主義です。
男(客)がアンタッチャブルなお金に手を付けるのも、意気地です。
媚態は意気の緊張感で磨かれ、その炎はより細く、より高温になります。
そして「諦め」がくるわけですが、諦めは媚態や意気を損なうどころか純化させます。
ここはちょっと難しいところで、本書でも難解な用語で説明しています。
否定が肯定になるというか、諦めの無常観が、現実への執着をサラリと脱ぎ捨てるんですね。
脱ぎ捨てることによって、媚態を純化させ、意気を自由に遊ばせる。
現実で二人が添えないのは、媚態にとってはマイナスではありません。
媚態の要は、二つの線が限りなく近づくことで、交わることではありませんから。
心中立ては極端な例かもしれませんが、「いき」の意識構造を大まかなストーリーにしてみると上のようになります。
年増が「いき」なのは、諦めを知っているからです。
苦界で苦労して、年輪を重ねて垢抜けているから、年増は「いき」なのです。
だから、歳だけとっている年増はダメですよ。
黒味を帯びた色が「いき」なのは、非現実的理想主義とでもいえる色だからです。
鮮やかな色が重なりあって沈静化し、冷ややかな落ち着き(無関心)が出てくるからです。
華やかな過去を持つ色(色気)が、諦めによって一層の光沢を放ちます。
渋味が、加わるのです。
性のエネルギーは人間の生きる源ですが、扱いを誤るとアブナいエネルギーです。
近代は理性(と法)でそのエネルギーを制御しようとします。
理性で手に負えなくなると、深層心理(無意識)の領域をコントロールしようとします。
フロイトの精神分析ですね。
一方、「いき」はそのエネルギーを洗練、純化することで制御します。
美意識に昇華させることで、エネルギー本体を自由に遊ばせるのです。
さて、どちらの制御が人間にとって有益で生きやすいでしょうか。
答えるまでもありませんね。
『「いき」の構造』の二章をテキストに、「いき」という美意識を考察してきましたが、三章、四章、五章も面白い記述に溢れています。
三章は「いき」の外延的構造で、「いき」と関係ある意味との区別をしながら、「いき」の意味を考察しています。
関係ある意味とは、上品、下品、派手、地味、甘味、渋味などです。
それらと「いき」の関係を図にした、有名な直六面体も掲載されています。
四章は「いき」の自然的表現で、身体表現(所作)についての考察です。
「姿勢を軽く崩す」のは「いき」で、この崩すは、今でいえば「ハズす」になります。
一元的平衡(バランス)を軽く崩す(ハズす)、のは媚態の基本です。
この他、薄着、湯上がり姿、細身の柳腰、流し目、薄化粧、抜き衣紋、左褄、素足などが媚態の表現として論じられています。
抜き衣紋とか左褄は、着物文化がマイナーになった今は理解不能な言葉かもしれませんね。
(言葉でなく視覚だったら、「あ〜、アレね」と分かるのですが。)
裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりとした浴衣(ゆかた)を無造作に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完(まつと)うしている。
湯上がり姿に関しての九鬼周蔵の記述です。
なまめかしさと哲学用語が同居した、面白い文章ですね。
九鬼周蔵が哲学の変格ではなく、本格であることの片りんが窺われます。
お富さんの洗い髪が「いき」なのは、裸体を回想としての近接の過去に持っていたためなんですね。
納得。
五章は「いき」の芸術的表現です。
主に論じているのは、模様、建築、音楽です。
縦縞の話はこの章に詳しく出ています。
六章が結論で、二章の「いき」の内包的構造を肉付した、「いき」の総体を論じています。
『「いき」の構造』はWWWでも読めます。
インターネットの図書館である「青空文庫」に収録されています。
閲覧ブラウザのazur(アジュール)は美しく、読みやすいのでお薦めです。
さて、長々と書きましたが、わたしの方も結論です。
美意識とは美しいと思う心の働きです。
その美しさに世界観、生き方が内包されていれば、心は大きく働きます。
俗にいえば、感動が大きいのです。
「いき」という美意識が優れているのは、人間の生に直結した美意識だからです。
生、意気、息、行を語源に持ち、「いき」とは「生きる」ことなのです。
媚態(性)を基調に置き、それを磨いて(洗練)、純化したものが「いき」です。
「いき」が江戸時代の町人文化から出てきたのは注目すべきことです。
(もっとも、注目していた人は遠の昔に注目していたので、わたしが最近気付いただけですが。)
生き方は、「いき」の例を見ても分かるように、性や倫理、道徳、宗教が複雑に絡んだものです。
わたし達に欠けているは、生き方であり、とりわけ美しい生き方です。
これがないために、イラクの不幸な日本人事件は起きたのかもしれません。
彼は、生き方を探して遠くイラクまで足を運んだ気がします。
わたし達が目を向けなければならないのは、海の外や未来ばかりではありません。
過去の人間の、生き方や美意識を探り、そこから何かを掴み取る必要があります。
江戸時代の町人文化の特殊地域が育んだ「いき」には、それ以前の歴史を継承した、洗練された美意識があります。
この糸を繋ぐことが、わたし達の美意識ではないでしょうか。
<第七十回終り>