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iの研究



第六十七回 <片腕>の研究


夜。
雪が降りしきる寺の境内。
寺の家屋から戸板で運ばれきた、一人の浪人。
男を運んできたのは、二十人余りの武士、浪人の郎党。

遺恨の末の果たし合い、の様である。
戸板に横たわる浪人は目を閉じている。
張りつめた気配を破って、斬りかかる郎党の一人。
素早く浪人は半身を起こし刀の鞘を口にくわえ、抜くやいなや斬り倒す。
飛び散った鮮血が地面の雪を染める。

浪人は
隻腕(片腕)で、しかも足に深手を負っている。
這いつくばって、郎党を一人二人と斬っていく。
激しい立ち回りと深手の所為で、浪人は再び地に倒れ込む。
暫しの沈黙。
雪。

再び襲いかかる郎党。
浪人は力を振り絞って刀を振るが、背中に刃を受ける。
崩れる浪人。
群がる郎党に渾身の力を込めて反撃する浪人。

浪人は半身を起こすのがやっとだが、尋常でない執念と剣の技で郎党を斬っていく。
半身を起こしては倒れ、倒れては起きて、郎党を斬っていく。
境内は斬込む気合いと刃音と悲鳴が交錯し、雪が反響を消して降り積もる。



精根尽きたように倒れ込んでいる浪人。
とどめを刺そうとする郎党の頭(かしら)。
それを、最後の力を振り絞って返り討ちにする浪人。
逆上し、一団となって斬りかかる郎党。
郎党の空を斬った刀が境内の石に当たり、その音が鋭く鳴る。

境内に走り寄る武士が一人。
同時に境内の家屋から叫びながら駆け出る女。
残党の一人が、銃でその女を撃つ。
倒れる女。

武士は助太刀の様子。
女を撃った男を一刀で斬り倒す。
息絶え絶えに何事かを男に言伝(ことづて)する女。
武士も浪人に劣らぬ見事な腕前、一人二人と斬り倒し、残党を始末する。

倒れた女は、死力を尽くして浪人ににじり寄る。
手を伸ばし、仰向けに倒れた浪人の手を握る。
微かに浪人の目のあたりが反応し、握られた手が握った手に反応する。
絶命する二人。

その有様を、心に刻みつけるように見る武士。

場面は変わって、武士の婚礼の場。
武士は婚礼の後、装束を改めて浪士の群れに加わる。
雪。
浪士の向かう先は吉良の邸。

「終」


映画「薄桜記」のラストシーンです。
浪人は丹下典膳。
武士は中山(堀部)安兵衛。
女は浪人の離縁した妻千春。



壮絶なラストの立ち回りを拙い筆(キーボード)で描写しましたが、ご想像できましたでしょうか。
「薄桜記」は1959年11月公開の大映映画で、監督は森一生。
当時は日本映画の黄金時代で、公開時の併映が小津安二郎監督の「浮雲」です。
「薄桜記」も名作といわれている作品ですが、「浮雲」と同時上映とは!
正月でも盆でもないのに、このような二作品が平気でプログラムされていた恐るべき時代でした。

主演は市川雷蔵と勝新太郎で、大映の二枚看板です。
丹下典膳が市川雷蔵で、中山安兵衛は勝新太郎。
典膳の離縁した妻である千春は
真城千都世(まきちとせ)ですが、この人は存じ上げません。
デビュー作で準主演という期待された女優さんでしたが、短命に終ったようです。
SKD(松竹歌劇団)出身で、そういわれてみればそんな感じのする女優さんです。

二大スタァの競演ですが、この映画は市川雷蔵の映画です。
しかも、市川雷蔵の幾つかある代表作の一つに数えられています。
それほど、「薄桜記」の市川雷蔵は魅力的です。

市川雷蔵、ご存知ですか。
知らない?
初代の眠狂四郎です。
田村正和の前の、元祖&本家眠狂四郎でした。

ファンは雷様(らいさま)と呼んでいましたが、スタァに様をつけて呼ぶ先駆も市川雷蔵でした。
雷蔵の魅力は、ニヒルです。
端正な二枚目ですが、その美貌には虚無が宿っていました。
三十七才という若さでこの世を去っていますが、それも今となっては雷蔵の魅力に輝きを加えています。

勝新太郎は、ご存知ですね。
(一応念を押さないと。先日、勝新の座頭市を知らない大学生に会いましたから。)

さて、ここで簡単にストーリーをご紹介します。
話のベースになっているのは、あの忠臣蔵です。
四十七士の一人、堀部安兵衛の回想から始まり回想で終る物語です。

堀部安兵衛といえば、高田馬場の決闘。
馬場に急ぐ街道で、安兵衛は旗本丹下典膳と出会います。
襷(たすき)の結び目が解けかかっているのを見た典膳は、安兵衛の後を追って決闘の場に馬を走らせます。
偶然にも、安兵衛の決闘の相手の村上兄弟は典膳と剣の同門でした。
これが仇となって典膳は道場を破門、安兵衛も道場から遠のくことになります。
場に居合わせながら公務を優先した典膳は、「同門を見捨てた」とされて、道場の門弟との間に遺恨の芽が生じます。
(映画では語られていませんが、典膳は安兵衛に義があると見て同門に加勢しなかったのです。)

高田馬場の決闘で男を上げた安兵衛には、士官と縁談の口が殺到します。
一躍江戸の人気者です。
上杉家千早兵部の名代長尾竜之進も士官の口を持ってきた一人です。
安兵衛は竜之進の妹、千春に一目惚れしてしまいます。

上杉家への士官を安兵衛は心に決めますが、決めた直後に残酷な話を聞きます。
何と、千春は典膳と近々祝言を挙げるというのです。
聞けば、千春と典膳は以前からの恋仲だったとか。

女に惚れたことがなかった安兵衛が、一生をかけて愛したいと思った女。
それが千春でした。
その千春が、あの典膳の妻になるとは。
物語を貫く奇妙な三角関係は、ここから始まります。

安兵衛と典膳。
二人の間にあるのは友情ではなく、生き方です。
侍(さむらい)としての生き方に、お互いがお互いを認めあっています。
生き方ですから、共感するのは言葉ではなくて行動ですね。

傷心の安兵衛は堀部家の娘の婿となって播州浅野家に仕えます。
一方千春の夫となった典膳は、遺恨のある門弟(五人組)から卑劣な仕打ちを受けます。
典膳の留守宅で、千春はその門弟達によって陵辱されてしまいます。
しかもその後、千春と安兵衛が不義密通をしているというあらぬ噂まで立てられます。

窮地に立った典膳は一計を案じて、千春にかかった不義密通の嫌疑を晴らします。
嫌疑を晴らした典膳ですが、その直後に千春を離縁し、実家に帰します。

嫁に出した娘を返された実家では、当然のことながら得心がいきません。
不義密通の嫌疑は晴れていますし、思い当たる理由もありません。
「夫婦の間のこと」として頑なに沈黙を通す典膳に、千春の兄の竜之進は激高し、刀で決着をつけようとします。
「お望みとあれば、ご随意に」と座を辞して立ち上る典膳。
「ならば」、と刀を抜く竜之進。
刃は典膳の肩口を切り裂きます。
痛みをこらえる典膳の片腕が、畳に落ちます。



畳に落ちた、片腕。
場に居合わせた一同(千春、千春の父、女中、そして竜之進までも)が言葉を失うシーンです。
冒頭の立ち回りと並ぶ「薄桜記」の見せ場で、映像も凝っています。
片腕を落とされた典膳は痛みを必死にこらえ、声を振り絞って、片腕にかえて千春の身柄を引き取って欲しいと訴えます。
よろめく身体で立ち去ろうとする典膳。
その時、典膳の背景の色相が一変して、非現実的な暗いブルーになります。
物語の調子も、主人公達の運命も、ここから大きく変わっていきます。

隻腕となった典膳は、職も辞して江戸を去ります。
同じ頃、安兵衛も「松の廊下の刃傷」で仕える家がなくなります。

時が経ち、傷も癒えて江戸に戻った典膳は復讐の鬼と化して、妻を陵辱した門弟(五人組)を探します。
その五人組は身を持ち崩し、吉良の用心棒に成り果てていました。
家を出た千春は、茶道の心得を活かして独り身の生活。
(その茶道の人脈にはあの吉良上野介が。)
安兵衛は赤穂の浪士。
一旦散った糸は、再びここで交錯します。

吉良と赤穂が複雑に交叉して、物語は冒頭の寺の境内のシーンへと導かれていきます。
恋愛と武(さむらい)の生き様が一筋縄では行かない関係を作り、その終幕が壮絶な立ち回りです。

典膳と千春の最後を見届けた安兵衛は、堀部家の娘と婚礼を挙げ、吉良邸へと出陣します。
茶会の日時を知らせてくれたのは、死を覚悟した千春。
流浪の身になった典膳の面倒を見たのは千坂兵部(立場上吉良の味方です)。
人の綾を描ききった脚本は、時代劇の名匠伊藤大輔です。

安兵衛は武骨な男です。
(典膳は育ちの良い武家の男に見えます。)
武骨な男が恋をすると、一途になります。
しかしながら、相手には男がいました。
しかもその男は武(さむらい)を通じての、いわば盟友。
典型的というか、どう仕様もないというか、所詮は三角関係なんですね。

安兵衛がこの関係の始まりから終りで会得したのは、「人の間は壗(まま)ならぬ」という真理です。
千春を愛した安兵衛にとって過酷な真理です。
それと、人間の情の深さです。
典膳と千春の、この世のものとは思えぬ情の深さです。
その二つを心にしまって、安兵衛は吉良邸に討ち入ります。

回想して物語るのは安兵衛ですが、物語は典膳と千春です。
典膳と千春の悲恋の物語です。
悲恋ですが、悲しいというよりは哀しい物語です。
何が哀しいかといえば、とりわけ、典膳の心が哀しいのです。


話の途中ですが、隻腕の丹下典膳、この障害と名前で思い出す人がいませんか。
そうです、丹下左膳!
四十代以上の人なら誰でも知っている時代劇のヒーローです。
丹下左膳は片目片腕の怪剣士で、異様ともいえるファッションセンスの人でした。
黒襟の白地の着物に筆文字がいっぱい書いてあって、下には女物の赤い長襦袢。
隻眼隻腕でこのファッション。
しかも強い!
カッコ良かったですが、知らない人には想像もつかない異形のキャラでしょうね。

丹下左膳は作家林不忘が創作した小説上の人物です。
わたしが知っているのは(多くの人もそうだと思いますが)、映画の丹下左膳。
それも大河内伝次郎ではなくて、大友柳太朗の丹下左膳です。
元々の丹下左膳は容姿に相応しくニヒルなタイプですが、大友柳太郎の左膳は明朗豪快。
底抜けな左膳の笑い声と、左膳につきまとう孤児のチョビ安の記憶が今でもあります。
(肝心の、物語の軸である「こけ猿の壺」の争奪戦は全然憶えていていないのですが。)

「薄桜記」には原作があります。
時代小説作家五味康祐が書いたもので、丹下典膳は実在の人物とされています。
しかし、隻腕の剣豪である丹下左膳のイメージと名前を借りてきたことは間違いありません。
(名前は鞍馬天狗=倉田典膳との合成という説が有力。)
実在の人物を丹下左膳のイメージで脚色した、というのが本当ではないでしょうか。
ついでにいえば、原作と映画はまったく違うそうです。
映画が恋愛に重心を置いているの対して、小説は忠臣蔵の外伝といった趣だそうです。

片目片腕の丹下左膳、全盲の座頭市。
何故か日本の民衆は障害のあるヒーロー(剣の達人)が好きなようです。
左膳や市の人の哀しみを包み込むような優しさと、強さが、好きなんでしょうね。



話を続けます。
この映画には一つの謎があります。
典膳は何故千春と離縁したのでしょうか。

千春が門弟に陵辱されたのは当事者だけが知る秘密であり、典膳は千春を被害者として赦しています。
千春の不義密通は典膳の一計で噂を打ち消しています。
あの一件をなかったこととして、今まで通りの生活を続けるのも可能です。
しかし典膳の心は、いや身体が、それを許しませんでした。

不義密通を打ち消した数日後、千春の母の墓参の帰り、典膳は離縁を告げます。
おまえのことは今でも好きだが、頭で分っていても自分の身体が許さない、として。
典膳は聡明な人間ですから、非が門弟達にあって千春にないことは重々分っています。
でも、自分の身体が千春を許さないというのです。

典膳の言葉の奥を解釈すれば、許さないのは千春ではなく、典膳と千春の間に生じた小さな染みではないのでしょうか。
わたしはそう思います。
真っ白な世界に生じた小さな汚点、それを典膳は許せなかった。

なぜなら、典善と千春との間には世事が入る隙間がなかったからです。
世事とは俗事、つまり世の中のことです。
世事が入らない関係、それを今の言葉でいえば純愛になります。
それを汚した事柄が許せなくて、典膳は千春と離縁し、門弟に復讐を誓ったのです。

典膳の決断を身勝手といえるでしょうか。
いえないと、思います。
離縁を告げられた直後に、千春は典善に伴われて実家に戻ります。
そこで、典膳は片腕を落とされ(落とさせ)ます。

典膳には覚悟がありました。
理由(わけ)のない離縁には代償を求められます。
しかし、典膳は理由を述べる訳にはいきません。
それは千春の名誉に関わることであり、汚点を許せない自身の心情を告白しなければならないからです。
それは、世の中では通らないことです。

典膳が落とした片腕は、世の中への置き土産です。
世を捨てて、典膳は復讐だけを己の生き甲斐としたのです。
ただ、千春だけは世の中に残って欲しかった。
それが離縁の真実(ほんとう)でした。
典膳の千春への愛情でした。

世の中の不正を憎む、つまりは正義ですね。
しかし正義が独り歩きすると独善になります。
典膳は正義の人でしたが、独善ではありませんでした。
典膳は情を知る人だったからです。

情に深入りする、情を知りすぎると世の中に住めなくなってしまいます。
世の中の秩序が、それを許さないからです。
それを承知していたからこそ、典膳は片腕を差し出し、世を捨てたのです。



典膳は侍(さむらい)で、美意識を貫こうとした人です。
美しくあることを、自身の範とした人でした。
その為なら、片腕を失うことを厭わない人でした。
この世の置き土産として落とした片腕は、異る角度から見れば、美意識の代償です。

凄惨で壮絶なラストの立ち回り。
髪を振り乱し、片膝で身体を支えながら刀を振る典膳。
倒れては起き、起きては倒れる。
凛々しい剣士であった典膳には似つかぬ、無様で哀れな姿です。
その無様で哀れでありながら、鬼気迫る姿は、充分に美しく、感動的です。

美意識という言葉は誤解を生みやすい言葉です。
今では、単なるライフスタイルや趣味の良さに取られがちです。
インテリア、ファッションから細々とした備品に至までの、趣味の良さの意として流通しています。
でも、それは本来の美意識とは違うと思います。

商品のセレクトや消費に美意識は存在しません。
あるのは単なるセンスだけです。
センスが良いか、悪いかだけの話です。

美意識とは、生きることの全体です。
典膳が固執した美意識は、生きる様の在りようです。

では、美しく生きるとはどのようなことなのでしょうか。
それは、自分の人生を十全で一点の曇もないものとして生きることです。
そこに無理が生じるのは、説明の要がありませんね。
世の中は、その様に出来ていないからです。
(典膳が破滅するのは当然の成り行きです。)

ですから、典膳とは俗世界の人間がスクリーンに投影した架空の人物なのです。
この様に美しく生きたい、この様な美しい人に成りたいという願望が生んだ人物なのです。

美意識をスクリーン上で体現できる人を、スタァと呼びます。
市川雷蔵はスタァです。
しかも、典膳の美しさ、美意識は雷蔵自身の資質と重なります。
これを、キャスティングの勝利といいます。

今はスタァのいない時代です。
映画がスタァを生めなくなってから、久しく時が経っています。
テレビはスタァではなくて、タレントを量産するメディアです。
卑近は在っても、憧れが無い時代です。
スタァが不在である時代、これは間違いなく不幸な時代です。
美意識、美しく生きることが不在であるからです。


典膳が落とした片腕は千春を護りました。
千春の故無い不名誉を護り、千春の将来を護りました。
典膳の情です。

雪が降りしきる寺の境内。
倒れている典膳ににじり寄る千春。
手を伸ばし、指先が典膳の手に触れる。
温もりがなくなっていた手に、微かな熱が伝わる。
手は、手を手招く。
握りあった手は一瞬の覚醒の後に、深い眠りに就く。

典膳の、この世で落とした片腕は、来世への贈り物だったのでしょうか。

<第六十七回終り>







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