高速道路には料金所があります。
ここでお金を払わないと高速道路を利用できません。
高速道路=有料というのは日本の常識で、日本の外に出れば常識でもなんでもありません。
高速道路=無料という常識の国は幾らでもあります。
そして、日本ほどその料金の高い国もありません。
わたしのように家庭の事情で、週に一回は山梨と東京を往復する人間には大きな負担になります。
どのくらいかといいますと、五万円のハイウェイカードを二ヶ月半で使い切ってしまいます。
その他にガソリン代やクルマの維持費(車検費用や保険、税金、駐車場)がありますから、わたし場合、交通費は相当な金額になっています。
相対的に安価な電車や高速バスを使えば交通費はかなり圧縮できますが、その分疲れます。
(クルマを運転する方が疲れるように思えますが、出発時間が自由ですし、車内でも気を使わないので逆に疲れません。)
週に一度の休日を効率良く使うためには、やはりクルマで往復するのが便利です。
しかもイナカではクルマがないと生活できませんから、どのみちクルマは所有しなければなりません。
その高速道路代を少しでも安くするために、前払い割引があるハイウェイカードを購入して使ってきました。
カードは金額によって何種類かあるのですが、五万円のカードの割引率が飛び抜けて高く、いつもそれを買って使用していました。
何といっても五万円で八千円のプレミアが付くのは魅力でした。
(他のカードの割引率は数パーセントが良いところです。)
その五万円のハイウェイカードが今年になってから発売中止になり、購入したカードも来年早々には使えなくなりました。
偽造カードが大量に出回った為です。
必然的に高額カードの利用者は現金(又はクレジットカード)かETCを利用せざるを得なくなりました。
(小額のハイウェイカードは現行通りですが、頻繁に高速を利用する人には現実的ではありません。)
ETCとは「Electronic Tool Collection System」の略で、無線を使って自動的に有料道路の通行料金の支払いを行うシステムです。
料金所ゲートに設置したアンテナと、車両に装着した車載器との間で無線通信を用いて自動的に料金の支払いを行い、料金所をノンストップで通行します。
もともとは料金所の渋滞(これが道路全体の渋滞の大きな原因にもなる)を解消するために開発されたシステムです。
それが偽造カードによって一気に普及し始めました。
ETCを利用するには、まず自分のクルマに車載器を装着しなければなりません。
これが、高い。
わたしはオートバックスで最安値の車載器を買ったのですが、それでも12,000円しました。
普通は20,000円前後。
それプラス、車載器のセットアップ料金5,000円を取られます。
高速道路を良く利用する人、つまりお得意さんですね、そのお得意さんがどうして偽造カードの始末や渋滞の解消を負担しなければならないのでしょうか。
これは不思議です。
常識で考えれば、高速道路公団が車載器を無料レンタルするのが当り前ではないでしょうか。
車載器を取り付ければ直ぐ使えるかといえば、そうはいきません。
「ETCする〜カード」をクレジットカード会社に申請しなければなりません。
「ETCする〜カード」はETC専用カードで、これを車載器に差し込んで、初めてETCが利用可能になります。
カード会社の審査が終って、カードが郵送されてくるとETCは使えますが、割引はありません。
ハイウェイカードのような割引を受けるためには、インターネットで「ETC前払い割引」のユーザー登録をしなければなりません。
登録が完了すると、ユーザーIDとパスワードが郵送されてきます。
これを使ってインターネットか電話で支払い手続をして、そこで初めてハイウェイカードのような割引が受けられます。
誠にバカヤローな制度で、グズで怠惰なわたしはここまでに半年も掛かってしまいました。
その間は料金所で現金を払っていました。
スマートに(後続車に迷惑をかけないように)通過するのには、それなりにお金の準備があって面倒でした。
しかしその都度お金を払っていると、いかに自分が(文字通り)道路にお金を捨てているかよ〜く分りました。
これは収穫でした。
さて、お金と手間のかかったETCで高速道路に入ってみると・・・。
これが、予想外の便利さ、快適さです。
ただ単に料金所で止まらないだけ、その分スムーズに走行できると考えていたのですが、これが大違い。
誰にも干渉されずに、出発地点から目的地まで行けてしまうのです。
クルマの中は、自宅の個室とほとんど変りません。
別に料金所のオジさんにカードや現金を渡すのがさほど煩わしいと思ったことはありません。
別に思ったことはないのに、料金所をノンストップで通過すると予想外に便利で快適。
わたしは運転中、音楽かFMを聴いるか、考え事をしています。
その行為が料金所で中断されない、多分これが便利、快適の正体です。
(一応料金所ではCDやFMの音量を落とすか、レシーバーのスウィッチを切ることにしていました。)
この便利、快適さに比べれば、料金所をノンストップで通過できる優越感などいうのものはどうでも良いものです。
日産が新聞広告で、この優越感をキャッチコピーにして車載器のセールスを行っていました。
元来がクルマのヒエラルキー(階層)で成り立っている自動車会社ですから、無理もないといえば無理もないのですが、実にツマラナイ広告だと思いました。
こんな優越感のために、少なからぬお金と煩雑な手続きを踏むのは実にカッコワルイことです。
わたしが体験した(している)便利、快適は、家から目的地まで何にも煩わされず好きな音楽を聴いたり、FMのオシャベリを楽しんだり、考え事ができることです。
ETCの開発、導入は渋滞の解消と偽造カード対策がメインでしたから、これは副産物です。
もともとクルマは個室的性格を持っていますから、ETCによってそれがより一層進んだといえます。
クルマにカーナビがあれば人に道を尋ねる必要もありませんし、それが通信カーナビであればインターネットにも接続できます。
ETCがあれば小銭の用意もいらないし、パワーウィンドウを開ける必要もありません。
エアコンディショナーの快適な空間で音楽に身を委ね、わたし達は個室の移動という旅を続けることができます。
(しかしながら、車外では街頭監視カメラやNシステム(赤外線自動車ナンバー自動読取装置)が何時もわたし達を監視しているのを忘れてはいけませんね。)
蛇足: 高速道路の渋滞の大きな原因は料金所です。
ここでクルマが溜まって渋滞が起きます。
では、料金所をなくしたらどうでしょうか。
そうです、フリー(無料)ウェイにするのです。
この案は非現実的なものではなく、高速道路無料化の論者はいますし、財政の根拠も示されています。
無料化した場合、高速道路が渋滞すると懸念する向きもありますが、わたし個人は平気です。
タダになれば、多少の渋滞はどうってことありません。
そもそもクルマの数と道路の面積を考えれば、渋滞は必至なのですから。
ETCの導入で便利で快適になったのですが、わたしには一つの懸念があります。
便利になると、それと同量の何かを失う。
わたしが昔から持っている懸念です。
この懸念をいつ頃持ったのかは忘れましたが、今ではわたしの信仰のようなものです。
信仰ですから、正確にいえば懸念ではなくて確信ですね。
便利になると、それと同量の何かを必ず失う、という確信です。
では、ETCでわたしは何を失うのでしょうか。
料金所のオジさんとの挨拶でしょうか。
時には「お気を付けて」といってくれる、オジさんの好意でしょうか。
具体的にいえば、そういった小さなことです。
どうでも良いような小さなことです。
ある意味では、煩わしいともいえる事柄です。
それと引き換えに得た便利、快適から考えれば、とっても小さなことです。
便利、快適の当初はその有り難みが身に染みます。
しかしそれが続くと、普通になります。
別に便利でもなく、快適でもなく、普通に変化します。
(通信速度が24Kとか36K、56Kの時代を経てADSLになった貴方。高速常時接続の感激は遠い昔になり、今や普通に思っているでしょ?)
普通に変化したとき、失った小さなことは堆積されて便利、快適さと同量になります。
わたしが失った小さなことは、いってみれば外界との接触です。
人間との、ホンの一瞬の接触です。
ハイウェイカードを差し出して、それをオジさんが読取機に入れて、お礼の言葉と一緒に返してくれる十秒ほどの時間です。
別にどうってことはない、当り前の遣り取りです。
しかしこのこの小さな遣り取りが持つ意味は、意外に大きいような気がします。
歴史は大きな事件や出来事から語られますが、日常の些細な変化を見逃すと、骨組みだけのスカスカなものになってしまいます。
歴史を肉付けするのは日常の小さな変化の総和であり、気がつかないうちに変わってしまう生活の総体です。
もし現代人の不安や閉塞感の原因を探ろうとするなら、そのような日常の些細な変化に注意する必要があります。
人間との、ホンの一瞬の接触。
考えてみれば、わたし達はいろいろな場面や所でこれを失ってきました。
電車の駅の自動改札。
これができる前には駅員が切符を切ったり、受取ったりしていました。
そのもっと前は、切符を買うのにも窓口で駅員に行先を告げたものです。
昔の家やアパートには内湯がなくて、多くの人は銭湯を利用しました。
寒い冬や遅い帰宅のことを考えて、アパート探しの条件の一つは近くに銭湯があるかどうかでした。
銭湯には、人間とのホンの一瞬の接触が数多くありました。
日本の豊かさが進むにつれて、家に浴室ができ、アパートもバス付きでないと借り手がいない時代になりました。
外の寒さや時間を気にすることなく、快適に風呂に浸かることができるようになりました。
実に便利ですが、今やそれは普通で誰も便利だとは思いません。
風呂がないのは単に不便でしかなく、喪失した銭湯での出来事を忘れてしまっています。
買物もスーパーマーケットの出現で大きく変わりました。
出現当時のスーパーは確かに安かったのですが、それ以上に客の心を捉えたのは煩わしさからの解放です。
個人商店で買物するのは、挨拶に代表される何かしらのコミュニケーションが伴います。
人間との、ホンの一瞬の接触ですね。
スパーマーケットでは、誰にも煩わされず、買いたい商品を好きなだけ時間をかけて選ぶことができます。
そうしたって、誰も文句は言いません。
レジに並び、品物の入ったプラスチックのカゴを店員に差し出して精算すれば終りです。
店員に挨拶する必要もないし、もしそこで話が始まったら後の客に迷惑になってしまいます。
店員は必要なことしか喋らないし、客は常連であろうと一見(いちげん)であろうと差別されません。
その関係が進化したのがコンビニで、マニュアルで躾けられた店員に個性は存在しません。
店員は、商品とお金の交換の立会人として存在しているだけです。
それでも、そこには薄められたホンの一瞬の接触があるのかもしれません。
コンビニにはETCがまだないからです。
近い将来、ユビキタスコンピューティングの社会が到来するそうです。
ユビキタスコンピューティングとは、東大の坂村健教授(国産OS、TRONの開発者)が中心になって進められているプロジェクトです。
生活の中にコンピュータを偏在させ、便利で快適な環境を作りだそうという試みです。
極小のマイコンをあらゆるものに埋め込み、それらと通信することが生活の中心になります。
ユビキタスコンピューティングが普遍化したとき、コンビニにもETC(のようなもの)ができるはずです。
ユビキタスコンピューティングの核は通信ですから、ウィルスが侵入する恐れがあります。
ここにウィルスが侵入したら、パソコンのウィルスどころの話ではなくなります。
生活がメチャメチャになってしまいます。
もちろんそこは抜かりなく、通信の暗号化によってセキュリティを保つそうです。
でも、わたしは思うのです。
ウィルスよりも怖いものが、ユビキタスコンピューティングにはあるのではないかと。
便利や快適を得ることによって失うものがあって、その存在が将来わたし達の生活を脅かすのではないかと。
セキュリティという言葉がいつの間にか日常語になってしまいました。
仮想的なコンピュータの世界と現実の世界の両方でです。
コンピュータのネットワークは未知の人間との交わりですから、良し悪しは別として、そこにはIDなりパスワードが必要になります。
他人の家(サーバー)にログインするには許可されたIDとパスワードがないと中に入れません。
(コンピュータはバカですから、自己所有のマシン間のネットワークにもIDとパスワードが必要になります。)
最近のほとんどのマンションにはオートロックという機能が付いています。
関係者以外立入り禁止で、住民の許可がないと入れません。
個人的には、これが嫌いです。
最近テレビやラジオのCMで目立つのが警備会社です。
これも、個人的に嫌いです。
セキュリティを保てば短期的には安全を手に入れられますが、セキュリティがあることによって長期的には犯罪が増えます。
これは単純な論理です。
他人(赤の他人)と接触しないと、他人(赤の他人)が何を考えているか分らないからです。
分らないからセキュリティを強化する、そうなると社会には理解が存在しなくなって、理解不能の人間に対して人間的行動をとらなくなる。
逆説的に考えると、犯罪とは人間的行動です。
理解が欲しいために、非人間的な人間的行動をとってしまうのが犯罪です。
人間というのは、理解がないと生きていけない動物なんですね。
人間との、ホンの一瞬の接触。
これが少なくなってきたのは、生活家電の普及からだと思います。
時代でいえば、1960年代からです。
高度経済成長の時代です。
家事労働の軽減に大きく役立ち、便利、快適な生活をもたらしてくれたは生活家電です。
炊事や洗濯には近隣とのコミュニケーションが伴っていました。
井戸端会議や食品を分けあったりすることです。
家電が家に入ると、そういう行為は不要になります。
洗濯は家の中でしますし、食品は冷蔵庫によって備蓄が可能になりました。
買物もスーパーマーケットで大量に買い溜めするようになります。
ご近所の商店は高いし、一軒一軒回るのは非効率です。
個人的な体験でいえば、1960年代末の話ですが、最初に借りたアパート(下宿)の洗濯場を思い出します。
ここで洗濯していれば、そのアパートにいる人間がおおよそ分りました。
一緒に洗濯していれば話をしますし、住人の情報も入ってきます。
寒い冬などはつくづく洗濯が嫌でしたが、セキュリティには気を使わなくても済みました。
(セキュリティも何も、盗られるものがほとんどなかったですし、他人が怖くなかった時代です。)
家電の普及が行き着くと、情報機器が便利、快適の主役になります。
1980年代からでしょうか。
電話、FAX、ポケベル、携帯電話、パソコンです。
家と世間を繋ぐ電話が、個人のコミュニケーションツールとして変化していく過程です。
いつ何時でも連絡が取れるから便利で快適ですが、便利で快適の本当の中身は、自分の都合に合わせて自分を理解してもらう、ということです。
他人の都合に合わせるという煩わしさからの解放が、便利で快適なんですね。
その頃から、いきなり他人の家に押し掛けるのはマナー違反になりました。
電話でアポをとって、それから訪問する。
プライバシーの尊重です。
わたしが子供の頃は、親戚や知人がアポなしで平気で訪ねてきました。
当時は手紙ぐらいしか通信手段がなかったので、それでも何の失礼にも当たりませんでした。
プライバシーもなかったのですが、セキュリティという言葉もなかったですね。
人間は理解してもらいたい動物です。
理解してもらえないと、孤独という厄介なものと付きあわなければなりません。
情報機器の進化は、自分の都合に合わせて理解しあう、という関係を作りました。
このメディアを通しての関係は、その場所の遠近を問いません。
かえって遠い方が理解しあえるのかもしれません。
お互いの都合を尊重できるからです。
(それとは逆に、毎日会っていても全然理解しあえない関係、というのもできました。)
しかし人間というものは我が侭なもので、都合の良い関係では飽き足らず、都合の悪い関係を夢想します。
恋愛ですね。
恋愛は都合が悪ければ悪いほど、燃えるものです。
不倫に奔るのは、そういうことです。
その不倫に最新の情報機器が一役買っているのは、首尾一貫している、といっていいのかどうか。
ともあれ、近年の異常な恋愛ブーム(やはり異常だと思います)には、理解されたいという欲望の行き場のなさが現れています。
便利で快適な都合の良い関係から抜け落ちた何かが、濃い恋愛関係への憧れになっている。
情報機器の普及も、人間との、ホンの一瞬の接触の機会を奪ってきました。
電話で済めばわざわざ会うこともないし、メールだったらもっと便利です。
双方の都合を煩わすことなく、用が足せますから。
便利や快適が退けた、人間との、ホンの一瞬の接触にどんな意味があるのでしょうか。
わたしは、そこに人間関係のベース(基礎)があると思います。
他人を知るという、人間関係のベースです。
考えてみれば、人間関係は煩わしさばかりです。
でも、その煩わしさの中にこそ理解があるような気がします。
水道を捻れば水が出る。
今では当り前ですが、寒い冬や冷たい雨の中での水汲み(川や井戸)は辛いものです。
辛いけれど、そこにも、自然との、ホンの一瞬の接触があります。
便利や快適は、人間だけでなく自然との、ホンの、一瞬の接触も知らず知らずに失います。
わたしは便利や快適が大好きです。
それを無条件に肯定した時代に育ち、その性(さが)は今でもわたしの中に在ります。
便利や快適さをどうしても捨てきれないわたしです。
でも、不便や不快を少しずつ受入れようと思っています。
後退することに、意味があるような気がしているからです。
高速道路の料金所のオジさんとわたしには何の関係もありませんでした。
あったのは、人間との、ホンの一瞬の接触でした。
この小さな喪失。
そして、それの積み重なったもの。
便利や快適と引き換えに、社会はその重みに耐えかねているのかもしれません。
<第六十四回終り>
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