わたしは、映画館のシートに座っています。
物語が終ってスクリーンが暗転すると、クレジットが表示されます。
キャストやスタッフの名前が映しだされますが、それは延々と続きます。
ロケ地のランチのケータリング係やら主役専用の運転手やら、それは延々と続きます。
席を立つ人が多い中で、わたしはいつも最後までそれを座って観ています。
バカバカしいと思いながらも、これが終ったときが映画の終わりだという信念で見続けます。
昔だったら「終」、「完」、「END」が出たら映画の終りで、アッサリしたものでした。
どうしてこうなったかといえば、権利の関係なんですね。
いろいろな人やユニオンが権利を主張してこうなり、監督はあれこれいわれるのが嫌でこうなったんですね。
詳しい事情は知りませんが。
バカバカしい儀式を見続けるわたしもバカですが、儀式を生んだ土壌はもっとバカですね。
ハリウッドのことです。
しかも、エンドロール以上にバカなことが映画の裏側で行われています。
法学者でスタンフォード大学の教授であるローレンス・レッシングの著書、「コモンズ」の冒頭にはこういう記述があります。
映画に出てくるあらゆるアート、家具、彫刻は使う前に権利のクリアが必要になる。
その中には、たまたま背景に出てきたポスター、主人公が手にしたコカコーラの缶、背後を走り去ったトラックの広告も含まれる。
それらを誰か一人でも認識したのなら、権利をクリアして使用料を支払う必要がある。
そうでないと、上映できなくなるか、上映後に公開差し止めをくらうことになる。
そういう事態を避けるためには、撮影前に映像に使用するリストを作って弁護士に提出しチェックを受けることになります。
もしリストの中に許可が下りないものがあれば、それは撮影に使うことができません。
つまり、ストーリーに何を映すかを決めるのは監督ではなくて弁護士ということになります。
アホみたいな世界ですが、残念ながらそれは現実です。
動かしようのない現実です。
そういう現実を踏まえて、どうしてそうなったのか、どうしたらそれを変えられるか。
その考察が「コモンズ」の核心です。
「コモンズ」は映画の話から出発していますが、テーマはインターネット上の所有権の問題です。
コモンズとは共有地のことで、社会における共有地の必要性をインターネットの原理と歴史に重ねて論考しています。
共有地の表象するものは「自由」です。
「自由」がない社会は停滞、後退し、「自由」がある社会は発展します。
原理(コード)として「自由」を内包していたインターネットが所有権の強化によって、その「自由」が危機に晒されています。
(本書の於けるキーワードはコードですが、400ページの論考をここで要約するのは不可能です。興味のある方は直接本書をあたって下さい。)
冒頭のアホな世界の只中で、レッシング教授は十八才の映画監督志望者にこうアドバイスします。
「もう好きなことはなんでもやっていいよ。でも―そしてここでわたしは、権利が法的にクリアできないからお金を払わない限り映画に入れられないものの長大なリストを読み上げることになる。で、自由ね。存在する自由はこういう自由だ。きみは全く何もない部屋で、友だち二人と一緒に映画を作るのはまったくの自由だ。」
なんとも素晴らしき新世界の住人であるわたし達ですが、ここでメゲてはいけません。
どんな世界にも希望というものはあります。
暗闇に一筋の光でも差していれば、それは希望です。
希望を語るオジさんは、巨大なコンピュータの前でリコーダー(縦笛)を構えています。
コンピュータには大きなピンクの蝶がとまっています。
これから何を演奏するのでしょうか。
オジさんは長髪に髭をたくわえ、表情は瞑想しているかのようです。
このヒッピーみたいなオジサンは誰なのでしょうか。
オジさんの名前は、リチャード・ストールマン。
リコーダーを構えるオジさんのポートレイトは、オジさんが書いた「フリーソフトウェアと自由な社会」という本の表紙の写真です。
今回はリチャード・ストールマンの著書を教科書に著作権について考えてみたいと思います。
ストールマンはソフトウェアのプログラマーです。
それもかなり優秀なプログラマーです。
若かりし頃の彼は、MIT(マサチューセッツ工科大学)のAI(人工知能)ラボのコンピュータプログラマ/アーキテクチャでした。
ラボの所有していた大型コンピュータのオペレーティングシステムをプログラム、構築していました。
エリート中のエリートだったと思います。
その当時、大方のソフトウェアはソースコードが公開されていて再頒布、改良が自由にできました。
ラボのプログラマコミュニティでもそれが当たり前で、自分の書いたソースを隠す者などいませんでした。
彼はラボの自由な雰囲気が好きで、ラボでの仕事を愛していました。
あるとき、ラボに一台のレザープリンタがXeroxから寄贈されました。
最新の高速プリンタで、研究員は大喜びでした。
ところがプロトタイプであったこのプリンタでは紙詰まりがよく起こりました。
プリンタはネットワークで共有していたので、紙詰まりが起きてもそこから離れている使用者には分かりません。
(分からないとその不具合は放っておかれるので、仕事の能率が著しく悪くなります。)
以前のプリンタでは、紙詰まりが起こると通信(メール)でその旨をプリンタから使用者に送信していました。
そういうプログラムをラボのプログラマが書いて、インストールしてあったのです。
何といってもエリートプログラマの集団でしたから、そういうことは朝飯前です。
そこでXeroxにプリンタのドライバのソースを要望すると、アッサリ断れてしまいました。
つてをたどって探した結果、ある大学にもそのソースコードがあることが分かりました。
ストールマンは大学に赴き、所有者にわけを話してソースコードを見せてもらおうとしました。
ところが、所有者は非開示契約を条件に所有しているものだからという理由で見せようとしません。
仕方なく、ストールマンは部屋のドアを思いっきり閉めて、大学を後にしたのでした。
ソースコードさえあれば、それを書き直してプリンタを快適に使用できるのに、それができない。
ラボにいるのはトップクラスのプログラマです。
イライラは募るばかりです。
この不条理は、ソースコードが公開されていないことに起因しています。
この事件の後しばらくして、ラボの大型コンピュータが製造中止になってしまいます。
このコンピュータの専用エンジニアだったストールマンや同僚は仕事を失ってしまいます。
しかしラボのプログラマは高技能者でしたから、民間からの勧誘が少なくありませんでした。
民間に就職してしまえば、今より高収入でリッチな生活が送れる可能性大です。
ただし、時代はソースコード非開示=私有化に傾いていましたから、ラボのような自由な雰囲気はまず期待できません。
特にストールマンにとっては、あのときの不条理が頭から離れません。
就職すれば、リッチな生活と引き換えにあの大学の所有者と同じ立場に立つことになります。
悩んだあげく、ストールマンは不安定だが自由な無職の生活を選びました。
そして、自分の人生を自由なソフトウェアに捧げることを決意したのでした。
ちょっと長くなりましたが、リチャード・ストールマンが理想主義者になるきっかけを綴ってみました。
今の世の中、現実主義者は掃いて捨てるほどいますが、理想主義者は少ないですね。
理想というものを描くのが困難な時代ですから、少ないのも無理はありません。
かく言うわたしにも理想はありませんし、そういう自分にかなり失望しています。
ストールマンの理想とは何か。
それは自由なオペレーティングシステム(OS)を作ることです。
WindowsとかMacもオペレーティングシステムですが、ソースコードは非開示です。
非開示ですから、ユーザーが改良しようと思ってもできません。
非開示どころか、WindowsXPにいたってはシリアルナンバーの入力だけではもの足りず、ライセンス認証までユーザに義務づけています。
個人でオペレーティングシステムを作る、それはかなり無謀なことです。
一般にオペレーティングシステムは、数百人のプログラマと数億ドルの費用と長い期間を費やして制作されるものです。
GUI(グラフィカル・ユーザー・インタフェース)を具えるオペレーティングシステム、WindowsやMacはそうやって作られています。
そんなオペレーティングシステムを無職の男が独力で作る、夢のような話ですね。
改良することも再頒布することも自由な、広く世界に開かれたオペレーティングシステムを作る。
それがストールマンの理想であり、彼はその理想に生きる理想主義者です。
(幾分短気で頑固な、付き合うのが難しい人でもあるそうです。)
ストールマンはその理想に向かって1984年にGNU(グニュー)というプロジェクトを創設し、翌年財政的な基盤であるFFS(フリーソフトウェア財団)を設立します。
GNUは「GNU's Not Unix」の頭文字を取ったもので、ハッカー特有の回帰的言葉遊びです。
オペレーティングシステムのモデルをUnixにしたことに由来する言葉ですが、彼はそこそこUnixが気に入っていて、システムの普及に互換性が必要なことを認識していました。
当時Unixには多くのユーザーがいましたし、通常ユーザーは互換性のないシステムにはなかなか手を出さないものです。
まずはUnixをベースモデルとして互換性を確保し、最終的にはUnixを超えるシステムを構築する、GNUとはそういう運動です。
ストールマンがGNUを開始したのは今から約20年前のことです。
彼自身、その理想が、夢が、生きているうちに実現する確信はありませんでした。
考えてもみて下さい、これはたった一人で始めた運動です。
しかし、多くの賛同者と幸運にも恵まれてその理想は現実の形をとりました。
そのオペレーティングシステムとは、GNU/Linuxです。
ソースコードが公開され、改変、再頒布が自由なオペレーティングシステム、GNU/Linuxです。
一般的にLinuxといえばフィンランドの大学生であったリーナス・トーヴァルズがプログラムし、インターネット上で育ったオペレーティングシステムのことです。
わたしもそう思っていました。
しかし、ストールマンの著書を読むと事情が若干違うようです。
大雑把にいってしまうと、カーネル(システムの心臓部)はLinuxですが、それ以外の多くがGNUの手を経ています。
クルマに喩えればエンジン(カーネル)以外の多くがGNUメイドということです。
ストールマンはカーネルも自制するつもりでしたが、まず手を付けたのはプログラムを作るツールの制作でした。
地味な作業ですが、それがないと効率的なプログラミングができません。
良い家を建てるためには良い道具から作る、理想に向かっての小さな第一歩です。
現実的な(?)理想主義とはそういうものなのですね。
外濠から埋めていって、さあ本丸(カーネル)というときに計算違いが起こりました。
予想外の技術的困難で歩みが停滞したとき、奇跡といってもいい事態がヨーロッパの果てで起こりました。
カーネルLinuxの誕生です。
大西洋を挟んで同時に進行していたプロジェクトを結びつけたのはインターネットです。
正確には、両者を知っていたインターネット上のハッカーです。
彼らがGNUシステムとカーネルLinuxを結びつけて合体させました。
通常Linuxと呼ばれているオペレーティングシステムの実態は、カーネルLinuxと多くのGNUシステムツール群です。
再びクルマに喩えれば、エンジンはLinux、それ以外の多くのパーツはGNUメイドです。
F1だってシャシーメーカーとエンジンメーカーは並記して表記されます。
マクラーレン・メルセデス、BMWウィリアムズといったふうに。
だからこのオペレーティングシステムもGNU/Linuxと呼んで欲しい、本書でそうストールマンはお願いしています。
これは彼のエゴから出たものではありません。
このシステムの存在に最も欠かせなかったプロジェクトはGNUであり、それがまったく言及されないのはプロジェクトにとって大きな打撃になるからです。
これは良く理解できます。
ですから、わたしも以降はこのシステムをGNU/Linuxと表記します。
はて、これは<音楽>の研究ではなかったのか。
<オペレーティングシステム>の研究ではないはず、と感じられている方も多いと存じます。
<音楽>の研究で間違ってはいません、イントロが長いだけです。
わたしが音楽を含めた著作権を調べていたとき、これはと思う本がありませんでした。
分厚い法律専門書か現実的なハウツー本ばかり。
そんなとき、タイミング良くこの本に出会いました。
「フリーソフトウェアと自由な社会」は主にソフトウェアの著作権をテーマにしていますが、その根底にあるのは著作権に対する優れた洞察です。
ここには著作権が誕生した経緯やその思想が明解に記されています。
本書を拠り所に音楽の著作権を研究するとしたら、著者のストールマンの思想も紹介しなければなりません。
何故ならば、ある意味で彼の思想は著作権が本来持っていた思想の継承ともいえるからです。
著作権という権利が生れた背景には印刷機の発明、普及があります。
グーテンベルグの発明した印刷機が産業として興ったのです。
それまで、本のコピーは写本という手書きで行われていました。
芸術的な写本から一般人の写本までいろいろな写本がありましたが、それらは何のお咎めもありませんでした。
コピーは自由に行われ、それを妨げるものは何もありませんでした。
印刷機が普及し、コピーが大量に出回るようになると当然写本は下火になり、本を購入する習慣が生れました。
又普及するに従い、著者と出版業者、出版業者と同業者の間で争いが起こり始めました。
ビジネスですから、利益を巡って諍いが起きたのですね。
そこで法による規制の必要性が生れました。
法を歴史的に大別すると大陸法と英米法に分かれます。
それぞれ立脚点と解釈に違いがあるようですが、著作権に関しては概ね一致しています。
ストールマンはアメリカ人ですから、当然アメリカ憲法の著作権を基準に考えます。
約200年前に生れたアメリカ憲法。
そこでは著作権はどのように規定されていたのでしょうか。
前述したように、印刷機の普及によって本のコピーは大量に作られるようになりました。
一般人の写本は趣味の範疇になり、現実的なものではなくなりました。
つまりコピーは印刷機によって中央集権化され、一般人には縁遠いものとなったのです。
アメリカ憲法の考え方はこうです。
もともとは国民の自然の権利であったコピー権を、一時的に著者と出版業者に売り渡す。
売り渡したコピーの独占権は著作活動の活性化を促し、多くの本が執筆、刊行される。
(与えられた独占権が著者に生活の安定とやる気を促し、著作活動が活発になる。)
その利益は、科学の進歩、豊かな文化という形で一般人が受取る。
これがアメリカ憲法の著作権の基本的な考え方です。
[議会は]著作者と発明者に対し、それぞれの作品および発明についての独占的な権利を一定期間保証することによって、科学および有用な技芸の進歩を促進する[権限を有する]。
アメリカ憲法第1条第8節の著作権の規定です。
目的は著者や出版業者の保護ではなくて、国民の利益であることが分かりますね。
しかも一定期間という限定を設けて、その後は国民にコピーする権利を与えて(=戻して)います。
日本の著作権法はどうなっているのでしょうか。
著作権法第一条
この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送、及び有線放送に関し著作者の権利及び隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
法の意図するところは同じですね。
アメリカも日本も同じです。
著作者に権利を与え、それを保護しつつ、目的とするところは「科学、文化の進歩、発展」です。
それを享受するのは、もちろん国民です。
ですから、著作権法の主体は国民にあることになります。
著作権が誕生した背景には前述した、著者と出版業者、出版業者と同業者の争いがありました。
著作権はどちらかといえば産業規制として生れたものです。
著者の権利を明確にして、出版業者を規制する法だったのです。
ここで前回のCCCD(コピーコントロールCD)に話を戻します。
CD-Rによるコピーと違法ファイル共有によってCDの売上が落ちた、それがCCCD導入の主な理由です。
もちろんレコード会社は正面切ってそれを理由にはしませんでした。
著名なミュージシャンを前面に立てて、お願いと脅しを交互にしたのです。
脅しとは、違法な行為は文化の衰退を招き最終的には損をするのはあなた方一般人、という理屈です。
確かに、文化の衰退を招けば損をするのはわたし達一般人です。
しかし、CDの売上減少の原因が違法コピーにあるのかどうかは不明です。
各種統計や調査を見ても、違法コピーと売上減少の因果関係は明確ではありません。
何故CDの売上が減ったのか。
原因を違法コピーと決めつけないで考えると、いろいろな要素が見えてきます。
減収と娯楽の多様化による、競争の激化。
今やレコード会社のライバルは他社だけではなく、異業種も含まれます。
(消費者の財布と時間は有限ですから。)
ネット配信の立遅れ。
適切な配信システムを構築できなかったことです。
自社や他社と相乗りした配信サイトはまったくの不振で、いつまで経っても軌道に乗りません。
適切なシステムを構築すれば反応があることは、AppleのMusic Storeが実証したとおりです。
利用地域が北米限定で、しかも数パーセントのシェアしかないMacのユーザー相手に二週間で約200万曲のダウンロード。
音楽業界の体質の変化。
メジャー五社で市場の大半を占めているのが、今の音楽ビジネスです。
そのメジャーは契約ミュージシャンの数%で売上の80%を賄っています。
当然、宣伝やプロモーションはその数%に集中して行われます。
一極集中の大量販売。
ユーザは、こういう供給に飽きてきたのではないのでしょうか。
わたしのような素人が考えただけでも、このような原因は直ぐに思いつきます。
現在のわたしは音楽ファンから数歩退いていますので、ちょっと自信がないのですが、今の音楽には活力がないような気がします。
買いたいと思うような音楽に出会わない、あるいは眼につく所にない。
どうも、流通している音楽の多くがマーケティング主導で供給されている感じがします。
タイアップや話題性の重視です。
簡単に言ってしまえば、提供される商品に魅力がないということですね。
だから買わない。
この簡単な論理を、音楽業界の方はもう一度考えたほうが良いかもしれません。
CCCDで片が付くほど、問題は単純ではないと思いますが。
音楽の衰退は国民にとって大きな損失であることはいうまでもありません。
預けた権利(コピーの独占権)が無駄になってしまうのですから。
豊かで魅力的な音楽をたくさん聴きたくて、権利を預けたのです。
権利を金に換える版権ビジネスに熱中したり、制約をユーザーに押し付けるのは筋違いではないでしょうか。
著作権の思想に立ち返れば、そのことは良く分かるはずです。
<音楽>の研究はまだ続きます。
(少し息切れしてきましたが。)
次回は著作権の続きと共有について考えたいと思っています。
<第六十一回終わり>
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