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iの研究



第五十九回 <白い花びら>の研究


今回は、いつもとページの背景色(パターン)が違いますね。
ちょっと気分を変えてみました。
(ま、恐らくは今回限りだと思います。)

久し振りの「iの研究」です。
二ヶ月以上間隔が空いてしまいました。
その間せっせとiPhotoを更新していたのですが、あれは、いってみればお絵かきです。
素材を集めてページ上で構成したお絵かきです。
わたしにとっては、楽しい楽しいお絵かきでした。



「フィンランドのとある村に仲の良い夫婦が住んでいた。
夫はユハ、妻はマルヤといった。」

映画「白い花びら」の冒頭のナレーションです。
正確にいえば、映画説明です。
映画説明?
映画説明とは、無声映画時代の活弁(活動写真弁士)の解説のことです。

無声映画(サイレント)には当然ながら音声がありません。
台詞や場面描写の文字パネルが合間合間に出るだけです。
それを補うのが活弁の解説です。

「白い花びら」はサイレント映画です。
1998年に製作されたサイレントです。
監督のアキ・カウリスマキは、この時代に何故サイレントという形式をわざわざ選択したのでしょうか。
奇をてらったのでしょうか。

「白い花びら」はお伽話です。
フィンランドの農村に住んでいた夫婦を主人公にしたお伽話です。
お伽話は現実から離陸(遊離)することで成り立っています。
夜耳元で「むかし、むかし、あるところに・・・・」と囁かれたとき、子供はファンタジーの世界に入っていきます。
ファンタジーとは現実から離れたところで成立する物語です。
アキ・カウリスマキが設定した現実から遊離した世界、それがサイレントなんですね。

わたしが観たのは衛星テレビの録画。
このバージョンには映画解説が付いています。
映画館での公開は解説無しのサイレントだったようです。
(ややこしい話ですが、両バーション共バックミュージックは付いています。映画で二ヶ所ある演奏シーンはトーキー同様音楽がシンクロして流れます。)
受ける印象は大分違うと思いますが、ここでは解説付きバージョンで話を進めます。

「二人は子供のように幸せだった。」

農村でキャベツ栽培で生計を立て、仲睦まじく暮らすユハとマルヤを形容した言葉です。
子供のように幸せな生活を送る夫婦。
この言葉の前提には、子供というものは幸せなものである、という認識があります。
親に保護されてイノセント(無邪気)に遊ぶ子供、確かに幸せですね。

幸せの中で一番幸せなのは、(幸せな)子供です。
な〜んにも考える必要がなくて、幸せの真っただ中にいる。
これ以上の幸せはありません。

逆にいえば、そういう状態を子供時代に経験し損なうと、幸せのトラウマを背負ってしまいます。
「何でわたしだけが、そのような絶対的な幸福状態から疎外されていたのだろう」、といつまでもウジウジ考えます。
ウジウジ考えた結果が立派な表現となって、表現者として成功するという場合もありますから、こういうケースは一概にマイナスともいえません。
安心して下さいね。

仲睦まじく生活する二人は幸せな子供のようであった。
これ以上の幸せが世界中にあるでしょうか。
ユハとマルヤは世界中で一番の幸せ者だったのです。
あの男が来るまでは・・・・。



わたしも夫婦を長年やっています。
まぁ、これはわたしにとってはある意味で幸運です。
何故なら、わたしは並外れた空想、妄想家だからです。
こういう人と距離をもって接する分にはそれほど害はありませんし、面白いこともあります。
(自分でいうのも何ですが。)

しかし夫婦という接近した関係では大変な迷惑になります。
年がら年中あらぬことを考えていますから。
それが職業として、例えば小説家とか脚本家とかで活かされれば空想、妄想も天賦の才といわれます。
わたしの場合、そういう才能もない。
ただ迷惑なだけ。

困ったことに、そういう人に限って迷惑な自分にナカナカ気が付かない。
(自分でもいうのも何ですが。)
性質(たち)が悪いですね。
気が付いたところで、空想、妄想で遊ぶ習慣は直らない。
これは病気ではなくて、習慣なんですね。
遠いむかしの子供時代に身に付けた。

そういう人と夫婦になった人は実に不幸です。
それが原因で別離ということになる可能性は大です。
しかしわたしは今も夫婦の関係を続けています。
何故かといえば、妻も(わたしより程度がマシとはいえ)相当な人だからです。

相当な人と相当な人が夫婦をやっているから、なんとか続いている。
有り体にいえば、そういうことではないかとわたしは思っています。

ユハとマルヤは相当な人と相当な人ではなくて、真当な人と真当な人です。
空想家でも妄想家でもありません。
地道にキャベツを育てて、それを町で売る。
それで生計を立てています。
(キャベツを町で売る、つまり貨幣経済に参入したことに物語の発端があるという説もありますが、ここではとりあえず置いておきます。)

あの男は赤いスポーツカー(モノクロ映画なので想像ですが)でやって来ました。
シュメイッカ、それが男の名前です。
スポーツカーはシボレーコルベット・スティングレー。

スティングレーの発売は1950年代、アメリカの黄金時代です。
シュメイッカは都会からやって来た影のある初老の男。

アメリカと都会。
これがフィンランドの田舎に同時にやって来ました。

故障したスポーツカーの修理を依頼されたユハは親切に対応し、シュメイッカに一夜の宿も提供します。
言葉巧みにマルヤを口説くシュメイッカ。
マルヤは孤児で、父親代わりに育ててくれたユハと結婚したのでした。
洗練された都会人の誘惑にマルヤは心が揺れます。

そんなマルヤの心境に気が付かないユハ。
マルヤの眼に、ユハは野卑で鈍感な田舎者に見えてしまいます。
揺れる自分を引き止めて欲しい人が、まったく気付かない。
マルヤにとっては腹立たしい以外何者でもありません。
気付かないユハに罪はないかもしれませんが、女性とはそういうものです。
そういう女心を手玉に取るのが、シュメイッカという男です。



修理と一夜の宿の礼に、シュメイッカは夫婦にお金を渡して去ります。
このお金は田舎の夫婦にとっては大金です。
ここから夫婦の生活が変化し始め、都会の消費生活が家庭に入り込んできます。
受取ったお金で購入した電化製品。
ラジオでロックンロールを聴きながら都会風の化粧に余念がないマルヤ。
家事も手抜きで、冷蔵庫に買い溜めた冷凍食品を電子レンジでチン。
サイレント映画の特質を活かした戯画的なシーンで、苦さの中に笑いが潜んでいます。

この映画には確とした時代設定がありません。
50年代風でもあり、現代でもあります。
第二次世界大戦後、という曖昧な設定しかありません。
何故なら、この映画がお伽話だからですね。
お伽話は「むかし、むかし〜」で始まりますが、何時のむかしなのか分かりません。
時代が定かでないのが、お伽話ですね。

子供のようにに幸せだった夫婦は、いつしか倦怠期の夫婦のようになっていきます。
ユハに無関心になっていくマルヤ、そのマルヤの心境の変化に置いてきぼりを食って憮然とするユハ。

家庭の電化製品、家電が主婦の労働を軽減したのは確かです。
しかし、労働の軽減は主婦の疎外も生みました。
井戸端会議という、労働に伴う共同体のコミュニケーションがなくなり、着飾った主婦は昼下がりのファミリーレストランで気の合った仲間と何時間でもオシャベリを続けます。
その時間が空虚な時間であるのかどうか分かりません。
主婦の心の中が空虚であるかどうかを断定する権利は誰にもないからです。
当の主婦以外には。

シュメイッカはお礼という口実で再び村にやって来ます。
都会の土産でマルヤの歓心を買うシュメイッカ。
村のダンスホールで踊るマルヤとシュメイッカ、酔いつぶれるユハ。
翌朝、マルヤは置き手紙を残してシュメイッカと村を出ます。

村外れの渓谷。
生れて初めて恋に落ちたマルヤは、岸辺でシュメイッカと結ばれます。
清廉な川に一輪の白い花びらが流れていきます。
事の後、眠りこけて目覚めたシュメイッカは傍らに咲いていた小さな白い花を足で踏み潰します。
マルヤの行く先を暗示するかのような場面です。
(題名の白い花びらが出てくるのはこのシーンだけで、うっかりすると見過ごしてしまいます。)

モノクロームの映像が美しい映画です。
特に農村の四季や、この渓谷のシーンは美しいですね。
音がない分、映像の美しさに引込まれます。

都会(ヘルシンキ)に到着したマルヤとシュメイッカ。
高級ホテルとシャンペン。
朝のまどろみを楽しむマルヤに届けられた、(早朝に出発した)シュメイッカからのカード。
「I Love You.」。
女心を知り尽くした男ですね、シュメイッカという男は。

マルヤは幸せの絶頂にいます。
しかし、マルヤが幸せだったのはここまで。

映画は前半の牧歌的雰囲気から都会の夜の気怠さに沈んでいきます。
ダークでコントラストの高い映像は、一時代前のフィルムノワールを彷彿させます。

シュメイッカは暗黒街の大立者でした。
密輸、売春などの裏稼業が専門で、取締りを逃れるために毎夜のように担当官庁の役人を接待します。
その接待係、夜のお相手としてマルヤはスカウトされたのでした。



その事実を知って落ち込むマルヤ。
頑なに役人の相手を拒むマルヤは、シュメイッカの怒りを買って下働きとしてこき使われます。
望郷の念にかられたマルヤは隙を見て脱出を図ります。
故郷への列車の前まで来ながら、気を失って倒れるマルヤ。
気が付けば、マルヤを取り囲んでいるのはシュメイッカの子分や女達。

マルヤは妊娠していたのでした。
シュメイッカの子供を宿していたのです。

<なんか、わたしが活動写真弁士ようですね。
いつものことながら、ついついストーリーを説明してしまう。
何故だから良く分かりませんが、いつもこういう展開になってしまいます。
これも空想、妄想癖の一つなのでしょうか。>


無事出産を終え、子供を抱えて病院からシュメイッカの家に帰るマルヤ。
一方、鬱屈したユハは村の男達に「寝取られ男」と揶揄されます。
その怒りを男達にぶつけるものの、けして癒されることのないユハ。

時が経ち、ユハは決意します。
手斧を研ぎ、それをリュックに入れて背負うユハ。
スーツにネクタイという都会行きの出立ち。
愛犬をサイドカーに乗せて都会行きのバス停まで行き、懇意の村人に犬を委ねてバスに乗ります。
走り出すバス、バスの後部窓からはいつまでも追いかける犬が写しだされます。
泣けるシーンですが、これは過去の映画からの引用。
具体的な映画名は思い出しませんが、どこかで見たはずのシーンです。
カウリスマキ世代の得意とする引用です。

この映画の邦題は「白い花びら」。
原題は何でしょうか。
「JUHA」。
ユハ、です。
ユハの哀しみと怒りと愛情を描いた映画が、「白い花びら」です。

白い花びらはマルヤの象徴ですから、原題とは正反対の題名ですね。
でもこの題名も間違っていません。
この映画のテーマは、人と人の結びつきです。
夫婦は、その最小単位です。
(必ずしも夫婦が最小単位とは限りませんが、そこに子供という未来を生む可能性において、夫婦はやはり別格ではないでしょうか。)
だから間違ってはいないのです。

ヘルシンキに到着したユハはマルヤの居るシュメイッカの家に直行します。
ユハの憤怒に恐れをなして倒されるシュメイッカの用心棒達。

マルヤと再会したユハはマルヤを責め、赤子を窓から投げようとします。
「この子に罪はないから」と懇願するマルヤ。
思いとどまって、赤子をマルヤに戻すユハ。

ユハの怒りはシュメイッカに集中します。
狼狽えて発砲するシュメイッカ。
二発の弾が、ユハの胸を貫きます。
ユハの怒りが被弾の痛みと気力の萎えを上回り、シュメイッカを追いつめます。
振り下ろされる手斧。

すべてが終り、ユハはマルヤと赤子をタクシーに乗せ帰郷を促します。
駅構内の階段を下るマルヤ。
朝の構内、多くの乗客は都心への通勤客ですから階段を上ります。
その流れに逆らうように下るマルヤ。
都会から田舎への逆走です。
その顔には輝きがあって、しっかりと赤子を抱きしめています。

広大なゴミ捨て場。
朝の陽を浴びてよろめきながら歩くユハ。
そこで精根尽きたユハは、崩れ落ちます。
ユハめがけて、ゴミ集めのブルトーザーがユックリと進んできます。



ここで映画は終ります。
カウリスマキの映画としては長い方ですが、それでも約70分。
いつもように淡々と始まり、淡々と終る映画です。

「白い花びら」の映画評をWebで見てみると、陰惨な悲劇という評が結構あります。
確かに物語は悲劇といえます。
しかし、赤子を抱いて駅構内の階段を下り列車に乗ろうとするマルヤの顔には輝きがあります。

「この子が光だ」。

このシーンの映画解説です。
光とは、希望のことです。
ユハがこの子を生かすことを選び、マルヤと赤子を故郷に送りだした時、そこに希望が生れました。
ユハのマルヤへの愛が、希望を生んだのです。

希望が生れた映画は悲劇ではありません。
どんなに物語が悲惨でも、未来を肯定する映画です。
観る者の眼が明日の方向に向かえば、それは悲劇とはよべません。

「白い花びら」は二重構造になっている映画です。
夫婦の愛情について映画であり、一方で農村に忍び寄る消費経済を描いた映画です。
(ラストシーンでユハが死ぬゴミ捨て場は、消費経済の行き着く先であり、矛盾の具現化する場所です。)
そのバランスの取り方と方法(サイレント)の巧みさが際立つ映画です。

この映画はお伽話ですから、そこには教訓があります。
お伽話には教訓が付き物ですから。
消費経済がいかに人の心を変え、共同体を崩壊させていくかという教訓です。

子供のように幸せだった夫婦。
その夫婦の関係を変えたのはシュメイッカという男です。
シュメイッカが象徴するのは都会とアメリカです。
フィンランドだけではなく、第二次世界大戦後の多くの国にシュメイッカはやって来ました。
(アメリカは戦中、戦後を通じてアメリカの圧倒的な物量で消費経済をプロパガンダしました。)
都会とは、消費を中心に置く生活圏のことです。

モノが最も消費されるのは、戦争と家庭です。
そういう観点から見れば、イラク戦争とグローバリズムはカードの表裏です。
カードのディーラーは、アメリカ。

「白い花びら」という物語を支える下部構造は消費経済です。
しかし消費経済はあくまでも下部構造であって、全てではありません。
もしこれが下部構造をハミ出すと、図式的な映画に陥ります。
そうなっていないのが、アキ・カウリスマキの手腕です。
サイレントという形式や、そこここにちりばめられた引用も効果的です。

この映画のテーマはやはり人間であり、人間と人間が丁寧に描写されています。
ユハとマルヤという夫婦の、とりわけ心を扱った映画です。

ユハは自分を裏切ったマルヤを許し、憎い男とマルヤの間に生れた赤子の命をマルヤに委ねます。
深い、深い、愛情です。
その愛情の深さをマルヤは受け止め、愛情は光となって赤子から発せられます。
「この子が光だ」は、そういう意味なのですね。
愛情が憎しみに勝って、それは希望になったのです。

だから、この映画は悲劇的体裁でありながら、それを乗り超える希望の映画です。
苦い映画なのに、観た後には清々しさを感じる映画です。
ここには、消費経済で傷だらけになりながらもそれを超えようとする人間の愛情が描かれています。
それがカウリスマキの表現であり、意志です。

「二人は子供のように幸せだった。」
イノセントな愛情の交換、世界中で一番幸せな二人です。
オートバイのシートに仲良く並んだユハとマルヤの二つのヘルメット。
幸せを絵にした、ほほ笑ましいシーンです。

シュメイッカの登場で、想像さえできなかった別離となる二人。
怒りと憎しみ、生と死のギリギリところで生れた、新たな二人の愛情。
傷だらけですが、美しくて、深い愛情です。


「むかし、むかし、あるところに〜」、子供はお伽話の途中で眠りにつきます。
そして次の夜、子供は話し手にその続きをせがみます。
「白い花びら」はお伽話です。
(実は勝手にわたしがそう評しているだけですが。)

「白い花びら」というお伽話を最後まで聞いて、眠りに落ちる貴方。
どんな夢を見るのでしょうか。
きっと、幸せな夢ですね・・・・。

<第五十九回終わり>






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