マイク・タイソンは広大な屋敷で千羽の鳩を飼っているそうです。
少年時代、タイソンが鳩を愛好していたのは有名な話です。
元来が内気で言葉の少ない少年だったタイソン。
彼が鳩を好きだったのは十分に想像できますね。
しかし、千羽の鳩です。
過剰、ですね。
今年(2002年)の6月8日、メンフィスでレノックス・ルイスにノックアウトされてタイソンはキャンバスに沈みました。
ヘビー級史上最年少の20才4ヶ月で世界王座に就いてから15年余り、数々のスキャンダルに塗れながらも最強と謳われたタイソン。
彼の時代は、終わりました。
勝ったルイスがそれほどまでに強かったというわけではなくて、ただ単にタイソンの力が衰えただけの話です、
マイク、彼ほど不幸なチャンピオンはいませんでした。
もし彼が違う時代に活躍していれば、あのモハメド・アリと並び称されたかもしれません。
わたしはタイソンのファンではありませんが、彼の退場には一抹の寂しさを感じます。
GNPと世界チャンピオンの数は反比例する、は関川夏生の名言です。
わたしの子供時代、つまり日本が後進国だった時代です。
日本人の世界チャンピオンが誕生すると国民的なニュースになりました。
新聞の一面に写真入りで掲載されました。
良く憶えているのは、ファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを破って王座を獲得した時です。
(その前の、日本人初の世界チャンピオン白井義男の時代はさすがに知りません。)
電波障害でローカル局以外は視聴できない自宅から、同じ市内でも何とか映る親戚の家まで行って見ました。
ま、今年のワールドカップの熱狂には及ばないかもしれませんが、選手も観客も熱かったことは事実です。
多くの国民がファイティング原田に何かを重ね合わせて、一生懸命声援を送ったのでした。
テレビの普及と共に人気を得たボクシングでしたが、ボクシング団体の乱立によるチャンピオンの粗製乱造、娯楽の多様化などで徐々にその人気を失っていきました。
一番の原因は、他ならぬテレビ自身の視聴率稼ぎによる無理なマッチメークです。
世界タイトル戦さえ放映すれば視聴率が取れるということで、テレビ局が後ろ盾になって実力や実績のともなわない選手を次々に世界に挑戦させました。
水増しされた世界タイトル戦の乱発です。
結果、日本人挑戦者の敗退の連続で視聴者に飽きられることになりました。
今では世界タイトル戦でもテレビ中継されないことが珍しくありません。
テレビは消費するだけで育てることをしない、とはある芸人に言葉ですが、まさにそういうことですね。
豊かさと反比例して日本では人気をなくしたボクシングですが、ヘビー級だけは別です。
ここには地球上で最強の男を決めるという伝説があり、ケタ違いの金が動くビッグイベントであり続けています。
ヘビー級だけはマーケットが国境を越えて全世界的であり、選手の国籍に左右されない人気を持っています。
(一時的に人材不足から中量級に興業の中心が移った時もありました。)
テレビの普及は、もちろん日本だけではなくて全世界的なものです。
しかも衛星中継という技術進歩のお蔭で、リアルタイムで世界中のスポーツを楽しめます。
スポーツがテレビと結びついた以降の最大のヒーロー、それはモハメド・アリです。
これは断言できます。
第二次世界大戦後のスポーツ界最大のヒーローであり、もしかしたらスポーツを超えた二十世紀のヒーローの一人かもしれません。
わたしにとってもモハメド・アリはビートルズと並ぶ最大のヒーローであり、スーパースターです。
(現代美術だのLinuxだの、へそ曲がりというかマイナー指向のわたしですが、ヒーローに関しては極々一般的です。)
高校生の頃、学校をさぼって真っ昼間に衛星中継されたアリの試合を見た記憶があります。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容された軽やかなフットワークとスピードのあるパンチは、ヘビー級では異例でした。
ヘビー級の試合といえば大男が足を止めて力一杯打ち合うのが通例であり、その迫力が魅力でした。
しかしアリの華麗なファイトを見た後は、それが鈍重で退屈に見えてしまうこともありました。
アリが登場した1960年代、その時代は何事につけてもスピードを追い求めた時代でした。
アリは1964年に世界チャンピオンに就いた直後に、それまでの「カシアス・クレイ」という名から「モハメド・アリ」に改名します。
ブラックモスリム(黒人を中心としたイスラム教)への入信が動機で、奴隷制度を引きずった名前である「カシアス・クレイ」を嫌ったためです。
この時点から、アリはスポーツ界のヒーローという範囲から足を一歩外に踏み出すことになります。
アリはデビュー当時から「ビッグマウス」(大口叩き)という異名をとるほど自己アピールに長けていました。
「オレは偉大だ!」が口癖で、「ヤツを5ラウンドに倒す」といった予言とその実行も人気に拍車をかけました。
実にサービス精神旺盛な性格で、それはメディア及び興業界にとっては話題に事欠かないという意味で絶好なパーソナリティでした。
その一方、「ブラック・イズ・ビューティフル」という有名なフレーズも生んでいます。
アメリカ社会で劣等感を持っていた黒人の意識をひっくり返した超有名なフレーズです。
「ビッグマウス」は社会的な存在である自己に自覚的であり、それをストレートに表現する詩人的感性も持っていました。
もちろん「ビッグマウス」を「ビッグマウス」に終わらせなかったのは、ボクサーとしての類い稀な実力があったからです。
アリはブラックモスリム入信以降、黒人解放運動の旗手マルコムX と交流を深めるなど社会的な立場でもニュースになりました。
それを決定的にしたのは、1966年におけるベトナム戦争での徴兵忌避です。
アリは信仰に従い、「ベトコンはオレを差別しないし、オレがベトコンを殺しに行く理由は何もない」とストーレートに心情を語りました。
アリは裁判にかけられ、ボクシングライセンスも剥奪されて全盛期の三年五ヶ月を法廷闘争に費やしました。
話を唐突に現代に戻しますが、冷戦崩壊後突出した大国になったアメリカは中近東で戦争を続けています。
ベトナム戦争当時、アリのようなスポーツ選手が国家批判をしたことは、裏返して考えればアメリカに健全さが残っていたことを物語っています。
それは今のアメリカでは絶対にあり得無いことです。
アメリカンドリームはあっても、アメリカの矛盾を体現できるヒーローの不在です。
ヒーローとは民衆の憧れであるのと同時に、民衆の潜在意識を体現するものなのですから。
(タイソンの不幸とは、実は時代の不幸であったという話はまだ先の話ですが・・・・。)
アリが全盛期の三年五ヶ月を棒に振ったことは、その後の推移を考えれば、起承転結の転に過ぎないことでした。
「結」、ではなかったのです。
ドラマは転があってこそドラマであり、窮地があればこそ、それを乗り超えた真のヒーローが生れるのです。
「結」は、1971年カムバック後に掴んだ最初の世界戦であるジョー・フレージャーとの戦いでした。
アリの不在時にチャンピオンになったフレージャーは、その巡り合わせによって敵役に回らざるを得ませんでした。
まぁこれは、フレージャーにとっては不本意なことだったと思います。
別にフレージャーがアンクルトム(白人に忠実な黒人)だったわけではなかったのですから。
図式として、黒人社会のヒーローであるアリと対戦する反動的な黒人というポジションになってしまっただけです。
「結」になるはずだったフレージャー戦で、アリはダウンを喫して判定負けに終わります。
ボクサーにとって三年五ヶ月のブランクがどれ程のものであったかの証明です。
徴兵忌避前のアリはヘビー級史上一二の実力者であり、フレージャーの相手ではなかったのです。
「結」は宙に浮いて、民衆がアリを忘れかけた頃、1974年アフリカのザイールでその舞台が用意されました。
その時、アリに初めて黒星をつけたフレージャーを完璧に叩きのめした男が王座に君臨していました。
ジョージ・フォアマンです。
アリとフォアマンのファイトをドキュメントした秀逸な映画があります。
「モハメド・アリ かけがえのない日々」がそれです。
アリ関係の映画ではウィル・スミス主演の「Ali」が今年公開されました。
ラッパーであるウィル・スミスが「ビッグマウス」アリを演じるのは適役ですね。
残念ながら見逃してしまいましたので、ビデオで観賞するのを楽しみにしています。
その他、勝新太郎が制作した「黒い魂/Stand Up Like A Man」なんていう記録映画もあります。
「モハメド・アリ かけがえのない日々」もドキュメンタリーですから、当然1974年に撮影されていますが、公開されたのはなんと1997年。
権利関係のトラブルで公開が延びたという話も聞きましたが、その間22年に渡って編集作業が続けられたようです。
インタビューとしてスパイク・リーや作家のノーマン・メーラーも登場しますが、これらは最近の映像です。
現地で試合を観戦したノーマン・メーラーや取材陣は、「あの時を振り返る」形でコメントしています。
この試合をプロモートしたのは、あの悪名高きドン・キングです。
髪の毛を真上に逆立てた大男の黒人です。
この人は服役経験者ですが、猛烈に仕事をする人らしいです。
猛烈に仕事をして、猛烈に選手からも搾取するトラブルメーカーですが、憎めないところもあるようです。
この試合のプロモートに成功して、以降ヘービー級の興行界の文字通りドンになります。
世界のボクシング史上最も有名なファイトであるアリ/フォアマン戦ですが、この試合がコンサートとセットになっていたのは意外と知られていない事実です。
わたしも映画を観て初めて知りました。
J・ブラウン、B・B・キング、スピナーズやジャズ・クルセイダースといったビッグアーティストが、アフリカのミュージシャンと共に出演しています。
イベントの資金を提供したのはザイールの独裁者モブツ大統領で、主な理由は自己と自国の宣伝。
この辺りの背後関係の描写やモブツのお洒落振りも映画の見どころです。
試合会場のスタジアム地下が拘置所兼処刑所になっていて、暗殺と大量処刑の祟りを恐れてモブツは当日観戦にやって来ません。
テレビで試合を観たそうです。
この時25才のフォアマンは40連勝中で負け知らず、ほとんどがKO勝ちというとんでもない戦績でした。
何しろアリが苦杯をなめたフレージャーやノートンを子供扱いにしてノックアウトしています。
粗野な大男で、丸太のような腕を振り回して相手を早い回に沈めています。
ファイターですがフットワークが素早く、大柄な割にスピードも持っています。
対するアリは既に32才になっていました。
予想も圧倒的にフォアマン有利。
当時わたしは喫茶店でバイトをしていましたが、そこのバイト仲間や店長と賭けをしました。
アリに賭けたのはわたしだけで、後は全員フォアマン。
わたしにしてもアリが勝つとは思っていませんでしたが、自身のヒーローに賭けないのはあまりにも失礼だと思ってアリに一票を投じました。
試合が開始されたのは10月30日の現地時間午前4時。
アメリカのテレビのゴールデンタイムに合わせたためです。
夜明け前のアフリカにゴングが鳴らされ、世紀の一戦は始まりました。
試合前から声援はアリ一色で、アリの人気がアフリカまで及んでいることを物語っています。
この試合がヘービー級の王座を決めるスポーツイベントの域から、アリの「結」になっていることに観衆は気が付いていました。
テレビの前でかたずを呑んで観戦している全世界の人々も又然りです。
アリの「結」はイコール、ヒーローに夢や希望をゆだねたアメリカのマイノリティや第三世界の「結」です。
勝つにしろ負けるにしろ、そこで物語は終わるのです。
1ラウンド、足を使って果敢に攻めるアリ。
定石である左ジャブから入らず、右ストーレートをいきなり打ちます。
早期決着に賭けたアリの大胆で危険な作戦ですが、パンチがあたってもフォアマンは倒れません。
2回以降はがらりと戦法を変え、ロープに身体をあずけ頭をガードして、ボディをフォアマンに好きなように打たせます。
映画で初めて見せるアリの第1ラウンドの真剣な表情は鬼気迫るものがあります。
サービス精神とイベントを盛り上げた「ビッグマウス」はそこにはなく、全世界の重みを一身に背負った男の必死の表情だけがあります。
物凄いスイングでアリのボディを叩き続けるフォアマン。
頭部へのパンチをのけ反ってかわすアリ。
アリのボクサーとしての素晴らしさは、パンチを見切る、つまり頭を反らして一寸先でパンチをかわすテクニックです。
だから、ノーガード(矢吹ジョーもマネしてましたね)で戦えるのです。
しかし一方的なフォアマンの攻勢に、多くの観客はアリの敗戦を予感しました。
サンドバッグ状態になったアリは、接近するフォアマンにそれでも何事か語りかけています。
「オマエのパンチは全然効かないぞ」、と。
展開が変わりだしたのは5回の後半から。
打ち疲れのみえはじめたフォアマンに対して、突然攻撃に転ずるアリ。
その後はアリのペースで、フォアマンは打ち疲れと暑さですっかりスピードを失ってしまいます。
試合後アリが命名した「ロープ・ザ・ドープ」(麻酔のロープ)作戦が功を奏し、8回アリの放ったクリーンな右ストレートでフォアマンは倒れます。
夜明け前の死闘が終わり、アリの「結」も終わりました。
アリに夢と希望をゆだねた人々の「結」も終わりました。
アフリカの夜がもたらしたファンタスティックな、「THE END」です。
その後のアリは、数少ない好試合と多くの凡戦を残して引退します。
(アントニオ猪木との異種格闘技は世紀の凡戦です。)
パンチの後遺症が原因と思われるパーキンソン氏病に侵されているのは、アトランタオリンピックの開会式でご存知ですね。
ヒーローが夢を実現した時、同時に地に墮ちたヒーローがいたことを忘れてはいけません。
それまでは無敵のヒーローだった、ジョージ・フォアマンです。
フォアマンはアリとの戦いの後、2年間に渡り鬱病に悩まされ、プエルトリコでの試合で敗れたのを最後に引退します。
試合後控室で高熱にうなされたフォアマンはそこで宗教的な体験をします。
牧師となって布教活動に第二の人生を歩んだフォアマンが突然カムバックしたのが1987年。
教会の資金稼ぎが表向きの理由でしたが、フォアマンもやはりリングでの「結」を望んでいたのです。
アフリカの夜で「転」んだ自分を回復するのは、リングでの「結」しかないと思ったのです。
でっぷり太った44才のフォアマンは打たれながらも前に出て、持ち前の強打で勝利を重ねていきます。
フォアマンが最初にボクシングを始めた時のヒーローはアリでした。
アリに憧れて、フォアマンもボクシングを始めたのです。
アリは対戦相手を挑発し、自己の正当性を過剰にアピールします。
半ばジョークも交じった「ビッグマウス」なのですが、不当に貶められた対戦相手が傷つく時もあります。
フォアマンはアフリカで、「何故自分より肌が白いアリに人気があって、黒いオレが嫌われるのだ」と悩みます。
そして、アリのファイトに「死をも恐れぬ何か」を見てしまいます。
自分が決して持っていなかった何かです。
その何かは、一枚のピースが残ったジグソーパズルであり、その一枚はリングにあると確信してフォアマンはカムバックしました。
彼はそれから七年の歳月をかけて、ついに世界チャンピオンの地位を回復します。
彼も「結」を手にしたのです。
ファアマンが掴んだ「結」が何であったのかは想像できます。
アリがアフリカで決着をつけたのと同じ「結」です。
「死をも恐れぬ何か」を、フォアマンは獲得したのです。
「モハメド・アリ かけがえのない日々」の最後で、ノーマン・メイラーはコメントしています。
「今のフォアマンほど友好的で優しい人物はいない、素晴らしい人格者なのだ」。
ヒーローに憧れたヒーローが、そこで追いついたのです。
タイソンがプロのリングに上がったのは、アリがアフリカで勝利を収めてから十一年後の1985年です。
アリの引退後のヘビー級は、アリのクローン(例えばラリー・ホームズ)が活躍した人気のない時代でした。
アリはアフリカで有終の美を飾ったのであり、観客はクローンではなく新しいヒーローを求めていたのでした。
ニューヨークのブルックリンで生れ、いっぱしのワルも経験したタイソン。
アメリカのボクサーにありがちな経歴ですが、彼のパンチのスピードとパワーは別格で、フォアマン以降では傑出した選手です。
タイソンには形容しがたいナイーブさと淋しさがあります。
チャンピオンになった頃のタイソンが、円形脱毛症のままリングに上がった姿が今も記憶に残っています。
タイソンはデビュー以来順調に白星を重ね、二年も経たない1986年の11月に世界王座を獲得します。
スタァの道を驀進していたタイソンが最初に躓いたのは1990年の東京での防衛戦。
タイソン圧倒的有利の予想を覆して、無名のダグラスがタイソンをノックアウトしてしまいます。
その後も不運は続いて、1992年にレイプ事件で三年間の服役を余儀なくされ、奇しくもアリと同じように全盛期を棒に振ってしまいます。
カムバック後のタイソンにはダーティなイメージが漂い始めます。
そういうレッテルを貼って、ヒール(悪役)で再売出しを図ろうとしている興行界の思惑です。
もともとが野獣的ファイトのタイソンでしたから、見当外れな狙いではないのですが・・・・。
タイソンが復帰してリングに上がった時、彼の身体に三人の男が彫(し)るされていました。
両腕と胸に、毛沢東、チェ・ゲバラ、アーサー・アッシュの刺青があったのです。
これは驚きでした。
獄中で彫ったものですが、黒人初で唯一のウィンブルドン覇者アッシュはともかく、他の二人は・・・・。
アッシュは人種差別に毅然と闘ったテニスプレーヤーで、人権運動にも力を注いだ人です。
これは解りますね。
ゲバラはキューバ革命の指導者で、1960年末から1970年にかけて世界に名をとどろかした職業的革命家です。
最も解らないのが、毛沢東。
ゲバラと同じく、あの時代だったら理解できるのですが。
タイソンは、これもアリと同じように出所後(もしくは獄中で)ブラックモスリムに入信します。
改名こそしませんでしたが、内面には大きな変化があったと思われます。
タイソンの刺青にアリが選ばれなかったのは謎です。
これはもう本人に訊くしかないのですが、わたしはタイソンの憧れはアリだったと思っています。
ともあれ、タイソンは三人のヒーローを身体に刻んでリングに戻ってきました。
ヒーローの共通点は、「人間の解放」ではないでしょうか。
意識が変わったタイソンと、ヒール(悪役)という役を配した興行界の間に生じた溝は、徐々にタイソンを苦しめます。
彼は器用に役を演ずるタイプではありません。
戻ってきた金づるに群がる取巻き達との葛藤にも疲れて、抗鬱剤を常用し始めます。
1996年に世界王座を取り戻しますが、同年にホリーフィールドに敗れて再び無冠となります。
翌年の再戦では、ホリーフィールドの耳をかみちぎって失格負け。
タイソンがキれてしまったのです。
両戦とも長身を屈めて頭を突きだすホリーフィールドの反則まがいの戦法に手を焼いたタイソンが、ヘディングで目の上を切られ逆上した結果です。
しかし、タイソンにとってヘディングで傷つけられたのは引き金にしか過ぎません。
彼の内部には爆薬が充満していたのです。
きっかけがあれば簡単に火がつく状態だったのです。
タイソンがデビューした1985年代から今日まで、時代には大義というものがありませんでした。
アリの「死をも恐れぬ何か」が見つけ難い時代です。
神経症的な自己との闘いがそれに変わり、正義も悪も、役割として物語の中に押し込められてしまいました。
「ならず者」としての役割をふられたタイソンに、それを楽しむだけの余裕もありませんでした。
パフォーマンスの中で自己を表現するタイプではなくて、タイソンは鳩との静かな会話を楽しむ男なのです。
ライセンスを剥奪されたタイソンは1999年に復活しますが、貼られたレッテルは前以上でした。
それでもタイソンの人気はヘービー級ではナンバーワンです。
彼には強者だけがもつオーラがあるからです。
盛りの過ぎたボクサーを相手に勝利を稼いで、冒頭のルイス戦が実現します。
敗れ去ったタイソンがリング上でインタビューを受け、チャンスを与えてくれたルイスに感謝の言葉を謙虚に述べます。
このタイソンの態度を意外と思った人が多かったようですが、わたしはこちらがタイソンの本質だと思っています。
役割から解放されたタイソンがそこにいました。
彼は、ボクシングが好きで、強い相手と力一杯闘いたかっただけなのです。
アリは大義の「結」を、フォアマンは大義の前で失った自己の「結」を、掴み取りました。
彼らはヒーローです。
タイソンの伝説は「転」のままです。
タイソンが再びリングで「結」を掴むか、それとも前者二人と違ってリング外で「結」を掴むか。
道は、険しいのですが。
タイソンの不幸が、全て時代の不幸の所為というつもりはありません。
それは、タイソン本人の繊細すぎる神経に由来するのかもしれません。
しかし、スポーツのヒーローが時代を写す鏡であることも事実です。
タイソンの不幸はアメリカの不幸と重なるのかもしれません。
戦後のアメリカ史を顧みえれば、今ほど不幸な時代はなかったと感じるのはわたしだけではないと思います。
「THE END」を何処に求めていいのか、ヒーローがさ迷っている時代なのですから。
<第五十回終わり>
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