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iの研究


第四十五回 <素粒子>の研究


素粒子とは、物質または場を構成する基本的な粒子のことです。
これを社会に当てはめてみると、素粒子は一人の人間、個人になります。
個人が集まって、社会という場を構成しています。

個人の自由、人間の尊厳、進歩といった概念は西欧近代が生み出したものです。
これはあくまでも概念であって、それが十全に実現したことは西欧でもありませんでした。
戦後の日本は、その概念をめぐる歴史(反対者も含めて)といっても過言ではありません。
近代そのものは明治以降の歴史ですが、一般の人々までにその概念が降りてきたのは戦後です。


さて今回の研究、冒頭からカタイすべり出しですね。
素粒子の研究、というタイトルからしてカタイ。
今回研究する素粒子とは、実は小説「素粒子」(ミシェル・ウエルベック/野崎歓訳/筑摩書房)の考察という意味です。
昨年翻訳が出たフランスの現代小説です。

本に付いていた帯には、「フランス文学界最大の衝撃作!」と大きく書かれていますが、もっと気が利いたコピーがなかったのでしょうか。
面白い小説でしたが、「衝撃作!」はあまりにも能がない気がします。
おまけに帯の背のところには、「新星ウエルベック 衝撃の話題作!」。
新星、衝撃、話題作、!。
定番のオンパレードですね。
その他にも、孤独の極北/絶望的な愛/圧倒的な感動、という文字が帯に書かれています。

これは端的に文学界の衰退をあらわしていますね。
活性化されていないというか、本を読む人が少なくなったから人材と予算が集まらないというか。
意味合いが同じでも、もっと捻ったコピーが欲しいですね。
些細なことですが、わたしは活字が好きですから気になりました。

「素粒子」を書いたウエルベルクは1958年生まれですから、現在(2002年)44才。
日本ですと、消費社会の真っ盛りに青春時代を送った世代です。
記号と差異に明け暮れた時代です。
この世代は、先行したカウンターカルチャー/ヒッピー世代に複雑な感情を抱いています。

その時代、形骸化したカウンターカルチャー/ヒッピーはニューエイジという胡散臭い存在に姿を変えていました。
当然これらは否定すべき存在であり、あらゆるジャンルでそれを乗り越える試みが行われました。
例えば、音楽ではニューウェイブです。
形骸化し商業主義で肥大化したロックへの彼らの解答です。

「ロックでなければ何でも良い」はパンクの名言ですが、パンクがやっていたのは紛れもないロック。
つまり、ルーツに対する強烈なシンパシーはあるものの現状のロックには我慢がならない、ということですね。
ニューウェーブはその流れの延長ですから、表面的にはアンチの立場をとりながらルーツの思想にはリスペクトを持っていました。

片足をカウンターカルチャーに置きながら、片足を消費社会に置いてバランスをとろうとした、あるいはとらざるをえなかったのがこの世代だと思います。
あらゆるものを商品に変えて、その消費を生活の中心とする消費社会はカウンターカルチャーをも取り込んで80年代に開花しました。
「素粒子」では、カウンターカルチャーの「性の解放」が商品化され、それに人々がいかに翻弄されているかが詳細に描写されています。

わたし自身は先行したカウンターカルチャー/ヒッピー世代ですから、この小説を読むと苦い思いが付きまといます。
かなり厳しい調子で批判されていますし、わたし達の不始末、いい加減さがその後に及ぼした影響を直視せざるを得ないからです。
小説では主人公二人(異父兄弟)の母親と、それを取り巻くコミューンという環境にシンボリックに現されています。

まずは、「素粒子」のあとがきを参照しながらストーリーを簡単に紹介してみます。

ブリュノとミシェルは異父兄弟です。
兄ブリュノは1956年生れ、弟ミシェルは1958年生れ。
作者とほぼ同年代です。

兄弟の母ジャニーヌは医学部卒の美貌に恵まれた才媛で、やり手の美容整形外科医と結婚しブリュノを生みます。
その後、美容整形外科医と離婚して、ドキュメンタリー映像作家との間にミシェルが生まれます。
映像作家との短い生活を送った後、離婚の慰謝料を糧にしてアメリカに渡り、カリフォルニアのコミューンで生活を送ります。

ブリュノの子育ては夫婦の個人的自由の理想と相容れないという理由で、ジャンニーヌの母に預けられます。
ミシェルの父は中国での撮影中に失踪し、彼も父方の祖母に育てられることになります。



異父兄弟の人生を双曲線のように向かい合わせて物語は進行します。
ブリュノは高校の文学教師で、子供の頃は寄宿舎で残酷きわまりないいじめを受け、長じては消費的な性にしか生き甲斐を見いだせないくたびれた中年男です。
ブリュノは自分自身に自信を持てず、娼婦を買ったり、性の解放を売り物にする「ニューエイジ風」サマーキャンプにに潜り込んで微かな期待に胸を躍らせます。

ミシェルは優しい面影を持つ天才科学者ですが、自分自身の世界に閉じこもり孤独な生活を送ります。
兄弟はリセに入学するまでは会うことがなく、その後は付かず離れずの関係を持ちます。
兄弟の生まれた50年代末から今日まで、40年間余りのフランスの現代史と彼らの人生を重ねながら物語は進行します。

作者は恐らく兄弟二人を合わせ持った人のようですが、生い立ち、嗜好は文系のブリュノに近いようです。
作者自身、件のサマーキャンプの上得意だったとインタビューで語っていますし、ブリュノの描写には妙なリアリティがあります。
(ついでですが、ウエルベックは音楽活動も行っており、バンドを従えてのライブ活動がファンサイトに載っています。)

兄弟は正反対ともいえる性格、生き方をしながらも共通項があります。
それは、初恋を成就できなかった苦い経験です。
この経験と中年になった二人に再び訪れる異性との邂逅が物語の主軸になっています。

ブリュノはサマーキャンプで知り合った同じような境遇の女性と心を通わせます。
彼が初めて心を開くことの出来た異性です。
ブリュノは結婚経験もあり子供もいるのですが、そこに心の交流といえるものはありませんでした。

ミシェルと美少女アナベルは幼なじみで、誰もが羨むようなお似合いのカップルでした。
しかし、ミシェルは肝心な時にアナベルの愛を受け入れることができず別の道を歩みます。
そのアナベルトと祖母の墓の移転で帰郷した時に再開し、二人はお互いの長い空白を埋めるようにして結ばれます。

ブリュノとミシェルの幸せは長くは続かず、お互いの伴侶の死によって再び孤独な生活に戻ることを余儀なくされます。
ブリュノは精神科クリニックに入院、ミシェルはパリを離れてアイルランドの研究所に旅立ちます。
物語はここで終わるかのように見えて、その後に「衝撃」の結末があります。
それについては後ほど触れたいと思います。

兄弟の物語とフランスの現代史が重なり合って小説が進行することは先ほど述べました。
50年代末からのフランス現代史は、フランス人にとっては西欧の価値観の崩壊とアメリカ的消費文化の横行を意味します。
この小説はそこを基点にして、西欧近代自体の死滅に焦点にあてています。
兄弟の物語の間には西欧近代に関する言説がふんだんに挿入されています。
あたかも小説と哲学、社会科学、自然科学の本を同時に読んでいるような面白さがあります。

「iの研究」は本を題材に考察することが多いのですが、わたし自身は読書家ではありません。
これは前も書いたと思いますが、本好きな割に量を読みません。
特に「iの研究」を始めてからは一冊の本を何度か読むこともあるので、余計に冊数が減っています。

しかも評論やノンフィクション系を好む傾向があるので、久し振りの小説でした。
それもフランスの現代小説。
記憶を遡れば、「浴室」、「カメラ」以来でしょうか。
なんか、凄い昔ですね。

フランス人が嫌いな割にフランス製品を愛好している矛盾をかかえたわたしは、西欧近代に憧れ続けて今そのしっぺ返しを受けているわたしでもあります。
まあ、辛い立場ですね。
辛いけど自業自得であり、細々と研究を続けるしか立場はありません。

そういう立場はさておき、本題に戻ります。


ブルノとミシェルは母ジャニーヌの個人的自由の理想の為に祖母に育てられることになります。
両親と生活を供にすることなく成長するわけです。
ジャニーヌはヒッピー世代よりも20才ぐらい年長ですが、離婚後カリフォルニアでコミューン生活を送ります。
その後、コミューン主宰者がフランスに拠点を移したのを機に戻ってきます。
彼女もコミューン主宰者もヒッピーの最悪の部分を代表する人物として描かれています。
とってつけたようなカウンターカルチャー思想をアリバイにして、性の解放を自らのハーレムに置き換えてしまった人物です。

ブルノとミシェルは、「愛すること」と「愛されること」が上手く表現出来ません。
それは、兄弟が祖母と暮らすという特殊な家庭に育ったことが原因なのでしょうか。
わたしはそうは思いません。
両親と離れて祖母と暮らすという特殊性は、物語を語るうえでの特殊性であって、その生活の意味するものはわたし達の普遍です。
逆にいえば、わたし達の家庭は既にかなり特殊になっていて、それに気がついていないだけなのです。

「愛すること」と「愛されること」。
近代が個人の自由を基盤にしているならば、「愛すること」と「愛されること」はその中心に存在します。
「愛すること」と「愛されること」で、個人は自由な結びつきを持ち、そこに最小限の共同体を作っていくからです。
理念としての近代社会は最小限の共同体=家庭/家族を基にして、そこでの生殖が社会の永続(再生産)を保証することになります。
平たくいえば、個人は恋愛をして家庭を持って子供を作る、子供も又自由な個人ですから恋愛をして家庭を持って、という繰り返しで近代社会は続くわけです。

しかしながら、個人は自由ですが誰でも恋愛できるわけではありません。
見合いで結婚するケースも当然あります。

わたしが子供の頃、両親は恋愛結婚だろうか、見合い結婚だろうかと考えたことがありました。
直接訊くのは何となくはばかれましたので、想像するにとどめました。
この時、想像の底に恋愛結婚であって欲しいという願望がありました。
それの方がカッコ良いし、近代的だと思ったからです。
同時に、自分が結婚する時は絶対恋愛結婚という望みも持っていました。
後年両親の結婚は願望とは違って、いたって平凡な見合い結婚と分かりました。
ま、考えてみれば当時としては普通のことであり、わたしも大人になっていましたからそれほどガッカリもしませんでしたが。

見合いのバックボーンには「家」があります。
「家」というシステムです。
「家」と個人のどっちを優先させるかといえば、そのシステムが健在の頃はもちろん「家」であり、そういう議論さえ成り立ちませんでした。

今見合いといえば、有料会員制のシステムが主流ですね。
その昔の結婚相談所といった暗さは微塵もなくて、ホテルのパーティーでさり気なく出会いを演出する趣向になっています。
恋愛に限りなく近づけるのが、今の見合いです。
個人の自由を尊重しながら、生活設計という合理も併せています。
(恋愛には出会いが不可欠ですが、その出会いがこういった会員制のパーティーであっても別に間違いではない、という理屈も成り立ちますしね。)

個人の自由は近代社会の基盤ですが、その理念とは別に個人の自由は際限なく拡大されてきました。
理念とは、こうあるべき、という理屈です。
個人の自由は責任と義務によって保証される、といった理屈です。
ところが、現実はそんな理念とは関係なく自由を拡大していきます。
あるいは、自由というものは元来そういうものかもしれません。
野に放てば、理念の枠をはるかに超えて遠くに行ってしまうものなのです。



「愛すること」と「愛されること」が社会の中心にあるとしたら、それに失敗すると「負け組」になります。
ブリュノとミシェルは「負け組」で、微かな希望を持っていても人生は辛いものでしかありません。
「勝ち組」と「負け組」。
残酷で嫌な言葉ですが、今の社会で現に流通している言葉です。

「愛すること」と「愛されること」が生来的に人間に備わっているかどうかは別にして、その方法論は学習よって獲得します。
スタンダードでは、家庭の両親が教材になります。
親を見て子は育つわけです。
別に両親に育てられなくても学習は可能ですし、両親がそろっていてもそれが上手く出来ない人もいます。
あくまでも標準的な環境という意味ですが、それを外れると学習が難しくなるのも事実です。
ブリュノとミシェルが祖母に育てられたというケースは、極端な環境にして分かり易くしたともいえます。

さて、標準的な環境が標準的な環境でありえたのは実に短い間でしかなかった、という問題があります。
肝心の環境がいつの間にか崩壊してしまったからです。
離婚の増加と家庭内部からの崩壊です。
フランスでは離婚の増加、日本では家庭内部からの崩壊が著しいようです。

どうしてそうなったかというと、個人の自由が原因ですから話がややこしくなります。
「愛すること」と「愛されること」は、他人を知る、理解するということを前提にしています。
家族も他人ですから、知り、理解しないと単なる同居人になってしまいます。
知り、理解することは、生活を共にし、情報を共有することです。

家の生業が商店や自営、農業で、住まいが二間かそこいらだったら、家庭の構成員の生活は筒抜けで共有も何もありません。
両親がどんな仕事をしていて、どんなことを考えているかが概ね分かってくるからです。
子供が何を考え、何をやっているかも大体見当がつきます。
知り、理解するということに、別に努力は必要になりません。

ところが、多くの家庭の生業が会社員(賃金労働者)という形になっていきますと、ここにコミュニケーションの断絶が生じます。
朝早く出て、夜遅く帰ってくるお父さんが、何を考え、何をやっているのか良く分からない。
お父さんも、会社の話を家庭でするのは面倒くさい。
同僚の方が説明抜きで愚痴や自慢が出来ますしね。

情報を共有し、知り、理解する機会が家庭内で減ってくると、相対的に食事のウェートが大きくなります。
一同が揃って会話をする、あるいは一同が揃う機会は食事の時だけですから。
この機会を逸すると、つまり個食がメインになると、知り、理解する機会はほとんどなくなります。

個食は、個人が好きなときに好きなものを食べることです。
これの方が楽だし、自由が損なわれません。
個食という市場ができると、あっという間にそういった商品で溢れ個食化を促進します。

いくぶん図式的な説明ですが、家庭の空洞化はそのような形で気がつかないうち進行します。
もう一つ、電話を例にとって説明してみます。

電話は、固定電話という形式で家庭に導入されました。
玄関を上がった先に台があって、その上に電話が鎮座していました。
電話は家の用件が専らで、所有者は家庭を代表するお父さんでした。
そのうち、子供が用件ではなくて日常会話の延長で長話をするようになります。

玄関先に縛りつけられて、それとなく話を聞かれるのは嫌だという子供の願いは子機の登場でいったん解消されます。
自分の個室でワイヤレスで長話が出来るのは良いのですが、話し中で外から繋がりにくいのと電話代の問題が生じてきます。
自分で管理させるという理由、条件で、もう一台子供専用の電話をひきます。
子供はこの過程で自由を拡大させていますね。
誰に気兼ねすることなく、自由に電話できるようになりました。

一方、家人は子供が誰と交友しているかは分からなくなります。
玄関先の電話ではそれとなく分かっていた交友関係が見えなくなるからです。
(どうでもいいような話を延々と聞かさせるのにもうんざりしていましたし。)

子供だけではなく、お母さんも、あるいはお父さんも電話で長話をするようになります。
電話は用件を伝える以上のコミュニケーションツールに変化してきました。

子供は自分の個室以外でも好きな相手と話ができる自由が欲しくなりました。
携帯電話がその自由を叶えてくれたわけですが、その自由とは個室の自由を外に持ち出したものです。
自分が好き勝手にできる個室の自由が、外では携帯電話で実現したのです。
だから、携帯電話のマナー云々は的外れかもしれません。
(その先駆けはウォークマンですね。)

この様に、理念とは関係なく自由は現実において拡大してきます。
そして、家庭での知る、理解する機会は反比例して減っていきます。



「素粒子」はフランスの事情にそって書かれていますから、個食のことも電話のこともさほど話題になっていません。
離婚が日常的になったフランスの事情を、60年代末以降の性の解放をバックグラウンドに据えています。
ま、わたしの興味にひきつけて日本の事情で家庭の崩壊を説明しましたが、性の解放とは表裏の関係で決して無関係ではありません。
日本にはテレクラ、伝言ダイヤル、及び恐ろしく細分化された風俗産業があり、それは個人の自由と密接に絡み合って家庭の問題と関わっているからです。

性の解放は、家族に縛られていた性を個人に解放することを目指しました。
近代が個人の自由を基盤にしている以上、家族から性を解き放つのは当然の成り行きともいえます。
性の解放は、近代を壊しながら更なる近代化を進めるというパラドックスを内側に持っていたことになります。

「家」の存続が家長の生殖による跡継ぎを前提としていたように、近代社会も家族の生殖という性を核にしています。
核ですから、それが個人の自由に置き換えられると、その家族は「素粒子」のようにバラバラに弾けてしまいます。
ブリュノとミシェルは弾けた「素粒子」そのものであり、それが再び結びつくこともなく物語は一応終わってしまいます。

性の解放の成果は、離婚家庭、「もてる男」と「もてない男」の格差、消費としての性、そして怪しげなカルトやニューエイジ。
無残ですが、現実です。
小説「素粒子」は、その間を漂う「素粒子」(異父兄弟)の物語です。
まさに西欧近代の終焉ですが、世界が終焉するわけではありません。
当たり前ですが、西欧近代だけが世界ではないのですから。

さてここで、一応の物語が終わった後に書かれている「衝撃」の結末に触れてみます。
ミシェルは先端の生物学者です。
彼はブリュノに比べると、温厚だが人間味の薄い淡泊な人物です。
ブリュノと正反対で、性にほとんど興味を示しません。
まるで人間が進化した(?)ようなキャラクターを与えられています。

ミシェルは遺伝子研究で飛躍的な成果を残してアイルランドの海に消えます。
アイルランドは西欧の果てに位置する島です。
その島の最西端にあるゴールウェイの海で失踪します。
暗示的ですね。

没後、彼の飛躍的な研究成果はあるイデオローグ/オーガナイザーによって実践に移されます。
時は未来に移っています。
「第三次的形而上学的変異」の到来を描いて、「素粒子」は終わります。

そこでは、ミシェルやブリュノが悩まされた「愛すること」と「愛されること」は、どうなったのでしょうか。
それは、「素粒子」を読む人の楽しみとしてここでは書かないことにします。
通常はネタバレを平気でする「iの研究」ですが、今回は止めときます。
さすがにこれを書いてしまうと、「素粒子」を読む面白さが半減しますから。

個人の自由は、理念とは関係ないところで拡張されたと度々書きました。
これには市場経済が大きく関わってきました。
ある時期から、個人の自由は市場経済に先取りされています。
もしくは、もともと個人の自由と市場経済はコインの裏表かもしれません。
つまり、近代社会において個人の自由とは商品のことかもしれません。
この疑義は、今後の課題です。

<第四十五回終わり>




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