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iの研究


第四十四回 <システム>の研究


上の画像は桃の花です。
白い桃の花、珍しいでしょ?
今年の桜はあっという間に咲いて、あっという間に散ってしまいました。
な〜んか、物足りないですね。

桃の花はまだ大丈夫です。
わたしの居住している山梨の峡東地方は、桃源郷ともよばれるほどの桃の産地です。
花見をするなら今がお薦めです。

桜の花も桃の花も美しいですね。
人というのは、美しいものが好きです。
わたしは美術の世界と関係を持っていますから、美には人並み以上に関心を持っています。
『「美」と「術」』展という展覧会を、年に1回企画したりもしています。

だから常々、美とはなんだろうか、と考えてはいるのですが結論は出ません。
当たり前かもしれません。
そんなに簡単に分かったら美術家は苦労しませんから。

ま、そうはいっても、大まかなイメージは頭の中にあります。
動的な調和。
すべてのものが動いているのに、そこには完ぺきな調和がある。
こんなイメージです。

無駄なものがなく、必要なものだけが存在していて、それらは止まることなく動いている。
そういう世界ではないかと思っています。
その世界は、システムという言葉に置き換えてもそれほど不自然ではないとも思っています。
一つのものの見方としてですね。

昨今の日本の政治情勢とかを見ていると、わたし達が拠り所にしているシステムは機能不全状態です。
どうにもならない気がします。
眼を世界に転じても同じようなことがいえます。
どうにもなりません。
かといって、以前のように共産主義や社会主義に希望を求めることもできません。

前回の研究でマレーシアのスマッ・ブリの生活、世界観をご紹介しました。
わたしは、スマッ・ブリのシステムは美しいと思いました。
人間の知恵と自然が生み出した美しさです。
近代も人間の知恵が生み出した美しさといえます。
戦後の日本はその美しさに憧れてここまで来たのですから。

でも、なんか違いました。
それは近代がもともと持っていた間違いかもしれません。
その完璧と思われたシステムに欠陥があったのかもしれません。

美術は嗅覚の秀でた世界で、その欠陥を直感的に提示したりします。
美術作品を観ていると時々そうおもいます。
理屈ではないんですよね。
直感でそれを作品化して見せてくれます。
その辺りが、わたしが美術には関わっていて感じる面白さです。

さて、今回はコンピュータのOS(オペレーティング・システム)を題材にシステムについて考察します。
以前パーソナルコンピューティングを研究しましたが、その時非常に印象に残った言葉があります。
Linuxの開発者リーナス・トーバスの言葉で、「UNIXは美しい」というものです。
UNIXは主にサーバーに用いられるOSですが、そのシステムが美しいということです。

そして、リーナスがLinuxのソースコードを公開したのも、それが美しかったからです。
美しいシステムだったからです。
だから、人に見てもらいたかったのです。
クローズドにするとお金は儲かりますが、他人(ひと)が見ることができないからです。

自分が創ったものが美しければ、他人に見てもらいたい。
これは美術家の根本と同じです。
美術家の作品も、いってみればある種のシステムを表現したものです。

OSのシステムを考察するのは、かなりのコンピュータ上級者でないとできません。
(リーナスの言葉は、彼が天才だからこそ発することができた言葉です。)
わたしは初級者。
最初からして腰が砕けるような断りですが、この研究は初級者の考察です。
(このフレーズは前も使いましたが、事実だからしょうがありません。)
もし、初級者だからこそ解明できることがあったとしたなら、それは幸運としか言い様がありません。
ま、その幸運にかけてですね、研究を開始したいと思います。
(理論ではなくて直感で勝負、ということです。)



事の始まりは、大学時代の恩師からPC/AT互換機を貸していただいたことです。
PC/AT互換機は、通常Windowsが0Sとして搭載されています。
先生のマシンもWindws98(SE)が載ってました。
わたしはMacしかしらない人です。

他人様(ひとさま)の家=Windwsがどうなっているのか、興味津々でした。
Mac Vs Windowsは一昔前のライバル関係で、今となっては話題にも上りません。
インターネット時代になって、プラットフォーム(OS)の違いがさほど重要ではなくなったからです。
Macはかつては高価なブランドでしたが、今は高価ではありません。

ブランドではありますが、ニッチ(隙間)ブランドですからステイタスにはなりません。
ライフスタイルにこだわる人が選ぶ、といえば聞こえが良いのですが、その実は変わり者が選ぶブランドです。
美術界はMacユーザーが多いのですが、世間から見れば変わり者の集団ですから不思議でも何でもありません。
一昔前Macがグラフィックに強かった名残もあります。
(話が逸れますが、当然Windowsユーザーにも変わり者はいます。何人も知っています。)

ニッチで生活していると、広い世間がどうなっているのかは気になります。
気にはなっていたのですが、その機会がなかなかありませんでした。
やっと他人様の家を覗くことができました。

Windows に触れてみると、意外にも簡単に操作できます。
戸惑うのは最初だけ。
予想外に(失礼)良くできたインターフェースです。
と、思ったのも最初だけ。

LANカードのドライバのインストールでつまずき、その後が大変でした。
このマシンは自作機ですからメーカーのサポートがありません。
頼みは先生のアドバイスと自力だけ。
デスクトップ上の基本操作、つまりアプリケーションを起動したり、簡単な設定の変更はできますが、システムに何かを足したり引いたりするのは大変でした。
勝手が違うのです。

Macの場合、ドライバのインストールはインストーラーのアイコンをダブルクリックするだけ。
後は勝手にやってくれます。
Windwsは違います。
ディレクトリ(階層)というものがキチンとあり、その秩序を基本に物事が進行します。
ユーザーもそれを分かっていないとひたすら面倒になります。

だけど、それさえキチンとやれば設定の自由度がMacとは比べ物にならないくらい高い。
Macから見れば驚くほど細い設定ができます。
電源を入れて最初に画面に現われるBIOSという設定にまず驚きます。
最初は何のことかサッパリでしたが、どうやらROMへのアクセスようです。
ROMというのはパチンコでもお馴染の書き込み不可のメモリで、マシンの基本情報があるところです。

もちろんMacでも最初はROMにアクセスして起動するのですが、Windows(というよりPC/AT互換機といった方が正確ですが)はその設定をある程度変えられるのが凄い。
Windowsは、システム関係の何かをしようとするとクドイくらいにいろいろ訊いてくるのですが、そのかわり選択肢が豊富。
カスタマイズの種類が違うのですね、MacとWindowsは。

もっとも、初心者の通常の操作ではそういうことは分からないと思います。
Macの作法もWindowsの作法もそれほど違わない。
わたしはカード関係のドライバ(周辺機器やアダプターとOSとを繋ぐソフト)で結構トラブりましたから、その辺りが何となく分かっただけです。

その違いは、WindowsにはMS-DOSというもう一つの0Sが載っている所為ではないかと気がつきました。
順序でいけば、まずMS-DOSがあってその上にWindowsが載っている図式になります。
MS-DOSはコマンドラインのOSです。
文字でコンピュータと対話して、命令したり処理したりするシステムです。
WindowsはGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)。
マウスでアイコンやファイルをクリックして命令や処理をするシステムです。

ややこしい話ですが、Windows(Windows Meまで)にはこの二つが混在しています。
WindowsのGUIに関してはMacのコピーです。
これを指してMacの優位を誇るのは今やナンセンスです。
それは、狭量というものです。

Windowsに二つのOSが載っているというのは混乱の因ですが、進化の過程で除け者にされたMS-DOSこそWindowsの神髄ではないかと思いました。
MS-DOSのコマンドはほとんど書けませんが、直感でそう思いました。
このOSの自由度は、MS-DOSが本来持っていたものに違いないと。



インストールしたWindows98は動きが緩慢です。
CPUが400Mhzですから、こんなものかと思いましたがちょっとイラつきます。
LANカードのドライバはレジストリ(これもMacでは馴染のない用語で、システム関係のファイルのデータベースです)のトラブルを抱えたまま。
起動に異常に時間がかかります。
初期化した方が良いかなと思って直ぐに試しました。

Windows98は、起動フロッピーディスクでブート(起動)してその後98のCDでインストールという手順です。
フロッピーで起動しなければならないのは、システムの下位にMS-DOSがある所為だと思います。
画面の手順に従って進みますが、途中でインストールが不可になってしまいました。
すでにハードディスクにシステムが入っているので初期化、フォーマットができないというメッセージが出てしまうのです。

仕方がないので先生にアドバイスをお願いすると、fdiskというコマンドを打て、というご返事がありました。
コマンドを打つと画面が前とは違うところにいって、そこから選択で進みますが、書かれている意味が良く分かりません。
論理領域がどうのこうのとか、基本領域、拡張領域とか分かったような分からないような・・・・。
こうなったら感で試すしかありません。

トライアンドエラーの連続の後、無事初期化がすみました。
新たにWindows98を入れてみると見違えるように軽快な動きです。
(相当量のデータが入っていたのも遅かった原因かもしれません。)
400Mhzでも十分実用になります。

気を良くしてWebのブラウザ(閲覧ソフト)を三つ入れました。
Webページの表示の違いを見るためです。
IEの最新版とネットスケープ6.2とOpera。
ネットスケープはプリビュー版の頃に比べるとすっかり進化して、IEと遜色ありません。
Operaはノルウェーのブランドで、軽量、最速を謳っています。

Webページの表示はブラウザで結構違います。
MacのIE、ネットスケープとも違います。
わたしのWebサイトiGalleryを例にとると、オリジナルと一番違うのはOpera。
コンテンツのページのデザインがガタガタです。

オリジナル、つまりわたしのデスクトップ上でPage Mill(作成ソフト)で作っているレイアウトはIEが基準になっています。
ですから、MacのIE5がオリジナルになります。
これ以外は多少なりとも表示が異なります。
その差を最小限にするのがプロのWebサイト制作者の仕事ですが、わたしは素人。
ま、仕方ないですね。

ブラウザを切り替えて遊んでいたある夜、フト考えが浮かびました。
Windowsを入れて二週間ぐらいたった夜です。
このマシンにLinuxを入れたらどうだろうか。
このアイデアは瞬く間にわたしの頭を占領し、その週の休日には有楽町のソフマップに足を向けていました。

ご存知の通りLinuxは無料で手に入るOSです。
が、わたしのような初級者は商用のLinuxを買った方が無難です。
サポートもつくし、あらかじめ必要なソフトがバンドル(同梱)されているからです。
何といっても、Linuxは敷居の高いOSですから。

ソフマップにはパッケージになったLinuxが数種類あるのですが、どれを買っていいのか分かりません。
さんざん迷って、結局入門書を先に買ってそれから購入することに決めました。
ブックコーナーで「Red Hat Linux7.2 入門キット」という本を買いました。
帯に「マウス一つでらくらく操作」と書いてあったのが決め手でした。

買ってからよく見ると、この本にはCD-ROMが二枚付属していて、そこにLinux本体も入っているではありませんか!
このLinuxが無料かどうかは微妙なところです。
書籍代に入っているかもしれないし、本当にオマケかもしれません。
ともあれ、サポートのつかないLinuxです。
買った以上、入れてみるしかないですね。

翌日、さっそくインストール。
しかしこれも最初でつまずきました。
CD-ROMドライブから起動しようとしても起動できません。
その場合はBIOSの設定を変えてCD-ROMドライブから起動できるようにして下さい、と本には書いてあります。

BIOS、名前を聞いたのもつい最近だし、いじったことなどありません。
なんかこれを下手にいじると取り返しがつかない気もします。
しかも画面は英語だけ。
思案のしどころです。

意を決してBIOSをあれこれやっているとBOOT DRIVEの選択画面にぶちあたり、CD-ROMドライブもブートできる設定に変更できました。
PC/AT互換機を扱っている人なら初歩の初歩ですが、わたしにとっては初体験。
多少緊張しました。

その後はウソみたいに順調にインストール作業が進み、再起動するとLinuxの世界が・・・・。
「マウス一つでらくらく操作」は、本当でした。
その過程でWindowsも残す、つまりパーテーションを切る(ハードディスクを分割する)選択肢もありましたが、上級者という注意書きがありましたので止めました。
後日改めてMS-DOSに挑戦したいと思います。
Windowsはたった二週間の命でしたが、楽しませていただきました。



なんだかコンピュータオタクの日誌のようになってきましたが、もうちょっと我慢して下さいね。
ちゃ〜んと、システムの話しはしますから。

さて、Linux。
わたしがインストールしたRed Hatヴァージョンには二つデスクトップ環境が用意されていました。
どちらもGUIで、切り替えもできます。
マウスで操作できます。

ファーストインプレッションは、MacOSX(テン)に良く似ているということです。
どちらもUNIX系、当然といえば当然です。
操作のナビゲーションはWindowsとそっくり。
ですから、MacOSXかWindowsに少しでも馴れた人は全然戸惑いません。

アプリケーションの処理も同じです。
アプリケーションといえば、最初から入っている種類の豊富さには驚きます。
Photoshopと同等の機能を持つといわれるGIMPを始め、ワープロ、表計算、エディタ、ブラウザやメールソフト、何でも入っています。
ゲームも十種類以上バンドルされています。

作りが若干素人ッぽいのもありますが、これらは全部フリーソフトです。
感動しました。
MacやWindowsにもフリーソフトは山ほどありますが、それらとは完成度が違うソフトが入っています。
マイクロソフトのオフィスと遜色ないアプリケーションが当然のように入っているのです。
Linuxコミュニティの一端を見た思いでした。

ただし、日本語環境は貧弱です。
インストールされている入力変換ソフト「かんな」は、使えないことはない、程度です。
ヘルプも日本語に対応していないものが多い。

もっと問題になるのは、デバイス(周辺機器)関係のドライバがないことです。
予めある程度のドライバはシステムに入っていますが、サポートしていない場合の方が多いでしょう。
具体的にいえば、わたしのマシンの場合、LANカード、サウンドカードのドライバは入っていませんでした。
ADSLが使えませんし、音も出ません。
多分プリンタもダメでしょう。
おまけにCD-ROMもマウント(認識)されません。

やっぱり敷居が高いOSです。
WindowsやMacがインストールされているメーカー製のパソコンだったら、こんなことはありません。
これらの不具合は自力で解決しなければなりません。
それに喜びを感じるようになると、その人はオタクです。
どうやら、わたしはオタク予備軍まではイッているようです。

わたしはこれで四つのOSを経験したことになります。
旧MacOS、MacOSX、Windows、Linux。
MacOSに「旧」がついたのは、OSXがデフォルト(標準)のOSになったからです。

これらのシステムでわたしが印象に残ったことを書いてみます。
WindowsはMS-DOSに尽きるような気がします。
このコマンドラインのOSはシンプルで奥が深い感じがします。
いずれPCにLinuxとWindowsを同居させる予定ですので、その時はお世話になろうと思っています。

WindowsのGUIはハッキリ言って二流です。
(超初心者には旧MacOSより優しいですが、直ぐに飽きます。)
それは、MacOSXのGUIが二流であるのと同じであり、LinuxのGUIが二流であるのとも同じ意味です。
旧MacOSのGUIは飛び抜けて優れています。
GUIの世界で完結して、それで一つの世界を作っているからです。

MacOSXは美人ですが、話をしていても面白くない美人なんですよね、残念ながら。
これだけの美貌を持っていながら、どこかピントがずれています。
(でも、美人に弱いわたしは律義にアップデートをしています。)

旧MacOSが優れている点を簡単に指摘します。
ディレクトリー(階層)を、すべてフォルダで説明しきっているシステムです。
Macユーザーはファイルの在り処をフォルダで把握します。
机の引き出しの何番目のどの辺に書類があるか、といったふうに。
その覚え方で全然問題がありません。

フォルダを何処に置くかはその人の自由。
最低限のルール(システムフォルダの置き場所等)を守れば、自由自在にできます。
設定が細くできない代償がこの自由であり、その自由を保証しているのがデスクトップを管理しているFinderというアプリケーションです。

旧MacOSは、Finderに尽きます。
ドラッグ&ドロップでウィンドウ間を行き来し、好き勝手にデスクトップを使えるFinderは黒子でありながら実は主役です。
これは、WindowsのMS-DOSと同じポジションではないでしょうか。
間違っていたらゴメンナサイですが、わたしはそう思うんですよね〜。

GUIはレスポンス(応答)の悪い、曖昧なところを持っているインターフェースですが、旧MacOSは最初からGUIに特化した、GUIで完結しているOSです。
GUIとしての思想を持ったOSです。
しかも偉大なのは、既にそれが最初に完成されていた点です。
今のOS9は肥大化したGUIであり、初期の頃の方がシステムとして美しかったと思います。

他人様の家を覗いて、我が家の利点と将来が分かったのは大きな収穫でした。
さて、トラブルを抱えたLinuxはどうでしょうか。
これは奥が深いです。
MS-DOSと旧MacOSが奥が深いように・・・・。



このOSは何か違います、今まで経験したOSとはどこか違うのです。
Linuxの元になったUNIXは古いOSです。
まだパーソナルコンピュータという概念が根付く前のシステムです。
だからマルチユーザーを前提にしています。

コンピュータ本体は一つで、端末(ディスプレイとキーボード)を使ってネットワークでアクセスして時代のシステムです。
だから、 root(管理権限者)という存在がいて、その人がシステムの全権を任されていた時代です。
UNIXがシステムの根幹にあるMacOSXにもrootは存在しますが、それは妥協の産物。
普通に使っている分にはほとんど関係ない存在です。

ところが、Linuxではこの方(かた)が厳として存在しています。
システム関係のファイルを変える場合は、rootでログイン(デスクトップに入って作業をすることです)しなければできません。
コンピュータの電源を落とすのもrootでないとできません。
驚いたことに、UNIXでは電源を落とすことはあり得ない前提になっています。
つまり,ネットワークで繋がった複数のユーザーがコンピュータを使うので、年がら年中電源はオンなのです。
落とせるのは管理権限者だけ。
その伝統をLinuxは引き継いでいるのです。

インストールの時にrootのパスワードとユーザーのID、パスワードを設定します。
わたしが使っているPCはわたし一人で使っていますから、一人二役を演ずるわけです。
「fukuda」でログインした場合、電源を落とすときにはrootでログインし直してシャットダウン(停止)をしなければなりません。
ややこしくて面倒です。

しかし、この儀式は重要な意味を持っているような気がします。
ネットワーク、つまり繋がることを前提にルールを設けているからです。
UNIXは基本的にネットワークを意識したOSです。
UNIXが主にサーバーとして利用されているのはその所為です。

このこととLinuxがネットワークを通じて進化、発展したのは無関係ではありません。
それは、いってみればUNIXの文化です。

堅苦しい感じがするLinuxですが、デスクトップにいけばそこは果てしない自由の世界。
自己責任で何をしても良い世界です。
しかも、アプリケーションやシステム関係にはいたるところにリンクが貼ってあって、そこから他の世界に繋がることも自由。
商業的世界であるMacやWindowsとは違う地平がそこにはあります。

インストールから一週間も経たない初級者の感覚ですから、アテにはなりません。
アテににはならないけど、わたしはそう感じました。

Linuxの世界に入るのにはスキルが必要です。
コマンドラインです。
Linuxはやはりコマンドラインの世界です。
これをマスターしないとどうにもなりません。
やはり、敷居の高いOSです。


長らくお待たせ致しました。
ここから、本題です。

システムは何をおいてもシンプルであること。
余計なものは邪魔である以上に始末が悪いものです。

システムはその世界観で統一されていること。
安易な妥協はいづれその世界観を駆逐することになります。

システムは開かれていること。
そのシステムが柔軟で包容力をもっていないと、開かれません。

システムは冷淡であること。
スキル(技術)を持たない者には冷淡で、しかしながらスキル習得の道をシステム自身が内包していること、が必要です。

以上で終わりです。
我ながら抽象的で分けの分からない結論だと思います。
ま、これはですね、「美」とは何かという永遠の疑問に対する現時点での考察とお考え下さい。
「美」は、あるときはシステムという形をとり、その要件をとりあえず挙げたと、そうお思い下さい。

世の中広しと言えども、初級者の分際でOSを四種類も経験した人は少ないと思います。
その人の妄想を最後まで読まされた貴方は不運でした。
そう思ってね、諦めて下さい。
(どうしても、冷淡のポーズをとることができないわたしでした。)

<第四十四回終わり>




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