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iの研究


第三十六回 <マクドナルド>の研究(1)


「マクドナルドのハンバーガーとポテトを1000年間食べつづければ、日本人も背が伸び、色が白くなって、髪もブロンドになるだろう」。
この言葉、誰が言ったと思います。
日本マクドナルドの社長である藤田田(でん)氏が創業当時語った言葉だそうです。
驚きました。
頭がマトモだと思えません。

マクドナルドを研究しようと思って購入した、「ファーストフードが世界を食いつくす」(エリック・シュローサー著)にこれが書かれていました。
最初は眉唾だと思いました。
外人特有の勝手な思い込みだと思ったんです。
まさかねぇ、こんな言葉を正気で吐く日本人などいないと思いまして。

ところが、日本マクドナルドのHPのマクドナルド・メッセを見てみると、これが真実だったんですよ。
コンテンツの中の藤田田語録をご覧いただくと分かります。

新しい食文化のイノベーターとして、ハンバーガーは、日本人の食生活に完全に定着した。「日本の若者を金髪にしよう。食を通じ世界に伍していける真の国際人を育成できれば」の願いは、昨今の若者の著しい体位の向上を見れば、その仮説の正しさが実証されつつあると確信します。 (1991年1月)

こう書いてあります。
日本マクドナルドは創業が1971年です。
この当時の発言にしても時代錯誤も甚だしい。
まして、上の語録は1991年です。
発言の真意が日本人の国際化にあったとしても、日本人の白人化をここまであからさまに推進しようというのは、やっぱり頭がマトモではないと思います。

最近、確かに金髪化は達成されましたが、ハンバーガーを食べたせいではないですよね。
アメリカ人になりたい、というのともちょっと違うと思います。
結構、若者の間ではアメリカ、及びアメリカ人は嫌われていますから。

藤田田氏は日本の実業家の中でもトップクラスの人です。

1971年7月20日、銀座の三越に、日本マクドナルドの第1号店がオープンしました。当初、米国サイドからは「アメリカで成功したように、日本でも自動車で乗りつけられる郊外に店舗を」というアドバイスがありました。しかし田はこれをはねつけ、「1号店は日本の中心・東京の、しかも銀座でなければならい!」との主張を通しました。当時の銀座こそ、最新の輸入品が並び、世界の観光客が集まる国際エリアであり、ジーパン、長髪といった若者文化の発信源だったのです。田は、日本ではまだ知られていないハンバーガーをこの街で売ることが、マクドナルドを日本中に知らしめる最良の手段と考えたのです。

さすがです、藤田社長。
「ファッション」という視点からマクドナルドを売ろうとしたんですね。
この手法は、今も生きています。
「スターバックス」です。

このコーヒーチェーンはシアトル発の「ドトール」です。
アメリカではありふれたコーヒーショップです。
アメリカ人は誰もオシャレだとは思いません。
今、日本人が「ドトール」をオシャレと思わないのと一緒です。
(実は「ドトール」も一号店は原宿で、その当時はオシャレでしたが。)

「スターバックス」の日本一号店は銀座松屋裏です。
銀座地区のデパートでは、松屋はオシャレなデパートです。
ただし、「スターバックス」の視点は「ファッション」ではなくて、「ライフスタイル」。
そこが、70年代と今の違いです。
(わたしがどうしてそんなことに詳しいかというと、かつて喫茶店を営んだことがあり、現在も飲食業界に身を置いているからです。)



日本が文化の後進国であり、植民地であるのは否定しようのない事実です。
(欧米文化を先進とする現実から観ての話ですが。)
しかし、マクドナルドに関するかぎりアメリカ以外はみんなそうです。

1992年に北京にマクドナルド第一号店がオープンした時、数千人が何時間も辛抱強く待ったそうです。
その二年後、クェートに開店した時は、ドライブスルーの窓口に並んだ車の列が10キロ。
ロシアに開店した時の騒ぎは、わたしもテレビで見ました。

ヨーロッパでもマクドナルドの食文化は物議を醸し出しました。
文化の本流を自負するヨーロッパにとってアメリカは新参の田舎者です。
年長者にはかなり抵抗があったと想像できます。
(ユーロ・ディズニーのオープン時と同じような賛否両論があったと思います。)
しかし、若者はそれを<イカした、新しいカルチャー>と捉えました。

ここで簡単にマクドナルドの歴史を書いてみます。
リチャード&モーリスのマクドナルド兄弟が、カルフォルニア州に開いたドライブインが出発点になります。
(マクドナルドのHPでは、何故かマック&ディックのマクドナルド兄弟になっています。どちらが正しいのでしょうか?)
そのドライブインを、1950年にクィックサービスレストランに改装したのがマクドナルドの始まりです。
サービスのシステム化を考えついたわけですね。

その成功によりフランチャイズ化を計るのですが、今日のワールドワイドな展開を切り開いたのはレイ・クロックという人物です。
彼は一介の(ミキサーの)セールスマンだったのですが、マクドナルドの将来性に着目して兄弟から商標権を買い取ります。
その後入社したフレッド・ターナーを右腕として拡大路線を突き進み、今日の帝国を築きました。

アメリカ国内でのマクドナルドの伸展をひとまずおいて、まず世界にとってのマクドナルドの意味を考えてみます。
1950年はフィフティーズの始まりですね。
フィフティーズはクルマを中心とする若者文化を生みました。
ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」の舞台設定はベトナム戦争前夜の1962年ですが、その内包している文化はフィフティーズです。

1945年に第二次世界大戦が終り、直接戦火を浴びなかった戦勝国アメリカは空前の大衆文化を生み出します。
それが、フィフティーズです。
わたし自身は、いわゆるフィフティーズには何の思い入れもありません。
リーゼントにもジェームス・ディーンにも関心がありませんでした。
わたしは、その後のヒッピー世代ですから。
(ヒッピー世代とは、大学進学が当たり前になった時代の若者文化です。つまり、インテリが、少なからずそこには入っています。)

しかし、アメリカの大衆文化の、自由さ、カジュアルさには多大な影響を受けていると思います。
<イカした、新しいカルチャー>は戦中、戦後生まれの日本人のトラウマみたいなものです。
このカルチャーのキーワードは<クルマ>と<郊外>だと思います。
言葉を変えれば、移動の自由と均質化です。

その昔、3Sという言葉が流行りました。
今はもう完全に死語ですね。
スピード、スリル、セックス。
それで、3S。
(実際は、スリルはThrillでSではないのですが。ま、ご愛嬌です。)
これは、意訳すればクルマのことです。
若者が自分専用のクルマを手に入れて移動の自由を手に入れた時、その3Sを追い求めるのです。

サバービアン(郊外族)は均質な街に住む住民のことです。
都市のスプロール現象がおきて、中流階級が郊外に住居を移します。
そこは、不動産業者が開発した人工の都市です。
ここには地縁、血縁がありません。

街は、通常雑多な階級で構成されています。
アッパーのエリアもあれば、ロウアーなエリアもあります。
その混在ぶりが街の魅力です。
ニューヨークが魅力的な街なのは、その雑多がブロックごとにあるからです。

一方、郊外は均質化された街です。
階層も、家並みも均質化されています。
そこは、疑似的な平等が実現された世界です。
アメリカの民主主義が疑似であるとするなら、サバービアンは疑似の平等を体現する人々です。



サバービアンの平等が疑似であるのは、映画「シザーハンズ」を観れば良く解ります。
映画の冒頭に空から映し出される家々は、パステルカラーで彩られた砂糖菓子のようです。
しかし、その夢のような景観を持つ街が、結局は奇形のハサミ男(シザーハンズ)を抹殺するのでした。
均質な社会は異端をひどく忌み嫌います。
その均質の足下が突き崩されるのを嫌うからです。
神戸で中学生の猟奇殺人事件がおきた時、そこがサバービアンの住む街だったのは象徴的でした。

<クルマ>と<郊外>。
戦後アメリカの大衆文化のキーワードです。
わたしの世代でそれを代表するのはビーチボーイズ(The Beachboys)です。
ウェストコースト(西部)の文化です。

端的に言ってしまえば、マクドナルドとはウェストコーストの文化です。
自由でカジュアルな文化です。
それを音楽で代表したビーチボーイズは、スターダムを駆け上がった後どうなったのでしょうか。
彼らは、カルフォルニアの陽光とは正反対の悲惨な経過をたどりました。

話がマクドナルドからズレているとお思いでしょうが、実は全然ズレていないのです。
マクドナルドとはそのくらい深い意味を持った存在なのです。
ですから、我慢してわたしの話を聞いて下さいね。

ビーチボーイズは兄弟三人と従兄弟と友人で構成されたバンドです。
サバービアンのグループです。
サーフィンとホットロッド(クルマのレースです)のミュージックを得意とするバンドです。

運の悪いことに、全盛期にビートルズとぶつかってしまいます。
リバプールの若者の方がウェストコーストの若者よりイケてるのが、全世界的に明らかになってしまったのです。
ウェストコーストの若者の反抗よりリバプールの若者の反抗の方がリアルだったんですね、その当時の世界の若者にとっては。
その後に来たヒッピー文化でビーチボーイズは病(やまい)にハマリます。
自分たちの反抗は一歩遅れていたと気が付いたからです。

長兄でバンドのイニシアティブをとっていたブライアンは、ドラッグ渦でその後二十年以上廃人同様の生活を送ります。
次男のデニスも結局はドラッグがもとで命を落とします。
彼はマンソンファミリーとも接点がありました。
三男のカールも既に故人です。
サバービアンの悲劇です。

ブライアンが幾多の困難を乗り越えてカムバックした時、それは偶然ではありましたが、アメリカも再生しました。
IT革命です。
ウェストコーストから発生した産業革命です。
バブリーな雰囲気をまといながらもウェストコーストは復活したのです。
ドラッグで身体を蝕まれ、往時とはすっかり変わった痛々しいブライアンが復活したのと同時期に。

わたしは、ビーチボーイズの悲劇は均質化された社会が生んだ悲劇のような気がします。
競争社会の中での均質化は、一時的な均質です。
中流は、上流へのステップでもありうると同時に下層への陥落もありうる不安定なクラスです。
しかも、縦(血縁)も横(地縁)も欠落した拠り所のないエリアを根拠にしています。

表層の明るさと裏腹に、不安が内側に堆積しやすい社会といえます。
それは家庭内の暴力として発露したり、積もり積もったものが異様な形で爆発することがあります。
ブライアンのあまりにもイノセント(無邪気)な歌声の裏側には、そういった現実がありました。
彼は少年時代に父(バンドのマネージャーでもあった)から虐待され、それが心の傷になっていました。
あるいは、映画「ブルー・ベルベット」のオープニングに流れるボビー・ヴィントンの、ブルーではあるが屈託のない歌声の裏側にも、それが見え隠れします。
「ブルー・ベルベット」は、郊外の明るさの裏側の暗黒をテーマとした映画でした。

フィフティーズは、大戦後に輝いたアメリカの大衆文化です。
全世界的に影響力をもち、今も持ち続けている文化です。
その中心は郊外です。
自由とカジュアルさは郊外で育まれ、マクドナルドも又その中で生まれました。
それが内に抱えこんだ暗闇とは、店頭からは想像もできない荒涼を多大な分野に生み出すシステムです。
(次回にマクドナルドの暗闇-システム-を考察したいと思っています。)




マクドナルドは、日本では「ファッション」として登場しました。
銀座のど真ん中で、当時の「ファッション」であった歩行者天国と共に。
非日常的な自由さ、カジュアルさはしだいに日常に溶け込み、何の違和感も感じさせません。
それだけ、アメリカナイズされたということなんでしょうね。
藤田社長の目論見は見事に成就しました。
マクドナルドが、日本の郊外のショッピングセンターに必ずといっていいほど存在するのは、その証です。

文化というものは、差異があればそこに高低差を生みます。
あるのは差異だけなのですが、何故か優劣を生んでしまいます。
日本の戦後史は、アメリカという優位文化の下にあり、今もありつづけています。
その呪縛から解き放たれるのが何時なのか分かりません。

ここで個人的な、アメリカとの距離を実感した話を書いてみたいと思います。
憧れのアメリカがいかに遠い存在だったか、という話です。
多分、これは形を変えれば日本人の誰にもあった話ではないかと思います。

それは、わたしが中学生の時でした。
1964年の東京オリンピックの前だったと思います。
イナカの地方都市の中学生だった時の話です。

わたしには、歳がそれほど離れていない叔父さんがいます。
その叔父さんが地方都市のVANのショップに勤めていた時期がありました。
別にこの叔父さんが特別オシャレだったというわけではありません。
たまたまだったと思います。
VANはアイビーです。
VANは、日本に始めてカジュアルファッションを広めたブランドです。

叔父さんは、わたしに幾つかのVANのアイテムを譲ってくれました。
ダッフルコートと、ベーシックな上下(シャツにパンツにローファー)です。
着こなしの指導つきです。
オシャレなど全く知らない当時の普通の中学生だったわたしには、幾分ゆったりとした着心地はシックリこないものでした。
自己流に着ていると、叔父さんに叱られました。

叔父さんは実家に住んでいました。
その実家は地方都市の外れに存在していた農村でした。
わたしの母の実家でもあったので、わたしは子供の頃からよく遊びに行きました。

叔父さんの部屋は家の隅の方にあった三畳間でした。
わたしはそこで、叔父さんが購読していた「MENS CLUB」をいつも寝ころんで読んでいました。
通称「メンクラ」といわれたアイビーの教科書みたいな雑誌です。
別にわたしはファッションの勉強をしたかったわけではなくて、他に読む雑誌がなかっただけなのです。

実家は農家の作りの平屋で、叔父さんの部屋からは田圃が見渡せました。
昼時は村の火の見櫓の拡声器からのどかな歌謡曲が流れていました。
いつも堆肥の臭いがしていた気がします。
その頃の典型的農村風景でしょうね。

そんな環境で、いつものように寝ころんでグラビアを見ていました。
今月号は、アメリカンフットボール観戦のファッション特集です。
アイビーはアメリカの東部の大学(アイビーリーグ)のファッションです。
エリートの大学のファッションですから、カジュアルといっても「着崩す」ところまではいきません。
あくまでも、オーソドックスでスクエアです。
(当時そんなことは全く知りませんでしたが。)

グラビアのシチュエーションは、学生が母校を応援に行くときのファッション、といったところでした。
母校というのは当然東部の大学ですが、日本にはアイビーリーグはないので、それらしき雰囲気の場所が背景になっています。
モデルもハーフか外人風の日本人。

アメリカンフットボールも今では馴染みのあるスポーツですが、その頃は全然一般的ではありませんでした。
イナカで生の試合を見る機会などまずあり得ませんでした。
東京でも米軍基地以外皆無に近かったと思います。
でも何となく知っていたのは、当時映画を観に行くと映画と映画の間に、何故かアメリカンフットボールの試合のニュース映画を上映していたからです。
これは今もって謎です。
洗脳的意味合いでもあったのでしょうか。

日本から地理的にも、意識的にも遠く離れた東部の大学とアメリカンフットボールが結びついたグラビアは、強烈な違和感をわたしに与えました。
世界が全然違う、この違和感は強烈でした。
優位と劣位の距離の絶望的遠さがもたらした違和感です。

それが載っていた「MENS CLUB」の基盤の無さにもショックを受けました。
この撮影風景の実体の無さにショックを受けました。
アメリカの東部の大学であればそれは日常であっても、撮影地の東京ですら日常のカケラもない絵空事として、それは存在していました。
まして、わたしが雑誌から目をあげれば、そこはまだ前近代的でクライといわれた農村です。
目の前に拡がる田圃と、どこかで鳴いている牛の声が、「MENS CLUB」を読んでいたわたしの環境だったのです。


後進国、発展途上国といわれる国でのマクドナルドの出店騒ぎを耳にするとき、思い出すのはこの時のショックです。
あの騒ぎを笑えるとしたら、貴方は幸せです。


<第三十六回終わり>
<第三十七回に続く>




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