ここのところバタバタしていたので、なかなか映画を観れませんでした。
(仕事の外、パーソナル コンピューティングの研究をしてましたから。)
先日やっとヒマができたのでレンタルビデオショップに行ってきました。
まずは新作コーナーです。
「薄雪大夫より 怪談千鳥ケ淵」。
聞いたことのない映画ですね。
あの、皇居にある桜の名所千鳥ケ淵に恐ろしい話があったのでしょうか。
1956年東映製作、監督小石栄一、主演中村錦之助、千原しのぶ。
何でこんな古い映画が新作ビデオでリリースされたのか、謎です。
監督の小石栄一、全然知らない人です。
この人の再評価でも起こっているのでしょうか。
パッケージを見ると、「女の執念、恋慕、嫉妬、そして親子の愛。元禄時代の艶麗な風俗を背景に、凄まじい恐怖と、美しい幻想の世界で描かれた怪談映画」。
これですね、今夜はこれに決めました。
決め手は、「美しい幻想の世界」。
観た後に、インターネットでこの映画について調べてみました。
時間的順序が逆になりますが、まずは映画の背景から先に書いてみたいと思います。
それから映画の内容に入ってみます。
ネット上では小石監督の再評価は特にありませんでした。
東映ビデオにアクセスしてみると、同時期に「怪談 お岩の亡霊」がリリースされています。
そうか!、納涼か!、夏に怪談、実に当たり前のことでした。
別に深い意味はなかったのですね。
頭が悪いくせに物事をつい複雑に観る性癖が出てしまったようです。
反省。
この映画の封切りも1956年の7月5日です。
やっぱり夏に合わせていますね。
ところで、この1956年に日本映画は何本製作されたと思います?
何と、552本です!
単純に12ヶ月で割ると、1ヶ月に46本の映画が日本で作られていた計算になります。
日本映画の黄金時代です。
小石監督は1926年から映画監督をしています。
「薄雪大夫より 怪談千鳥ケ淵」は監督生活30年目にあたります。
ベテランですね。
ちなみに1956年に小石監督が映画を何本監督したかというと、7本しています。
2ヶ月に1本以上のペースです。
これも凄い!
それでいて、「薄雪大夫より 怪談千鳥ケ淵」の質はかなり高い。
この人は職人ですね。
当時の日本映画界には確実で達者なスタッフが大勢いたんでしょうね。
黄金時代を言い換えれば、そういう環境がごく当然のごとくあった時代ということです。
この映画、68分です。
短いですねぇ。
テレビの一時間半ドラマと同じくらいです。
(CMを除くと丁度そのくらいになると思います。)
でも、全然中身が濃い。
脚本に無駄がなく、カットにも無駄が全くありません。
必要な台詞と必要な描写で物語を語りきっています。
恐れ入りました。
主演の中村錦之助、後(のち)の萬屋錦之助は東映時代劇全盛期の大スターです。
映画といえば東映、東映といえば時代劇、時代劇といえば中村錦之助、そういう時代がありました。
昭和の30年代から40年代にかけてです。
なにしろ東映のシェアが50パーセントもあった時代の東映のトップスターです。
しかも、人々の娯楽が映画ぐらいしかなかった時代です。
その存在の大きさは御想像がつきますよね。
この人は殿様をやらせても、一心太助のような庶民をやらせても巧い人でした。
伝統的な様式を必要とする気品と、いなせで威勢のいいスピード感を使い分けられる役者です。
「薄雪大夫より 怪談千鳥ケ淵」では白塗りの二枚目美乃介(みのすけ)を可憐に演じています。
方や、千原しのぶは助演の多かった女優です。
わたしがリアルタイムで東映映画を観た時代(この映画より5、6年後からですが)の千原しのぶは、女スリとか女中頭のような役でした。
どこか既にオバサンが入っていた記憶があります。
千原しのぶの主役を観たのは今回が初めてです。
千原しのぶは細面の日本的美人です。
が、この人にはイマイチ華がない。
それでスターにはなりそこねた人ですが、この映画で演じた薄雪(うすゆき)は適役です。
薄幸な美しさがあります。
儚げな美しさに圧倒されます。
さて、物語に入ります。
京都の郊外、伏見の古沼、千鳥ケ淵で心中が発見されます。
二人は、呉服屋の手代美乃介と伏見の遊女薄雪。
美乃介は一命をとりとめますが、薄雪は帰らぬ人となります。
美乃介は母(浪花千栄子)と二人暮らし。
真面目な奉公人でしたが、恋仲となった薄雪に店の金を使い込むほど入れ揚げてしまいます。
薄雪には身請けの話が持ち上がり、金のない美乃介は廓から邪険な扱いを受けます。
進退窮まった二人は来世の幸せを信じて心中を決意します。
真面目な奉公人が美貌の遊女と相思相愛になり、身請けの話が持ち上がる。
心中物にはよくある話です。
(千鳥ケ淵は皇居ではなくて、京都の伏見でした。)
生き残った美乃介は生きる屍状態。
心は死んだ薄雪に飛び、ただボンヤリと生きているだけ。
今日も薄雪の形見の懐鏡を眺めているうち、ふらふらと箪笥の中の小刀で自害を計ろうとします。
折よく帰ってきた母は必死にそれを止め、年寄り一人をおいて行く不孝と、人の生きて働かねばならない道理を懇々と諭します。
それから三年後、母の尽力で再び呉服屋に奉公した美乃介は仕事の帰り花見の床几で一休みします。
花見で賑わう境内では、室町の大店丹後屋の一人娘お花が華麗な舞いを演じています。
お花の踊る姿が薄雪と重なりハッとする美乃介。
そこに泥酔して刀を振り回す旗本が乱入。
侍がお花の手を掴み、連れ去ろうとするのを必死で美乃介が止めます。
事無きを得た礼を言い、名を訊ねるお花に美乃介は無言で立ち去ります。
お花の心は、この時から美乃介一人に占められます。
美乃介は、モテる男です。
白塗りの二枚目とは、そういう存在なのですね。
金も力もないのに何故か女の心を騒めかせます。
長谷川一夫という映画俳優を御存じかと思いますが、白塗りの二枚目を得意としていました。
顔を白く縫って、髪が少し乱れ、流し目を使う。
長谷川一夫の得意とした役です。
最近の歌舞伎だと十五世片岡仁左衛門(片岡孝夫)です。
意外なことかもしれませんが、勝新太郎もデビュー当時は白塗りの二枚目でした。
白塗りの二枚目は、歌舞伎から映画に受け継がれた役どころです。
取り柄は女にモテること、それ以外には何もない男のことですが、舞台や映画で観ていると良いんですよねぇ〜。
実にシットリとしていて。
この伝統は、映画では途切れたと思います。
二枚目(ハンサム)の基準が完全に変わりましたから。
そうですねぇ、石原裕次郎の出現以来でしょうか。
美乃介は、丹後屋を大切な取引先にする島屋の奉公人です。
そのルートで、美乃介に丹後屋への婿入り話が来ますが、薄雪が忘れられない美乃介は断ります。
「恩を徒で返すのか!」と怒る島屋に、母は「良く言って聞かせますから」と頭を下げる。
その母も持病で倒れ、寝たきりになってしまいます。
病床の母に懇願されて、ついに美乃介は婿入りを承知します。
婚礼の晩、つまり初夜です。
先に床に入ったお花に続こうとした美乃介の眼前に、薄雪の亡霊が・・・・。
怪談ですから幽霊が登場して当たり前ですが、これが美しい!!
(こういう幽霊だったら毎晩現われて欲しいと思う不心得者がいても致し方がないな、とわたしは思いました。)
初夜の床に張られた白い蚊帳に映る薄雪の亡霊。
白い蚊帳に白い衣装の薄雪。
薄雪ですから、白。
この映画で一番美しいシーンです。
画面の左右は部屋の襖で暗くなっています。
部屋の行灯が白い蚊帳を透すと、ソフトフォーカスがかかったような雰囲気になります。
その白い蚊帳に揺れるように映る薄雪の亡霊。
契ることなく初夜を終えた二人は、その後も形だけの夫婦。
心配したお花の父は美乃介の母に相談を持ちかけます。
勘の良い母は、「もしや、薄雪さんの・・・・」と美乃介に問います。
美乃介は、口を閉ざしていた心の重荷を打ち明けます。
死ぬ間際恐怖に襲われた、と打ち明けると、母は「でも、お前も死ぬ気だったんだろう。もしかして、このわたしの事が心配で・・・・」。
母はやつれた美乃介に気晴らしに外に遊びに行くように勧めます。
お花が花見の一件以来美乃介に夢中になって婿に迎えたために、その座に座りそこなった若旦那二人が、美乃介を祇園に連れ出します。
あわよくば美乃介と遊女を結ばせて離縁に持っていこうという魂胆です。
泥酔しながらも遊女に全く興味を示さない美乃介。
この田舎者には祇園の水が合わない、と判断した二人は座敷を郊外の伏見に移します。
移した座敷は、偶然にも薄雪が太夫として勤めていた廓。
その廓のすぐ傍にはあの古沼、千鳥ケ淵が。
ここから映画は、徐々にクライマックスに入っていきます。
一向にノッてこない美乃介を、太夫が半ば強引に自分の部屋に連れ込みます。
やれやれ、と安心する一同の部屋の外には雪が舞い始めています。
ここ千鳥ケ淵に雪が降ると、薄雪が「黒髪」を舞うという噂が・・・・。
恐怖に凍りつく一同。
その時太夫が、美乃介は妻を心配して帰ったと戻ってきます。
ここで帰しては計画が頓挫、と慌てて玄関に駆けつける一同。
しかし、下足番は誰も帰っていないと言い張ります。
確かに表は雪が積もり、足跡の影形もありません。
一方、美乃介はふらふらと廊下を渡り、開かずの間(嘗ての薄雪の部屋)に腰を下ろします。
灯のない部屋がほんのりと明るくなり、どこからか音曲も聞えてきます。
気がつけば、薄雪が美乃介の眼前で「黒髪」を。
ファーストシーンの千鳥ケ淵は灯籠流しの場面です。
そこから花見にいって、婚礼は秋、そして雪のシーン。
四季を上手く取り入れて、場所は最初に戻っています。
これも歌舞伎の伝統ではないかと思います。
この映画は歌舞伎の実写版といった趣があります。
もともと日本映画は歌舞伎のシュミレーションとして出発しています。
カラーになってからの東映時代劇は歌舞伎の華やかさが上手く出ていると思います。
フラットな照明に浮き出る、色とりどりの衣装と舞台。
セットが基本でほとんどロケがありません。
「旗本退屈男」なんかも、歌舞伎ですねぇ。
これと対極にあるのが、黒澤明のリアリズム時代劇。
薄汚れた男達の活劇です。
わたしは両方好きですが。
美之介の前に現われた薄雪太夫は今度こそ永遠に一緒にいたいと懇願します。
自分の事を心底思ってくれているお花や母への遠慮から一旦は躊躇した美之介ですが、薄雪への思いは断ち難く、二人はついに千鳥ヶ淵に沈んでいきます。
ここで、美乃介が死への旅路に踏み切るきっかけのシーンがあります。
母への遠慮で躊躇する美乃介にどこからともなく母の声が。
美乃介、お前の耐えた辛さが分かりました。
おっかさんはもういい、
女の哀しみを考えておあげ・・・・
わたしは、ここでグッときました。
この母の声は幻聴といえば幻聴なんですが、そもそもが幽霊が現前にいるシーンですから、やっぱり真の母の声です。
そう考えるのが自然です。
この直前に、薄雪が美乃介を疑う表情を見せる場面があります。
ここは結構怖いです。
(薄雪の眉がほんの少しつり上がる。)
心を置き去りにされた者の恨みです。
心中の一瞬に湧いた疑いです。
この人はわたし以外の人のことを考えている。
そういう疑いです。
この勘は強いですね。
確かに美乃介は母のことを考えていた。
一瞬の心の迷いです。
それが分かってしまう。
美乃介と母の関係は、この時代にあっては特殊なものではありません。
美乃介が特にマザコンというわけではありません。
この時代の母子家庭では普通の感情です。
親に孝行は倫理の基準でしたから、美乃介の思いは許容範囲です。
母の美乃介に対する思いも同じです。
だから、薄雪もそのこと自体を恨んでいるわけではありません。
仕方がないけど、一人死んでしまった自分が哀れだったんですね。
その哀しみを、母は理解したのです。
この心の有り様は美しいですねぇ。
ホントに美しいと思いました。
母を演じたのは浪花千栄子。
この人は巧いです。
わたしぐらいの年の人は誰でも知ってる女優さんです。
名前のとおり関西の人ですが、その関西訛りが又良いのです。
何よりも、暑苦しくない母を巧く演じきっています。
中村錦之助、千原しのぶ、浪花千栄子、この三者の芝居が映画の軸です。
ところで、お花は。
お花は、いってみればわがまま娘です。
命を張って助けてくれた美乃介に一目惚れするのは分かります。
自分の地位を利用して美乃介に無理強いを強いるのも分かります。
お嬢さんの恋ですから。
お花は純情な人です。
純情とはバカの代名詞でもあります。
こういう芝居にはバカが必要です。
お花の純情も掬い上げる美乃介は、やはり白塗りの二枚目です。
スクッと立っている精神も美しい。
哀しみを分かる心も美しい。
精神は自立していることが前提です。
自立して、それから他者との関係を形成する。
心は他者との関係が前提です。
他者との関係から己が生まれる。
どちらも大切です。
美乃介が代表するものは心です。
美乃介には心しかありませんでした。
金も力もない、心しかない美乃介は白塗りの二枚目です。
白塗りの二枚目、それの実体は心です。
相手の目をじっと見て、それに応える心です。
(昨今の安売りされている心とは別物です。)
江戸時代に、精神という言葉はなかったと思います。
心が、内面を顕す言葉だったと思います。
その心の核心は、情です。
情を表現したものが芸能です。
精神は、明治以降の言葉だと思います。
精神の顕すところは、知です。
人の、自由で自立した知です。
精神を表現したものが芸術です。
精神は個人に宿ります。
近代的な、個人です。
心は、近代以前の人に宿ります。
価値基準として、個人には精神、人には心と言っていいと思います。
社会には精神、世間には心です。
日本には精神は根づかなかったと思います。
心から<私>にいってしまいました。
<私>という内面は、(洒落ではないのですが)わたしにはまだ良く分かっていません。
(ポストモダン、ではないことは確かです。)
今あるのは、心でもない、精神でもない、一様に癒されたい<私>という内面だけです。
(現代人には心も精神も全くない、ということではありません。それが価値基準になりえていないということです。)
わたしは、<私>でしかなく、
しかもわたしは、情のような美しいものが好きであり、
知のような崇高なものも好きです。
つまり、芸能も芸術も好きです。
さて、<私>が生みだす表現とは何なんでしょうか。
そして、その表現の向かうところは何処なんでしょうか。
美乃介は過去の人です。
心というものが、時代の真中に座っていた過去の人です。
しかし未来を考えた時、その答えは過去にしかありません。
その心の有り様を研究するのは、わたし=<私>にとってはけっして無駄ではないと思っています。
「女の執念、恋慕、嫉妬、そして親子の愛。元禄時代の艶麗な風俗を背景に、凄まじい恐怖と、美しい幻想の世界で描かれた怪談映画」。
凄まじい恐怖はウソでしたが、それ以外は惹起(コピー)に偽りなしでした。
「薄雪大夫より 怪談千鳥ケ淵」は、量産されたプログラムピクチャーです。
各映画会社で毎週2本づつ量産した映画の中の1本にすぎない映画です。
傑作でも名作でもない映画ですが、わたしはグッときました。
涼しくて、美しくて、哀しい話。
間違いないでしょ?
<第三十四回終わり>※ストーリーの一部は、Webサイト「日のあたらない邦画劇場」より引用させていただきました。
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