コンピュータに興味を持ち始めると、映画やテレビのコンピュータのシーンについつい眼がいってしまいます。
最近は多いですね、コンピュータの場面。
現代的、近未来的小道具として欠かせないものになっています。
特にハリウッド製の大作にはハッカー、クラッカーがよく登場します。
システムへの侵入を巡る攻防、インターネットを舞台にしたミステリー等々,ご覧になっている方も多いでしょう。
ところで、そこに登場するハッカー、クラッカーがどういう操作しているか、注意を向けられたことがありますか?
別にたいしたことではないのですが、彼らはマウスを使っていません。
そもそもキーボードにはマウスが付いていません。
キーボードだけでコンピュータを操作するのです。
今思いついただけでも、「ダイ・ハード」、「マトリックス」がそうでした。
モニターの画面も黒地で、そこに白か緑の文字が表示されるという殺風景なものでした。
ハッカー、クラッカーがキーボードを叩き、その命令が実行されると、あっという間に大量の文字が画面を埋め尽くします。
文字が、左上からザーッと流れるように表示されていく有り様はなかなか美しいものでした。
これはコマンドラインというインターフェースです。
CUI(キャラクター・ユーザー・インターフェース)ともいいます。
キャラクターは、文字のことですね。
文字の入力によってコンピュータを操作する方法です。
(文字といっても、記号が混ざった、シロートが見るとあたかも呪文のようなものです。)
今、わたし達が使っている方法(インターフェース)はGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)といいます。
マウスやアイコン、プルダウンメニュー、ウインドウシステムに大きな特徴があります。
デスクトップを現実の机の上と見做して、操作を分かり易く(直感的に)した方法です。
パーソナル コンピューティングといえば、一般的にはGUIを指しますが、もちろんコマンドラインも現役です。
こちらの方が使いやすく快適だというユーザー(中上級者)も数多くいます。
前回お話したUNIXの基本はコマンドラインです。
UNIXが誕生した当時はGUIなんてものはなかったのですから、当然といえば当然です。
ですから、UNIXベースのLinuxも基本はコマンドラインで、MacOSやWindowsのようなGUIのレベルにはまだいっていません。
それもあって、Linuxを使ってのパーソナル コンピューティングは現状では熟練者に限られてしまいます。
同じUNIXベースのMacOSX(テン)には、コマンドラインが利用できるアプリケーションが組み込まれています。
今回研究するにあたってちょっと試してみました。
もちろん、わたしには闇雲にトライするだけの知識はありません。
自慢じゃないが、なんたって、わたしは初級者ですからね。
雑誌「MAC POWER」の記事通りやっただけの話です。
(余談ですが、数年前にはこういうコンピュータ雑誌を定期購読するとは思ってもみませんでした・・・・。)
さて、「Terminal」が、そのアプリケーションです。
Terminalとは端末のことです。
昔のコンピュータは1台に多くのユーザーが繋がっていました。
各ユーザーはモニターとキーボードでコンピュータにアクセスし、作業をこなしました。
そのキーボードとモニターのことをTerminal(端末)とよびます。
「Terminal」はそれを模した(エミュレート)したアプリケーションです。
なぜなら、今では1台のコンピュータに複数のユーザーがぶら下がっていることは殆どありませんし、たいていは自分が占有しているのが普通だからです。
「Terminal」のアイコンは端末時代を偲んでか、黒地の画面に白いカーソルになっています。
「Terminal」を起動して、点滅するカーソルの後にコマンドを入力していきます。
dateと入力して[return]キーを押します。
するとすぐ下の行に現在の日付と時刻が表示されます。
次は「Terminal」のウインドウを半透明(シースルー)にするコマンドです。
defaults write com.apple.Terminal TerminalOpaqueness 0.5と入力して、[return]キー。
なりましたね、ウインドウが半透明に。
dateより感激します。
0.5は透明度ですから0.0(透明)から1.0(初期状態)まで調整できます。
それから、[return]キーはコマンド(命令)の実行です。
コマンドには規則が山のようにあります。
だって、コマンドで全ての作業をこなす訳ですから当然ですよね。
そこで、予めコマンドのオンラインマニュアルがシステムに組み込まれています。
忘れたらそれを参照すれば良いわけです。
日付に関するコマンドのマニュアルをよびだすには、man dateと入力して、[return]。
manはマニュアルですね。
出ました、出ました、一瞬のうちに文字がイッパイ。
映画に近づきました、数秒間だけハッカー気分!
これでわたしの経験は終りです。
ちょっとだけでしたが、コマンドラインが何であるかの理解の足しにはなりました。
コマンドラインとは、コンピュータのシステムに直接対話するインターフェースなんですね。
このダイレクト感が堪らないのでしょうね、愛好者には。
コマンドラインは、作業効率が良いという利点もあります。
ある特徴(例えばjpegという拡張子の付いた)を持ったファイルの一括処理なんかが簡単にできます。
しかし、しかしです、わたしがコマンドラインからコンピュータに入っていたら三日で止めていたでしょう、多分。
複雑なコマンドで頭を抱えながら。
貴方も、貴方も、貴方もそうだった思います。
シロートには、やっぱりGUIなんですね。
コンピュータの中身はそれ程変わらず、GUIに欠点があったとしても。
GUIの大きな欠点とは、それによってシステムが複雑になり不安定になってしまうことです。
例えば、フリーズしやすくなってしまいます。
システムがシステム自身の複雑さによって身動きが取れなくなる状態です。
皆さん悩まされていますね。
特にMacは、GUIの操作性が洗練されているかわりにアプリケーションがフリーズ(クラッシュ)するとOSまでフリーズしてしまうケースが多い。
最初の頃はコンピュータが壊れたかと思って一瞬ヒヤリとしたものです。
(馴れれば、又か・・・・ですが。)
欠点を補っても余りあるGUIの良さは親和性です。
親しみやすくて、キーボードに不慣れでも何とかなる。
マウスのお蔭です。
その分後で苦労はしますが、取り敢えずコンピュータと接することが出来るのがGUIの取り柄です。
さて、そんな今日のGUIはどこで生まれたのでしょうか。
1970年代にアメリカのゼロックス社の研究所でそれは生まれました。
パロ・アルト研究所(PARC)で研究されたテクノロジーや思想がGUIを生み、現在のパーソナル コンピュータに大きな影響を与えました。
この研究を主導したのが、アラン・ケイです。
彼はパーソナル コンピュータの父と呼ばれています。
この話はパーソナル コンピュータ関係の本には必ず出てきますが、我慢してちょっとおつき合い下さいね。
ゼロックス社が何でそんな研究をしていいかというと、将来のオフィス環境を予測し、コンピュータ事業に参入するためだったんですね。
ゼロックス社はコピーで有名な会社ですから頷ける話ですが、その成果については全く理解できませんでした。
一億ドルという巨額をつぎ込んだにもかかわらず、その実を収穫することができなかったんです。
何故なら、その研究が優に時代の10年先をいっていたので上層部は理解できなかったのです。
その実を収穫したのは、同じ目的を異なる方向から模索していたアップル社でした。
パロ・アルト研究所を見学したアップルのスティーブ・ジョブズは、アラン・ケイが中心となって開発されたコンピュータ「アルト」に接して大きな啓示を得ました。
天才エンジニアスティーブ・ウォズニアックを擁したアップルは、後に「Lisa」を経由して1984年に「Machitosh」を発売します。
これが現在のパーソナル コンピュータの始まりです。
(それまでにもパーソナル コンピュータに近いものはありましたが、充分な完成度をもって市販されたパーソナル コンピュータはこれが初めてでした。)
大まかな歴史の話はこれで終りです。
アラン・ケイは1940年生まれのコンピュータ学者です。
彼がコンピュータにビジョンを与え、パーソナルコンピュータの概念をかたちづくりました。
今貴方が使っているパーソナル コンピュータはアラン・ケイがいなかったら存在しなかったのかもしれんせん。
そういう人です。
彼の著作、「アラン・ケイ」(鶴岡雄二/翻訳、浜野保樹/監修、アスキー発行1992年刊)を今回の研究にあたって参照しました。
これは、著作といっても三つの論文(1997年、1984年)と講演録(1983年)を編纂したものです。
コンピュータの本の中では古典に類するものです。
そもそもコンピュータは進化が速いので、本に書かれたものは直に古びてしまい、再読に耐えるものが少ないが現状です。
そんな中で、今読んでも示唆に富み、改めてコンピュータの魅力を再認識させられる本です。
アラン・ケイはコンピュータ学者ですが、ミュージシャンでもあった人です。
ロック、ジャズバンドでギターを弾いていた人です。
まぁ、プロフェッショナルではなかったようですが、そこそこの実力はあったようです。
この人の論文には、そういったライフスタイルを反映してか、論文特有の冷たさがありません。
どこか、ヒューマンです。
彼がパロ・アルトに入所する前後はカウンターカルチャーが力を持っていた時代です。
この時代のコンピュータ関係者にはその影響下にあった人が数多くいます。
前回のUNIX文化もそうでしたし、アップルのジョブズ、ウォズニアックもそうです。
(現在のジョブズにはその面影が殆どないが。)
そして、アラン・ケイもそうでした。
わたしは、コンピュータが大きく発展する時期がそういう時代だったことは、幸せだったと思います。
それが、Linux文化を生んだのであり、今のような時代に個人の力を発揮できる小さな砦として残ったからです。
個人=パーソナル、これが研究のキーワードです。
個人の力を発揮できるコンピュータ、それがパーソナル コンピュータです。
それを夢想したのが、アラン・ケイであり、そのプロトタイプを作ったのも彼です。
彼がパーソナル コンピュータを考えたときにヒントにしたのは紙です。
今、貴方の周りには紙が散在してますね。
この紙のことをちょっと考えてみて下さい。
手紙が書けますね、メモも書けますね、報告書も書けますね、ドローイングが描けますね、イラストが描けますね、楽譜も書けますね。
貴方のやりたいこと、貴方の伝えたいことのたいていがたった一枚の紙でできますね。
これは実は凄いことなのです。
アプリケーションもいらないし、電源もいらない、光と眼があればそれは認識できるのです。
手紙を貰った人が、OSの種類もバージョンもアプリケーションも気にする必要がない。
便利じゃないですか、全くもって。
じゃ、その紙のインターフェースは何でしょうか?
わたしは文化だと思います。
長い歴史が育んだ紙の文化です。
わたし達が紙に接するとき、そこには遥か昔からの文化があるのです。
わたし達は教育という形でその文化を学習してきたのです、無意識のうちに。
紙を束ねると本になります。
しかし、束ねただけではダメですね。
印刷しないとね。
印刷術はグーテンベルグの発明です。
しかし、小型の本にしたのはグーテンベルグではなくて、アルダス・マニュティウスというヴェニスの人です。
アルダス、何か聞いたことあるでしょ。
その人の名からいただいた誌名です。
本は、紙と匹敵するほど凄いものです。
世界中の人の考えや言葉を何時でも、何処でも、光と眼があればそれを読むことができます。
地図だって、電話帳だって本です。
試しに、本のない世界、本のなかった歴史を想像してみて下さい。
(ついでに、もし本というものがなかったとした貴方の歴史を想像して下さい。)
一言でいえば、アラン・ケイとはコンピュータのアルダス・マニュティウスにならんとした人です。
パーソナル コンピュータは言ってみれば、未来の本にならんとしているのです。
それもダイナミックな。
インターフェースが文化なら、コンピュータのインターフェースを考えることは文化を考えることになります。
そうです、アラン・ケイはコンピュータの文化を考えた人なんですね。
GUIという文化を。
そこがこの人の偉いところです。
基盤技術というは、そこにビジョンがないと普及しません。
本という基盤技術に生命を吹き込んだのはマーティン・ルターです。
聖書を個人のものにするというビジョンです。
優れたハードとソフトがあって始めてそのメディアは発達、普及します。
「アルト」というプロトタイプ(ハード)を作り、GUI(ソフト)の実用に精力を傾けたアラン・ケイはマニュティウスとルターを兼ね備えた人物とも言えます。
「アルト」はデスクトップ・コンピュータです。
大きさは、そうですねぇ、コンビニのコピー機ぐらいはあるでしょうか。
パーソナル コンピュータとしてはデカイですが、当時としては最小サイズだったとおもいます。
彼(アラン・ケイ)の考えていたパーソナル コンピュータは今のラップトップ(ノート型)です。
そのサイズでなければパーソナルといえないと考えたからです。
そのコンピュータの名前は「ダイナブック」です。
ダイナミックなブック(本)です。
ハード(シリコンチップ)の進歩は既にムーアの法則によってある程度予測できました。
将来コンピュータがラップトップぐらいの大きさになるのは想像できたわけです。
ですから、彼はソフト=文化に力を注ぎました。
「アルト」は暫定「ダイナブック」という位置づけです。
今は図体がデカイが将来は小さくなるよ、でも中身は小さくなったときを想定して考えますよ、という姿勢です。
ダイナミックな本の中身に入ってみましょう。
コンピュータが本のようになるには、誰でも扱えるものでなければなりません。
そうでなければ、パーソナル コンピュータとはいえませんね。
パーソナル コンピュータとは、コンピュータの特定の専門家からの開放ですから。
そのためにGUIが考えられました。
GUIを構成する技術の多くは既にあったものです。
(マウスもパロ・アルト研究所の発明ではありません。)
それらを統合して洗練し、使いやすく、且つ高度にしたのが彼及びパロ・アルトの功績です。
高度というのは、誰でも扱えるが、高度な専門家の要求にも応えられるという意味です。
これは重要です。
彼は、誰でも扱える=低級を目指したのではなく、プロフェッショナルの表現に目標を置いたのです。
音楽家や美術家の高度な要求にも応えられるものを目指したのです。
又、誰でも扱えるということは、触って直に流暢に操作できるということをも意味しません。
だって、紙に書かれた文字を読むんだって長期の学習を要したでしょ。
パーソナル コンピュータを文化として考えれば、習得はやはり必要なこととなります。
文字の読み書きにリテラシー(習得)が必要なように、パーソナル コンピュータにもリテラシーは必要です。
(↑この辺り、耳が痛い話ですね、お互いに。)
文化とはそういうものですから。
GUIの本質を簡単にいえば、WYSIWYG(What You See Is What You Get)です。
「見るものがそのまま手に入る」です。
紙に書いたように、白い無地の背景に黒い文字で、しかも望んだ書体でモニターに映ることです。
当然といえば当然のことですが、それは今だからいえることです。
当時はコマンドラインしかありませんでした。
黒地に緑か白の文字。
プリントアウトしたものと、モニターが一致しないですね。
ユーザーの幻像(想像したもの)とモニターを一致させるのがGUIです。
言葉でいえば簡単ですが、これを実現するのは大変だったと思います。
又、画像などのグラフィッカルな処理はGUIの最も得意とするところです。
さて、アラン・ケイはパーソナル コンピュータをどのように考えていたでしょうか。
パーソナル コンピュータの文化の核心です。
ちょっと長いですが、引用してみます。
メッセージのかたちでメディアに収められた情報を、さまざまな方法で蓄積し、とり出し、操作する“装置”は、何千年も前から存在していた。人間は、他人や自分自身に、思考や感覚を伝えるのにこれを利用している。思考は頭のなかの出来事だが、外部のメディアによってかたちを与え、フィードバックによって、思考のたどる経路を拡大することができる。あるメディアで発見された方法は、他のメディアの概念を、新たな見方で捉えるに役立つメタファーを提供する。
本というメディアをメタファーとして、パーソナル コンピュータを捉えなおすということですね。
紙の上の記号、壁の絵、そして映画やテレビですら、見る側の思いどおりに変化することはない、という意味で、人間とメディアとの関わり方は、有史以来おおむね非対話的、受動的なものだった。数学の公式によって、宇宙全体のエッセンスを記号化できるかもしれないが、ひとたび紙に記されれば、もはや変化せず、可能性を拡大するのは読み手の作業となる。
パーソナル コンピュータは能動的(対話的)に変化させることができます。
書かれた(描かれた)ものに手を加え発展させることができます。
Linuxのソースコードに多くの人が手を加え、発展させた例を思い出して下さい。
これが、ダイナミックなメディアとしてのパーソナル コンピュータです。
あらゆるメッセージは、何らかの意味で、何かの概念のシュミレーションである。これは具象的にも抽象的にもなりうる。メディアの本質は、メッセージの収め方、変形方法、見方に大きく左右される。デジタルコンピュータは本来、算術計算を目的に設計されたが、記述可能なモデルなら、どんなものでも精密にシュミレートする能力をもっているので、メッセージの見方と収め方さえ満足なものなら、メディアとしてのコンピュータは、他のいかなるメディアにもなりうる。しかも、この新たな“メタメディア”は能動的なので(問い合わせや実験に応答する)、メッセージは学習者を双方向な会話に引き込む。過去においては、これは教師というメディア以外では不可能なことだった。これが意味することは大きく、人を駆り立てずにはおかない。
この辺り、難しいですね。
難解です。
アラン・ケイはマーシャル・マクルーハン(カナダのメディア学者)の影響を受けているので、マクルーハンのメディア論がベースになっています。
ここでは、パーソナル コンピュータの可能性が書かれているわけですが、メタメディアと双方向性がキーになると思います。
テレビは映画の、映画は芝居をシュミレートしたメディアです。
シュミレートとはそういうことです。
又、予測という意味もあります。
パーソナル コンピュータはどんなものでもシュミレートできる特殊なメディアです。
今までのメディアを超えたメディアということですね。
将来現われるメディアさえも、それを数値化さえできればシュミレートできます。
“メタメディア”です。
双方向性とは、メディアと人とが対話するかたちでメッセージを発展させられる、ということではないかと思います。
これはゲームを例にとると分かり易いですね。
ゲーマーはコンピュータとの対話によって、ゲームをどんどん変化させます。
ゲーマーがゲームを作っているともいえます。
あるいは、一つの小説を自由に分断して再構成することもできます。
リミックスの概念に近いですね。
コンピュータなら簡単にできます。
しかし、アラン・ケイが考えていたことはもっと先のことです。
ユーザーがプログラミングしながらコンピュータと対話することです。
しかも、ユーザー自身がプログラミングしていると気がつかないような自然な操作によってです。
わたし達はプログラミングと聞くと腰が引けていまいますが、そういう特殊な処理ではなく、アラン・ケイはいつの間にかシステムに働きかけて環境を作り替えてしまうソフトウェアを目指していました。
ダイナミックにコンピュータと対話する、それが彼の考えていたプログラミングです。
そして、「Smalltalk」というプログラミング言語を開発しました。
彼の考えたGUIは、プログラミング環境を含めた総合的なインターフェースであり、それが目指すものは人と社会の成長のスプリングボードとなる個人のツールです。
「ダイナブック」は、本(あまりに革命的なメディア)のシュミレートから出発して、あるゆるメディアをシュミレートしながら成長していくメディアです。
それは、人のコミュニケーションしたいという根源的な欲求を増幅し、表現のメディアとして個人の拡張を助けるものです。
そのビジョンの実現のためにアラン・ケイはGUIを構想し、そして今も構想しています。
アラン・ケイの考えた「ダイナブック」は未だに実現されていません。
(註:東芝製のDynabookはダイナブックと何ら関係がありません。)
GUI/インターフェースが文化なら、まぁ、時間がかかって当然ですね。
ハードは予測どおり「本」に近いものが実現されています。
今わたしが使っているラップトップのパーソナル コンピュータも「本」に近いものですが、アラン・ケイの構想の方がまだまだ先を行っています。
でも、パーソナル コンピュータがこういった願いを核心に秘めていたことは嬉しいことです。
わたしは研究していてそう思いました。
貴方も、そう思いませんか?
こういう研究はどうしても長くなってしまいます。
お読みいただいている方には申し訳なく思っています。
しかも、書き残したことが多い。
自動車のパーソナル性とパーソナル コンピュータの比較なんかもやりたかったんです。
(トヨタなんかはクルマの電脳化を真剣に考えています。パーソナル・ダイナミック・カーです。そこにビジョンがあるかどうかは別として。)
テーマをかえて又チャレンジしたいと思います。
さてさて、次回は涼しい話をします。
涼しくて、美しくて、哀しい話を研究します。
では。
<第三十三回終わり>
BACK→CONTENTS