スポーツ,それは時として大きな感動をよびます。
スタジアムで観戦することはもちろん、テレビで観戦していても感動します。
今、スポーツを観戦するのはテレビが主流です。
テレビで観戦する人の方が圧倒的に多いからです。
数少ない、恵まれたあるいは熱心な観客以外はテレビで観戦します。
テレビというメディアはスポーツ中継に向いています。
リアルタイムで試合の流れを追うことが出来るからです。
先行していたラジオが聴覚だけの情報で、多くを人の想像力に負っていたのに対して、丸ごと現場の様子を伝えてくれます。
テレビは、臨場感に圧倒的に長けたメディアです。
又、テレビだからこそ面白い競技もあります。
例えば、マラソン。
あの長い距離を実際に見続けることは不可能です。
テレビはスタートからゴールまで居ながらにして見ることを可能にしました。
テレビが人々の生活の中心になった時、感動の多くはテレビの中から生まれます。
テレビのニュースやドラマ、音楽からも感動が生まれますが、何といってもスポーツがその主役ではないかと思います。
苦しく辛い練習に耐えて栄冠を勝ち取る、あるいは敗者として消えていく。
そこには人の一生に喩えられるようなドラマがあります。
勝負の厳しさが人生の厳しさと二重写しになって感動します。
人間の思わぬ可能性の開花にも感動します。
そして、スポーツの最大のイベントといえばオリンピックです。
四年に一度のオリンピックです。
テレビの最大のイベント、それも又オリンピックです。
オリンピックは感動の宝庫です。
人が何故オリンピックを見るかといえば、それは感動したいからです。
リアルタイムで多くの人が感動する。
これもテレビの特徴です。
その感動で、翌朝会社や学校が再び盛り上がります。
(テレビと電話を同時使用して、リアルタイムに感動を分かち合う人もいます。)
スタジアムで隣り合った他人と感動を分かち合うことが、テレビ観戦でも形を変えて広い範囲でおこなわれます。
感動の共有です。
これは、人間の感動がもともと共有の要素を含んでいるからです。
共有されると、その感動は増幅(アンプリファイア)され、ある安心感をも生みます。
自分の感動は正しかった、と確認されるからです。
テレビを見て感動したことが、人と人のコミュニケーションの重要なポジションを占めています。
それは何時からだったのでしょうか?
この間のシドニーオリンピック、ご覧になりましたね。
シドニーオリンピックで一番感動したのは女子マラソンです。
オリンピック前の話題は柔ちゃん(田村亮子選手)のリベンジでした。
「最低でも金、最高でも金」、これでしたね。
前半の感動は予想どうり田村選手の金メダルでした。
(これはどこか長野オリンピックの原田選手の再現といった趣がありました。)
柔道100キロ超級の判定でモヤモヤしたりしていた中盤が過ぎ、女子マラソンで日本中が沸きました。
オリンピックの華はやはり陸上です。
その陸上の中でも、メインイベントはマラソンです。
久々の陸上の金メダルでしたから、日本中が感動し沸きました。
主役は高橋尚子選手です。
金メダルを取った瞬間から、高橋選手と小出監督の師弟愛がマスメディアで大量に流されました。
小出監督の「Qちゃん、ホントにがんばったね、・・・・・・・・・」を国民は一日に何度も聞くことになりました。
ゴールした瞬間、高橋選手の眼は誰かを探していました。
その眼、その表情。
わたしは不思議な感じがしました。
そして、記者会見で小出監督の談話を隣で聞く高橋選手の含羞(はにか)んだような表情、それも不思議でした。
金メダルに感動し、その師弟愛にわたし達は感動させられました。
秀でた指導者である小出監督と、非凡な才能を持つ高橋選手との起伏に富んだ金メダルまでの道のり。
幾多の困難を乗り越えた師弟の結びつき、そこにわたし達は感動させられました。
オリンピックの興奮も醒めた今、高橋選手はバッシングされているそうです。
いろんな業界の賞を貰って授賞式に出たことをバッシングされているそうです。
これは可哀想だと思います。
テレビの常套手段、持ち上げて、下ろす、ですね。
復帰のハーフマラソン前、レポーターに「(太ったので)シューズに足が入らないそうですね?」、と問われた高橋選手の「入りますよ!」と答えたキツイ表情には余裕が全くありませんでした。
ハーフマラソン後の記者会見で、小出監督がバッシングに触れて「この娘(こ)はねぇ、Qちゃんはね、昨日週刊誌の記事を見て一日中泣いていたんですよ・・・・・・・・」と語った時、隣にいた高橋選手は含羞んだような嬉しいような表情をしていました。
わたしは、再び不思議な感じがしました。
この師弟愛は、やっぱり不思議だ。
それは、二人が男女の仲であるとかないとかとは関係ないことです。
問題はそこにはない。
問題はメディアとその享受者、つまりわたしたちの側にあるのです。
テレビが感動の中心になったのは、そう、東京オリンピックの時です。
前回のオリンピックにあたるローマオリンピックの時はテレビの普及率はまだまだでした。
衛星中継はずっと後のことですから、テレビでライブでオリンピックを見るのは東京オリンピックが最初です。
地元だったから、日本の国民はライブで見られました。去年の暮れ、NHKの BSで映画「東京オリンピック」が放映されました。
20世紀の終わりを記念しての放映だったと思います。
日本の20世紀にとって、東京オリンピックは絶対に外せない出来事です。
その時、日本は近代国家として世界にデビューしました。
より正確に言えば、オリンピックは都市が開催権を持っているので、東京が近代都市としてデビューしました。
「東京オリンピック」の監督は市川崑です。
ビデオに収録された映画を改めて観ると、紛れもない市川崑の作品です。
この映画が完成して試写された時、当時の文部大臣(だったと思う)の河野一郎から痛烈に批判されました。
「オリンピックの記録になっていない」という批判だったと記憶しています。
左様、この映画は所謂(いわゆる)記録映画ではありません。
市川崑、個人が見た東京オリンピックだったのです。
あまりの作家性の強さに批判が出たのは頷けますが、そうであったのなら市川崑に監督を頼まなければ良かったのです。
市川崑とは、そういう監督なんですから。
アップの多い、沈んだトーンと人間の肉体描写を中心にした市川崑の「東京オリンピック」は、やはり名作です。
レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」、「美の祭典」に匹敵しうるオリンピック映画です。
わたしはこの映画をオリンピックの翌年、つまり1965年に観ています。
学校単位の鑑賞ということで、県のホールで観ました。
それ以来ですが、再見して女子バレーとマラソン(当時は男子だけ)が強く印象に残りました。
その女子バレーのシーンの中でも金メダルが確定した直後のシーンが特に印象に残りました。
宿敵ソ連に2セット連取し、第3セットも難なくマッチポイントを取ります。
しかし、それからリズムを崩してソ連の猛反撃にあって14ー13になります。
6度目のマッチポイントでソ連がタッチネットを犯してゲームセットになります。
その直後、抱き合って喜ぶ選手のカットの後に大松博文監督が映し出されます。
このシーンにわたしは感動しました。
これを読んでおられる方が「東京オリンピック」を観る機会は殆どないと思われますので、ここで細かく描写してみます。
勝利に沸き立ち、抱き合う選手たち。
コートの横の長イスの前に立つ大松監督。
上下赤いジャージーで胸にNIPPONの文字。
何故か袖で口を拭う大松監督。
上着の裾を両手で下に伸ばす。
体は左右に細かく動いている。
腰に両手をやり、視線は落ち着かない様子。
何気なく斜め下を見る。
そして、体を折り曲げるようにして深く椅子に腰掛ける。
前傾姿勢で、手を組んだ肘は膝の上。
落ち着かない両手の指を絡ませながら、何かを考える様子。
表情は、一貫して心ここにあらずといった感じ。
どう見ても勝者の表情には見えない。
それは、どういう表情をしていいか分からない者の表情だ。
(国民の期待に応えた安堵感か、それともこれまでの苦労を反芻しているのか。あるいは、一つの仕事をやり終えた虚脱感なのか。)
これはワンカットで撮影されていて、約25秒。
このシーンは秀逸です。
喜びを全身で表現する今時とは大違いの、勝利に困惑した男の美しい姿があります。
内から沸き上がる感情のやり場に困った男の姿があります。
唯々(ただただ)所在なげな大松監督にわたしは感動しました。
(余談ですが、試合中のシーンにワンカットだけ当時の美智子妃殿下のアップが映ります。美しいですよ。ホントに美しい。このカットを観るだけでもこの映画を観る価値あり、です。)
女子バレーは大会前から金メダルが有望視された競技です。
ナショナルチームの母体となった日紡(二チボー)貝塚は実業団チームですが、当時国内外で無敵でした。
その日紡貝塚を率いていたのが大松博文監督です。
鬼の大松と呼ばれ、その厳しい練習は当時の人を驚かせました。
大松監督の「おれについてこい!」は流行語にもなり、同名の著書、映画も作られました。
今となっては何ともアナクロな、「おれについてこい!」が大松監督のトレードマークでした。
今時、「おれについてこい!」といわれてついていく人なんかいません。
どこに連れていかれるか分かりませんからね。
逗子のマンションとか・・・・、アブナイですよね。
ま、当時はそれで良かったのです。
(しかし、映画のシーンを観ていると、この「おれについてこい!」は、マスメディアによって相当フレームアップされていると思います。大松監督は言葉の人ではないと思います。)
その後大松監督は、自民党から参院選に出馬し、かなり上位で当選して議員になりました。
その頃から大松監督の名前を聞かなくなり、議員を辞めて暫くして死去のニュースを新聞で見ました。
まだ50代前半だったと記憶しています。
若くして亡くなっています。
大松監督におよそ政治は向かない人だと思います。
あの映画の大松監督を見ているとそう思います。
不器用で、多分家庭では面白くも何ともなかった男。
つまりは、昔(むかし)の男でした。
テレビを見て日本中が感動する、その始まりが東京オリンピックの女子バレーです。
1964年です。
1964年とはどういう年であったか。
東海道新幹線、首都高、東京モノレールの開通。
かっぱえびせん、クリネックスティシュー、家庭用ビデオデッキ、平凡パンチ、ガロの発売。
(クリネックスティシューのセールス文句は「使い捨てのハンカチ」。)
テレビは、「赤穂浪士」、「木島則夫モーニングショー」、「ひょっこりひょうたん島」。
ワイドショーの先駆け、「木島則夫モーニングショー」が始まっていますね。
歌では、「明日があるさ」、「お座敷小唄」(マイ・フェバリットソングの一つ)、「柔」。
「明日があるさ」は、坂本九です。
最近、ジョージアのCMソングで流れていますね。
1964年の「明日があるさ」は、本当に「明日がある」と信じられた時代の歌です。
王が55本のホームラン、花粉症の発症、佐田啓二(中井貴一の父)の事故死、みゆき族(アイビー)、ベトナム戦争もこの年に始まっています。
感動関係でいえば、難病モノの古典である「愛と死を見つめて」がベストセラーになっています。
「愛と死を見つめて」は本、テレビ、映画、主題歌とマルチに展開されました。
Qちゃん、そう「おばけのQ太郎」もこの年です。
そういう年だったのです、1964年は。
それから37年経ちました。
その間人々はテレビを通じて数々の感動を味わいました。
言葉を換えれば、感動を消費してきました。
テレビは消費するものです。
テレビはあらゆるものを消費するメディアです。
ある事件が起きるとそれを集中的に報道し、その事件が一段落すると一斉にそこから離れていきます。
まるで何事もなかったかのように事件は忘れ去られ、消費されます。
感動も同じです。
日本中が涙を流して感動した出来事も、半年もすれば遥か昔の出来事のように忘れられます。
それが、テレビの特質であり、テレビを見るということの特質です。
日常と非日常の間に生息する継子(ままこ)のようなテレビとは、そういったものです。
感動とは心の動きです。
ある事に強く感じて心が大きく動くことです。
わたしは、メディアにおける感動の正体は想像力ではないかと思います。
文章に感動することとは、行間を読む想像力の作用ではないかと思います。
映画に感動することとは、シーンとシーン、カットとカットの間を観る想像力の作用ではないかと思います。
絵を観て感動することとは、そこに描かれていないモノを観る想像力の作用ではないかと思います。
テレビは途切れなく番組が放送されます。
テレビは知りたいことを即物的に放送してくれます。
テレビカメラの後ろがどうなっているかも映してくれます。
テレビは実際には見えないものまで見せてくれます。
そして、テレビはこちらの想像力を先回りして全てを見せてくれます。
感動の先取りです。
想像力の作用の先取りです。
先取りされた感動を見て、視聴者は感動する。
それは、水増しされた感動ですね。
親切ではあるが、すぐに飽きてしまう。
消費される感動です。
これが繰り返されると、却って感動に対する飢餓が大きくなります。
だから、わたし達は常に感動を求める肥大した欲求を持ってることになります。
このシンドロームはメディアのみによって形成されたものではありません。
しかし、メディアがその主原因であるとわたしは思います。
(話がややこしくなるので、あえてここではその他の要因には触れません。)
さて、高橋選手と小出監督。
このような感動シンドロームの中で、感動の渦中の人はどうやって身を処するか?
シェルターに隠れるのも一つの方法です。
二人だけのシェルターに。
多分、わたしが不思議に感じたのはその師弟愛がシェルターに覆われたものだったからですね。
「Qちゃんはね、・・・・・・・・・・・・・・・・・」。
やっぱり、不思議です。
今、感動の中心はテレビにあります。
にもかかわらず、テレビは本当の感動を与えてくれません。
テレビが初心(うぶ)で、テレビに映される者も初心(うぶ)だった1964年。
大松監督は初心(うぶ)で、その師弟愛も初心(うぶ)でした。
わたしが映画で感動したのは、無防備で初心(うぶ)な大松監督の姿です。
その姿に心を強く動かされました。
東京オリンピックの閉会式。
これも感動的だったそうです。
だったそうです、と書いたのはわたしはリアルタイムで見ていないからです。
あの夜、わたしは家にいなかったのです。
テレビを見ていないのです。
国民的行事を見ないで、どこに行っていたのか?
それが、次回の研究です。<第二十四回終わり>
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