わたしは<宇宙>の研究の最後で、2020年に2040年を舞台としたSF映画を観たいと記しました。
今年に入って始めて観た映画の舞台は2050年の火星。
2020年まで待つ必要がなかったわけです。
「レッド・プラネット」。
監督はTVCF出身のアントニー・ホフマン。
実は、この映画を特に観たかったわけではありません。
友人の映画に詳しいMさん(独身者)から映画のお誘いがあったので、妻と三人でお台場のシネマメディアージュに行った次第です。
目的はシネマメディアージュにありました。
ここは13スクリーンありますから、ある程度プログラムを選択ができます。
その中では面白そうだった「レッド・プラネット」を観ました。
まぁ、映画としては並です。
特に人に薦めるような映画ではないと思いました。
(映画館の見やすさと音響は予想以上に良かったのですが。)
この映画は、<宇宙>の研究で題材にした「ミッション・ツゥ・マーズ」と途中までストーリーがほどんど同じです。
火星に飛び立った探査艇がトラブルの為に火星に不時着を余儀なくされ、そこで遭遇する体験を軸にしてます。
体験の中身が違うだけでそれ以外は一緒です。
2020年から30年たっても同じトラブルを起す人類の進歩のなさに呆れましたが。(←違うか?)
並の映画ではありましたが、わたしはある設定に興味を持ちました。
「ミッション・ツゥ・マーズ」は夫婦及び配偶者を失った男が話の中心になります。
主役は既婚者です。
「レッド・プラネット」は船長である女性(チャリー=アン・モス)とクルーの一人(ヴァル・キルマー)の恋愛が軸になっています。
こちらは独身者が主役。
独身者が主役の映画は珍しくも何ともありません。
映画の多くは独身者が主役です。
しかしながら、「レッド・プラネット」には2001年前後の都会の男女が上手く投影されています。
SF映画も時代劇も製作されたその時代の意識によって作られています。
「2001年宇宙の旅」は当然1960年代の意識が形作った2001年の物語です。
時代の意識や価値観が、未来や過去に投影されるとSF映画、時代劇になります。
船長の名前は、ボーマン。
これは「2001年宇宙の旅」の船長と同じ名前です。
リスペクトですね。
30代後半の独身女性であるボーマン船長は魅力的なキャラです。
物事を冷静に判断し、非常時にも適切な行動をとってクルーの信頼を裏切らない。
しかも美貌の持主。
このキャラは多分に「エイリアン」シリーズのシガニー・ウィバーが下敷きになっています。
ある種のセクシーさを意識して取り入れていると思います。
いずれにしても、このキャラクターが映画の核になっています。
火星で遭遇する体験や恋愛が話として弱いので、このキャラが際立たない。
残念です。
ボーマン船長は、2001年前後のヒロインであり、憧れです。
その相手に、クルーでは傍流ともいえるのメカニック(修理技術者)の男が選ばれたのも2001年前後の意識です。
この組み合わせは正解です。
エリートのパイロットとの組み合わせでは「ウソっぽく」なりますからね、今時は。
しかも、男は船長より若いが適齢期は過ぎていると思われる独身者です。
結婚の可能性が減少に転じた年齢ぐらいでしょうか。
日本では適齢期が年々上がっています。
アメリカも多分そうでしょう。
適齢期以降の独身者も増えています。
都市(都会)ではそれが顕著です。
ですから、この設定にはリアリティがあります。
この映画はそういった都会の独身者の恋愛の映画です。
船長を母船に残して火星に不時着したクルーはアクシデントの連続で帰還が難しくなります。
クルーは困難と立ち向かう度に一人ずつ命を落としていきます。
(困難は外部だけではなく、クルーの人間関係という内部にもあります。)
母船との連絡は過去の無人探索艇が残していったオンボロ無線機だけ。
この切れ切れにしか通じない通信が生命と愛を結び止めます。
別にそこで愛の言葉が囁かれ続けるわけではありませんが、帰還するために知恵と体力を振り絞った二人の交信には愛が存在します。
その背後には、環境汚染で絶滅が近い地球へ驚愕の調査報告を持ち帰るという使命もありますが、そんなことはどうでも良いのです。
観ていてピンと来ないし、作る方もそれほど真面目に考えていないようです。
取り敢ず考えた大テーマといった感じです。
(テーマは実に2001年的問題意識ではありますが。)
さて、通信です。
昔から映画の小道具として電話がよく使われました。
愛が生まれたり、ちょっとしたかけ違いや間違い電話からドラマが生まれます。
通信には想像力が伴いますからドラマには好都合なのでしょう。
ここでの通信はインターネットとは無関係です。
ラジオ無線に近い交信です。
無理にこじつければモバイルと言えないこともありません。
要は、SF映画の姿を借りたこの現代劇が通信機器をコミュニケーションの中心に据えたこと、わたしはそこに興味をひかれました。
メカニックは多くの危機を乗り越え間一髪で母船に帰還し、船長との再会を果たします。
そして二人は愛を確認するのですが、その後地球に還って結婚したかどうかは映画では示されません。
わたしは、結婚しないような気がします。
独身のままで愛を継続するような気がするのです。
その方がこの映画に相応しいと思います。
さしたる根拠はないのですが。
ついでに言ってしまえば、女性船長のいる母船への男の帰還は、安易に読めば女の待つ家庭への男の帰宅となります。
が、わたしは「自分ことは自分でする」=自助努力で結びついた女と男の再会と読みました。
その方が素敵でロマンティックですから。
再びバーに話を戻します。
今年になってそこで又一冊の本をゲットしました。
津野海太郎「歩くひとりもの」。
津野さんも東京に住む自由業(編集者)の独身者です。
関川さんとは違った角度から独身者の生活、考えを記しています。
この人も文章が上手いので読み始めると途中で止められません。
津野さんがこの本を書いたのは50代の時です。
関川さんより10才ぐらい年上です。
50代の独身者である津野さんは当然「老い」の問題にぶつかります。
一人で過ごす老後のことです。
自分ことは自分でする、が徐々にままならなくなるのが「老い」です。
「老い」は今や既婚者、家族にとっても大問題です。
介護です。
家という制度が崩壊しているので「老い」の引き取り手が見つからないのです。
津野さんは自分の「老い」という観点も含めて独身者の生活を考察しています。
わたしが読んだ「歩くひとりもの」は文庫版です。
これには単行本にはなかった、関川夏央さん、山口文憲さん(独身者)との鼎談が最後に収録されています。
ここで読者は大きな背負い投げを食らいます。
独身者のプロフェッショナルと思えた津野さんが、実は最近結婚したという事実が語られているからです。
鼎談した二人に「転向者、背教者」と揶揄されますが、「何が起こるかわからないのが人生」という結語でそれに応えています。
津野さんの結婚はどこか微笑ましいですね。
わたしは本を読んで、裏切られたという気持ちよりも素直に祝福したいと思いました。
さて、わたしは<独身者>の研究(1)の冒頭で自分のことを「外れている」と記しました。
まともできちんとした結婚生活から外れています。
それは、そういう生活を取り囲む共同体意識が苦手だったからです。
地縁血縁との付合いが苦手だったからです。
しかし苦手だからといってそこから外れることを許されない人もいます。
わたしはたまたまそれが許される環境にいただけです。
意識的にそこから逃れて、後は身勝手と怠惰の繰り返し。
システムからのドロップアウト、などと決して言えないカッコ悪さです。
独身者である友人、知人には、わたしと同じ考え方を持っている人が多いような気がします。
(その考えのために結婚しないと言うわけではないと思いますが。)
類は友をよぶ、と言ってしまえばそれまでですが。
適齢期を過ぎた独身者の増加と家庭の崩壊はどこか共通点があります。
家庭は基本的には血縁から成立しています。
夫婦という他人同士の結婚後の共通体験が基礎になっています。
子供と親の関係は血縁ですが、それを血縁と思わせているものは共通体験ではないか思います、わたしは。
家という大きな運命共同体が壊れて、核家族になった時の家庭の中身はそうであると思います。
血縁は幻想であり、幻想であるからこそマイナスに力が働いた場合最も始末が悪いことになります。
家庭における(食事を始めとする)共通体験は徐々に少なくなって来ています。
要因は主に外にあります。
わたしはメディアと個室が大きな要因と考えていますが、多くの要因が複雑に絡んで家庭における共通体験を少なくしたと思っています。
家庭の崩壊とは内側からの崩壊です。
共通体験が少なくなった家庭は、同居人の集まりです。
極論してしまえば、です。
独身者が独身者でいる理由は千差万別です。
既婚者の結婚した理由が千差万別なのと同じです。
独身者が増えているという数の問題は、時代の意識と関係があります。
独身者の意識、無意識の中に現在の家庭の在り方に忌避があるのではないでしょうか。
もしそうだとしたら、それは壊れたシステムに代わるシステムを探し求めている過程かもしれません。
壊れたものは元には還りません。
もしもしそうだとしたら、代わるシステムの土台は「自分ことは自分でする」かもしれません。
一見簡単なようで、その実難しい「自分ことは自分でする」。
そこからスタートするのかもしれません。
そして、結びつきもそこから始まるでしょう。
<第二十三回終わり>
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