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iの研究


第十八回 <薬物>の研究


薬物とは厄介なモノである。
人間の歴史を振り返ってみると、そこには
薬物が影が少なからず見える。
しかし考えてみれば
薬物とは単に物質のことであって、厄介なのは人間の方かもしれない。
よく、
薬物は人間を現実逃避させると言う。
だとしたら、人間はそれ程現実が嫌いなのだろうか。
人間には、現実から逃れたいという欲求が強いのだろうか。


薬物とはドラッグの事です。
麻薬とも言います。
麻薬の麻は、大麻の麻(ま)という説と、麻酔の麻(ま)という説があります。
いずれにしても、魔薬ではありません。
「麻」と「魔」の違い、これは重要です。
麻薬は魔薬ではないのです。

ある時、桜田門の警視庁に用事があり中に入りました。
そこで「
薬物乱用取締本部」の大きな看板を見ました。
木の板に毛筆で書いてあるやつです。
映画やテレビでよく見ますね。
さて、「乱用」です。
薬物は「乱用」してはいけないのです。
「乱用」しなければ良いのですね。

これは言葉の揚げ足取りをしているのではありません。
薬物には有用性があります。
ヘロインはモルヒネですから、麻酔薬として立派に役に立っています。
麻を使った繊維製品は日用品としてお馴染です。
向精神薬は多くの精神疾患の治療薬として処方されています。
「乱用」とはそういった用から外れた用途に使ってはイケナイという事です。

「乱用」して依存症になるのがアブナイから取り締まっているワケです。
(別にこっちから頼んだワケでもないのですが。)
依存は精神的依存と肉体的依存に分けられます。
基本的には精神的依存がまずあって、服用するうちに肉体的依存になります。
精神的依存とは、現実との折り合いが上手くいっていないところから発生します。
興味本位で試して深みに嵌まるというケースもあるでしょうが、少数でしょう。
ただし、
薬物によっては肉体的依存がないものも結構あります。
大麻(マリワナ)にはそれがありません。
止めようと思えば直ぐ止められます。
(精神的依存は別ですが。)
このへんは
薬物の知識に偏見があるところです。
危険なモノほど正確な知識をもって取り扱う、これは基本ではないでしょうか。

薬物が合法であるか非合法であるかは、「国家」の恣意に任されています。
ある時期には合法で、ある時期には非合法。
ある国では合法で、ある国では非合法。
具体的に言いますと、戦時中は戦意高揚を計るため覚醒剤を始めとする
薬物が兵士に大量に配布されています。
ベトナム戦争でのアメリカが有名ですが、第二次世界大戦の日本でもそうでした。
強制ですから、合法どころの話ではないですね。



アルコールも
薬物です。
アメリカで禁酒法がありましたね。
つまりは、国民の身体を心配して非合法にしているだけではないのです。
国家の都合で合法になったり、非合法になったりしている側面がかなり強いといえます。

戦前の日本では覚醒剤も大麻も合法でした。
大麻はGHQのGI対策で非合法になったようです。
覚醒剤は戦後も「ヒロポン」等の商品名で薬局で売られていました。
オランダでは大麻は合法です。
これは想像ですが、嘗(かつ)ての日本ではおおらかに大麻をやっていたのではないかと思われます。
大麻は繊維製品として大量に栽培されていたでしょうし、大麻草は生命力の強い草ですからそこら中に生えていたと思われますから。

宗教というものも
薬物と関係が深いと思います。
(ま、今はそういった事もないでしょうが、お咎めがなかった時代では。)
多くの宗教は現実を相手にしています。
現実とどうつきあったら良いか。
辛くて苦しいばかりの現実とのつきあい方をサジェストするのが宗教です。

わたしは、「恋の研究」で宗教がトランス状態を作って自我を揺さぶると書きました。
その時、多くは
薬物を利用します。
現実と対峙している自我に揺さぶりをかけて、現実の見え方を変化させます。
薬物の知覚に作用する力を利用するわけです。
(オウム心理教がLSDを研究していた意味はそこにあります。)
マルクスの本意とは違った意味で、宗教は確かにアヘンでもあります。

宗教とはある意味で人間の知恵です。
現実とのつきあい方に幅を持たせてくれる場合もありますから。
宗教が良いとか悪いとかではなくて、それがあると生きやすくなると言う意味です。
それは統一された世界観ですから、その中に入ったほうがとりあえず楽なのです。
人が生きるということは大変なことだと思います。
それを緩和させる為に宗教があります。
(そこにつけ込んだオウムや法の華のような悪徳な宗教もあります。)

又、厳しい労働をいたわるツールとして薬物は長い間人間の役に立ってきました。
コカインはコカの葉から採取されます。
コカの葉はインディオにとって労働の厳しさを和らげてくれる必要不可欠なものでした。
東南アジアにおけるアヘンもそうでした。
アルコールが日々の労働を癒していのは御存知ですね。

しかしながら、
薬物にはそれをコントロールする技術が必要になります。
一歩間違うと逆効果になる側面を薬物は持っています。
薬物に人間が飲み込まれる、そう、依存症です。
コントロールする技術とは、つまり「文化」です。
これについては後述します。



話を1960年代に持っていきます。
御存知の通り、アメリカを中心にドラッグ文化といわれたモノが花開いた時代です。
大々的に
薬物が使用され、称賛された時代です。
薬物が反体制、カウンターカルチャーのシンボルとされました。

これには下地があって、先行するビートニクス世代のギンズバーグ、バロウズの役割が大きかったと思います。
しかし、ビートはインテリ層に基盤がありましたからポピュラーな拡がりを持っていませんでした。
ドラッグ文化を先導したヒッピーはそれよりもずっと層が厚く、なによりもポピュラーミュージックであるロックを自分たちのライフスタイルとしていました。
「セックス、ドラッグ、ロックンロール」です。
又ベビーブーマーがその中心でしたから、単純に考えてもその人口は多いわけです。

「ラスベガスをやっつけろ!」という映画があります。
監督は、近未来映画の傑作「未来世紀ブラジル」を撮ったテリー・ギリアムです。
最初から最後までラリリぱっなしの映画です。
主人公のジャーナリストと弁護士のコンビが、ありとあらゆる
薬物をカバンに詰め込んでラスベガスに行く話です。
ギリアムはモンティーパイソンの出身ですから、風刺が信条です。
ここで風刺しているのは、1971年のアメリカの現実とヒッピーのドラッグ文化です。

1971年というのは、ベトナム戦争が泥沼化していた時代です。
この当時のアメリカの若者にとって、その現実は堪え難いものでした。
無意味な戦争に否応なく狩り出されていたわけですから。
その現実にロックとドラッグで「NO!」と言った訳です。

薬物(ドラッグ)を使って現実を覚醒させる、そういった思想が背後にありました。
この当時のドラッグの代表的なものは大麻、 LSDです。
ビートの時代はメスカリン、ヘロインが主流です。
80年代になるとコカインがメインになります。
薬物にも時代を反映したトレンドがあるんですね。
これは、ちょっと面白い。

さて、そういった思想とはどういった思想だったんでしょうか。
カルロス・カスタネダという文化人類学者が書いた「呪術師と私」という本があります。
これは著者がヤキ・インディアンの呪術師(ドンファン)に弟子入りして、その体験を著したものです。
この本は硬い内容にもかかわらずベストセラーになり、続編が何冊も出て、アメリカだけで総計800万部売れたそうです。
言わばヒッピーの教科書ともいえる本です。

ネイティブの世界観が薬物を利用して鮮明に描かれた内容は、多くの若者にショックを与えました。
悪夢のような現実の背後に真の現実があった、読んだ若者はそう思ったわけです。
わたしも当時読みましたが、結構夢中になりました。
その前近代的世界観は新鮮でした。
カスタネダの思想は宗教的といえば宗教的です。
呪術師の話ですから、当たり前といえば当たり前ですが。
この本は、カスタネダの胡散臭さ(ドンファンシリーズが実はフィクションであったという疑義)と、時代が精神世界を必要としなくなった為に徐々に忘れられた存在になっていきます。
時代が消費社会、情報社会になるとコカインがそれにとって代わります。
(勝新の大麻から角川春樹のコカインへと。)

60年代のドラッグ文化が何故急速に終焉に向かったのでしょうか。
わたしは、薬物をコントロールする技術=「文化」が欠如していたからではないかと思います。
あちら側に行ったきり戻ってこれなくなった若者が続出して、急速に熱が冷めていきます。
ベトナム戦争が終結して、記号を消費する現実の快楽がそれに追い討ちをかけます。
ヤッピーですね。

「ラスベガスをやっつけろ!」は、そういったドラッグ文化の底の浅さを、脈略のないトリップの連続で風刺して見せます。
悪夢のような現実と、悪夢のようなトリップの間で辛うじて主人公は理性を保ちます。
ジョニー・デップの怪演が見物ですが、ノリそこねると訳の分らないサイケデリック映画でもあります。
そうなると観客にとっても悪夢となってしまう映画ですが。



ヒッピーからヤッピーへ、これは退歩でしょうね。
わたしは、そう思います。
欧米が前近代と呼んでいた第三世界の「文化」の厚さに恐れをなして逃げ戻った。
そんな印象を受けます。
「文化」というものに優劣はない。
これはその通りです。
欧米も立派な「文化」を持っていますが、第三世界も立派な「文化」を持っています。
これが、欧米人には理解できない。
自分のところだけ立派だと思っている。

薬物をコントロールする技術は「文化」です。
この「文化」が欧米には決定的に欠けていると思います。
多分嘗(かつ)てはあったのでしょうが、近代的理性がそれを根絶やしにしてしまった。
アメリカを見ていると、競争社会の脱落者や不適合者及び最初から競走に加われなかったマイノリティに深刻な麻薬渦があるように思えます。
これは「文化」の欠落ではないでしょうか。

「文化」とは共同体の共有物です。
人は一人では生きられない生物ですから、どんな形であれ共同体を必要とします。
そして、長い年月をかけてそこに「文化」というものを形成します。
「文化」を別の言葉で言えば、「知恵」です。
人にとって現実とは過酷なものです。
わたしは、そう思います。
何時の時代でも、どんな場所でもそうです。
その現実に多様性を認識させてくれるツールが薬物ではないかと思います。
が、薬物はやはり危険なものです。
扱いには技術がいります。
それが「文化」ではないかと、わたしは思うのですが。

60年代のドラッグ文化はその技術がなかった。
「文化」でありながら「文化」になりえなかった。
借りてきた思想ではそれを育てることが出来なかった。
あの時代の面白さを認めた上で、わたしはそう思います。

パーソナルコンピューターはアメリカの西海岸で発達しました。
カルフォルニアがその中心です。
ここはかってのヒッピーの発祥地でもあります。
これは偶然ではないようです。
初期のコンピューター技術者にはヒッピーの洗礼を受けた人が少なからずいます。
あの挫折した「文化」が細々と生きているような気がします。
それが、本当の「文化」として育つかどうかは誰にも判りません。
コンピューターも言ってみれば危険なツールです。
果たしてリテラシーではない、本当の技術を獲得出来るのでしょうか?
それには長い年月が必要でしょうね。
「文化」になるには。



薬物はもしかしたら必要悪かもしれません。
悪でも人間にとって必要なもの。
「文化」もそういった側面があるのではないでしょうか。
如何でしょうか?

<第十八回終わり>




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