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iの研究


第十四回 <デザイン>の研究


Macのデスクトップモデルが一新されました。
新しいiMacのカラーは深みがあってとても綺麗な色です。
Indigo,Ruby,Sage,Graphite,snow、どれもシックで大人の色です。
ネーミングも良いですね。
全く新しいモデルとしてG4Cubeが出ました。
これとStudio Display15インチフラットパネルの組み合わせはオシャレです。
おそらくパソコン史上最高にオシャレな組み合わせではないでしょうか。
わたしは現状のiMacで満足してますので買いませんが、CPU1ギガMhzのパソコンよりこっちの方に魅かれます。

アップルは問題もある会社ですが、
<デザイン>は優れています。
わたしの住居(山梨)の近所にMac専門店があります。
その隣に同じ経営のWindows搭載機(AT互換機)専門のPC店もあります。
紙やインクを買うのはそちらのPC店にいきます。
理不尽な事にMac専門店ではポイントが付かないからです。
ホントに理不尽です。
PC館でWindows機を見ていると、どうして
<デザイン>が良くないのだろうと常々思ってしまいます。
Windows機というのは、OSはWindows、CPUはPentiumかAMD,いってみれば箱の
<デザイン>だけしか違いません。
メーカーは部品を買ってきて組み立てているだけ、みたいなものです。
だとしたら、どうして
<デザイン>で差別化しないのだろう。
わたしは疑問でした。
皆さんもそう思いません?

さすがソニーはそこに気がついてVAIOを出してきました。
でもですね、わたしは良いと思わないです。
ノートはまだマシですが、デスクトップは普通以下です。
わたしは今までソニーの
<デザイン>で本当に優れたモノに出会ってません。
<デザイン>力の無い会社ではないかと思ってます。
わたしは
<デザイン>が好きですが、<デザイン>そのものについて考察した事はありませんでした。
MacとWindows機の
<デザイン>の違いをキッカケに研究してみたいと思います。



普通
<デザイン>というと意匠を意味します。
モノ(道具)の形態や生産工程を考えるわけです。
しかし最近では「人生のデザイン」とか、「生活のデザイン」といった使い方もされています。
モノから離れた、広い意味での設計ですね。

今私たちが考えている
<デザイン>は、近代の思想と切り離せない部分を持っています。
近代
<デザイン>とは、
モノのデザインを通して、新しい生活様式や環境を構築し、社会は変革可能である」(柏木博著「消費生活/デザイン」)、と言えると思います。
近代デザインの理念です。
又、
<デザイン>はモノの機能と人間とのインターフェイスとも言えます。
優れた近代
<デザイン>は、その機能に上記のような提案が含まれています。
提案とはビジョンの事ですね。

これが80年代以降のいわゆるポストモダンの時代になると、ビジョンよりも「差異」=「新しさ」の創出に
<デザイン>の目的が変わります。
何故かというと、資本主義はモノの消費によって回転します。
モノが行き渡って買うものが無くなると不況、恐慌がおきます。
それを回避する為にモード(記号)というものが考えられました。
社会学ではこれを説明するのに衣服の例(たとえ)を出します。
衣服は防寒をはじめとする機能を持っていますが、人が衣服を購入する場合は流行をも考慮します。
つまり、衣服は足りているが今年の流行には合わない、恥ずかしくて着れない。
そこで流行にあったモノ(衣服)=モード(記号)を購入する。
モードは情報でもあります。
そうなれば永遠にモノの消費は続くわけです、理屈ではね。
iMacのカラーチェンジはこれに相当します。
「新しさ」の創出です。
このへんがS・ジョブス(アップルのCEO)の商売人たる所以です。

さて、話を近代
<デザイン>に戻します。
ビジョンをモノを通して伝える。
これはコミュニケーションとも言えますね。



Macの<デザイン>が優れていて、Windows機の<デザイン>が駄目なのは何故か?
わたしは、OS(オペレーティング・システム)に注目してみました。
OSは基本ソフトです。
これによってパソコンの性格がほとんど決まります。
MacOSは遡っていくとアラン・ケイというコンピュータ学者にぶつかります。
パーソナルコンピューターの概念は彼によって初めて明確にされました。

彼は「ダイナブック」構想によりパソコンの理想像を示しました。
同時にXerox社のパロアルト研究所でAltoを開発しました。
AltoはウィンドウシステムとマウスによるGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)を採用しています。
今日のパソコンの源流といえる技術です。
理屈ではなく直感で操作出来るようにした、初心者でもパソコンに親しみを持てるよう考えられたインターフェイスです。

彼の「ダイナブック」構想を論文より引用してみます。

「コンピュータは、他のいかなるメディアー物理的には存在しえないメディアですら、ダイナミックにシュミレートできるメディアなのである。
さまざまな道具として振る舞う事が出来るが、コンピュータそれ自体は道具ではない。
コンピュータは最初のメタメディアであり、したがって、かつて見た事もない、そしていまだほとんど研究されていない、表現と描写の自由を持っている。
それ以上に重要なのは、これは楽しいものであり、したがって、本質的にやるだけの価値があるものだということだ」

又、こういう発言もあります。

パソコンとは個人のメディアであり、道具ではない。
パソコンとは「コミュニケーション・アンプリファイア(増幅器)」、かつ「ファンタジー・アンプリファイア」である


わたしにも100%理解出来てるわけではありませんが、何となく彼の言わんとしている事がお解りでしょうか。
要約すると、「パソコンはコミュニケーションのメディアであり、表現のメディアである。」になると思います。
「メディア」を解りやすく例えれば、楽器が近いと思います。
それを使って感情をアンプリファイアし聴くものとコミュニケートする。
テレビ、ラジオ、レコードなんかも「メディア」です。
コンピュータはそれらのメディアや存在しないメディアすらもシュミレートでき、しかも楽しい。
そして、ソフトウェアとハードウェアは渾然一体となったもので、別々に設計する事は彼のアイディアからすると不可能でした。
ソフトウェアの重要性を特に強調しています。

パロアルト研究所のAltoの見学者の一人にS・ジョブズがいました。
彼はAltoに啓示を受けて、もう一人の創業者S・ウォズニアックと共に「Lisa」や「Macintosh」を開発します。
アラン・ケイとアップルの二人の出会いがパーソナルコンピュータを生んだ、と言っていいと思います。



MacOSは初代のMacに搭載されてから今日のOS9まで、基本的なスタイルは変わっていません。
今や古めかしいとも言えます。
しかし、そこにはアラン・ケイのビジョンが生きています。
Macを繰るときの独特の親和性はそのビジョンから来ていると思います。
ソフトウェアは目に見えるモノではありませんが、デザインされるモノです。
そのソフトウェアがどういうビジョンを持っていて、それをどういう形式で人間とコミュニケートさせたらいいか。
それが
<デザイン>だと思います。
MacOSは度重なるバージョンアップで、却って使い難くなったり複雑になったりもしていますが、その
<デザイン>ゆえに今だに魅力的です。

WindowsもGUIを採用したOSです。
わたしはWindows機には詳しくありません。
もっぱら書物での知識しか持っていませんが、触ってみたWindowsの
<デザイン>はかなり事務的なものでした。
もちろん、その方が良い、という意見もあります。
OSの機能としてMacを凌いでいる部分も少なくはありません。
又、ソフト数や対応状況等、現状の環境では圧倒的に有利です。
市場での勝負は既に決しています。
しかし、何となく馴染めません。
多分それはOSを始とする
<デザイン>の所為だと思います。

Windowsにはビジョンといったものは持っていないように思われます。
事務機に徹して、敢えてそういった
<デザイン>を排しているOSと言えます。
Macの合理とは全く違った合理をもっています。
そこを美点として支持する事は、間違っているとは思いません。
ある意味では趣味趣向の問題ですから。
わたしは近代
<デザイン>の理念を良しとする人間ですから、当然Macの方を好みます。
Windowsを嫌っているわけでもありませんし、事務機として必要性を感じて購入するかもしれませんし、操作したい欲求もあります。
ただその
<デザイン>の無さにガッカリしているだけです。

Windows機を作っているハードメーカーは、Windowsを買ってきて自分のところで箱を作ります。
考えてみれば、これを
<デザイン>するのは結構難しいかもしれません。
デザイナーの能力の問題ではなくモチベーションの問題です。
ユーザーに伝えるコアが無くて、しかもOSのプログラマーとは全く別箇に作業しなければならないからです。
技術者の考え方が伝わる経路がないからです。
又、それが便利であるというだけではコアになりえません。
結局はスペック競争、多機能競争に巻き込まれてデザインが後回しになってしまいます。
FAX付き電話や携帯電話のデザインを思い浮かべていただければお分かりになるかと思います。

Macはハードとソフトを一緒に作っている唯一のメーカーです。
アラン・ケイのアイディアに忠実なのかどうか判りませんが、
<デザイン>をする環境としては恵まれています。
各セクションが有機的に繋がりながら、それをビジュアル化できるわけですから。
そして、S・ジョブズ復帰以降はそれを強化しています。
勢いあまって使い難いキーボードやマウスを作ったりもしました。
(今回のモデルチェンジで改められたようですが。)
<デザイン>優先の弊害です。


iMac以降もMac OSの考え方はハードの<デザイン>に反映されているとわたしは思います。
あのデザインはMacOSと切り離せないものだと思っています。
ハードがiMacで、OSがWindowsというのはちょっと想像できません。
ただし、アップルのやり方には納得できない部分が多々あります。
ユーザーの支持でここまで来た会社にもかかわらず、ユーザーに比較的冷たい会社です。
雑誌の付録のCD-ROMにソフトを載せない、インターフェイスの規格を勝手に変える等々、傲慢さを感じることもあります。
アップルも一民間企業ですからそこにヘンな幻想をもつことはナンセンスですが、改善して欲しい事も事実です。

Macはかつては高価でした。
その育ちの良さから、Macは理想を掲げた授業料の高い私立の高校を連想させます。
結局は金持ちしか行けない高校です。
Windows機は公立の高校を連想させます。
いろんな階層が混じって下世話で猥雑。
わたしは環境としては後者が好みです。
正直に言えば、そこはわたしの自己矛盾かもれませんが。
もうちょっとMacも下世話な環境をもって、風通しを良くする必要があると思います。
せっかく授業料も安くなったのですから、その方がMacの為ではないでしょうか。

来年、MacOSはMacOSィ(テン)に変わります。
インターフェイスも大幅に変わるようです。
果たしてアラン・ケイのビジョンを発展させるものになるのでしょうか。
それとも、それに別れを告げて別の道を進むのか。
興味がつきません。
既に明らかにされているインターフェイスのグラフィカル デザインはAQUA(水)と呼ばれています。
アップルのホームページにその
<デザイン>が使われています。
わたしは好きですね。
冒頭に書いたG4CubeとディスプレイはAQUAのモチーフだと思います。
iMacのスケルトン(アップルはトランスルーセントと呼ぶ)も既にAQUAを意識したものかもしれません。
もしくは逆にハードの
<デザイン>がOSの<デザイン>に影響を与えたのかもしれません。

ここまで書いてきて気がついたのですが、わたしは<デザイン>と言う言葉をいろんな意味で使っています。
広義には思想、設計、狭義には形態のディテール、そしてその中間の意味でも。
今、
<デザイン>と言う言葉を定義するのは難しいのかもしれません。
それはその言葉が生き生きとして現代に生きているからです。
20世紀から21世紀の橋渡しをする言葉の一つは
<デザイン>かもしれません。
<デザイン>という言葉の幅広さを考えることが、今を考えることと同義になっているのです。

さて、わたしが興味を持っている事がもう一つあります。
それはLinuxです。
このOSほどビジョンを持ったOSはありません。
究極の近代的理念か、あるいは近代を超えた理念を持っているのかもしれません。
まだコンシューマ使用には難しいところがあるようですが、その
<デザイン>には興味を魅かれます。
すでに幾つかのハードメーカーがOSとして搭載を決めたようですが、ハードのデザインはWindows機の流用です。
魅力的でしかもLinuxのビジョンを体現したハードが現れたら、Macの強敵になるでしょう。
それは、楽しみなことでもあります。

<第十四回終わり>




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