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iの研究


第十二回 <同性愛>の研究(2)


さて、Xの「性」とYの「性」が同性であることに異存のある方はいらっしゃるでしょうか?
もし、生殖を問題にするとしたらハズレです。
そもそも人間の「性」は生殖からは疎外された性です。
現実に人間の「性」が生殖に使われるのは稀です。
多くは快楽とコミュニケーションに使われています。
子供を作らない夫婦もいるし、作れない夫婦もいる、シングルを選んで生活している人も多くいます。
多様な「性」の結びつきを認めたうえで、「種」としての人間を考えればいくらでも生殖に対する解決策はあると思います。
ちょっと考えただけでも、人工授精、養子といった方法がありますから。

X+Y=LOVEのXとYの「性」が何であろうと問題はない。
それは考えてみれば当たり前のことだと思います。
当たり前が当たり前でない世の中の方が間違っている、そうですね?
もし、男と男(女と女)が寝ているのが気持ち悪いと思ったら、それは貴方の想像力に貴方が気持ち悪いと思っているだけなのです。
言ってみれば想像力の貧困を露呈しているだけの話です。
もし貴方が男で、女同士の性愛のみに甘美な姿を想像したなら同じことです。
貴方の中の男の勝手な想像力にしかすぎません。

ここで、もうちょっと「性」について突っ込んだ考察をしてみます。
人間は本能的な「性」のエネルギーを持っています。
その向かう対象は同性であったり、異性であったり、両方だったりします。
一方、自分自身の「性」の表現もいろいろです。
自分の「性」を、自分自身と他者にどう表現するかといった事です。
「性」には大別すると男的記号と女的記号があります。
化粧、服装、髭、胸の膨らみ、言葉遣い、しぐさ等々。
男的な記号と女的な記号の間で自分の居場所を決めます。
自分がそうありたいと思ったり、それが居心地が良かったりとかで決定されます。
そして、「性」の向かうエネルギーの対象と、「性」の表現は必ずしも一致するわけではありません。
女装した男が必ずしも同性愛者とは限らないのです。
女装を趣味とする人の多くは異性愛者です。

自分の表現する「性」は多分に社会的な役割としての「性」です。
「男は男らしく、女は女らしく」は社会の要請です。
そこを基点として、受諾や逸脱をしながら表現されます。
貴方の「性」の表現はどのへんにあるでしょうか?
わたしは概ね受諾していますが、細かいところで逸脱しています。
そこがわたしにとって居心地の良いところでもあり、表現としても面白いかなと自分では勝手に思っています。

ペドロ・アルモドバル監督の映画「オール アバウト マイ マザー」の主人公は母子家庭の母です。
彼女の元夫は女装した男です。
性器は男だが社会的外見は女。
事故死する主人公の子供は、二人の子供。
わたしはこの男の「性」の方向性が良く解らなかったのですが、「性」のエネルギーの方向が異性及び同性で、表現が「女」と考えると納得がいきました。
美川憲一の表現には「女」の要素が多いのですが、彼が同性愛なのか異性愛なのかはたまた両方なのかはわたしには判りません。
どの可能性もあるからです。




「性」の向かう対象はどのようにして決定されるか?
異性愛、同性愛はどのようにして決定されるかということです。
これはまだ解っていません。
わたしは、ある時期までの環境によって刷り込み、学習によって決まるのではないかと思っています。
時々新聞に遺伝を始めとする先天的要素(胎内時の影響を含む)が同性愛の原因とみる記事が出ますが、これはかなり誤解を生むと思います。
無意識に異性愛を優性、同性愛を劣性と考えているフシがあるからです。
原因が特定できれば同性愛を防げるといったニュアンスがそこにはあります。
そういう研究はやらないほうがマシです。
百害あって一利なし。
そんなことより人間の「性」がグラデーション状態で、実に多様であることを認めるが先決ではないでしょうか。

ところで、同性愛者、例えば男と男が一緒に生活するのは大変かもしれません。
世の中は、その関係性でモノゴトを判断します。
その男と男は、親子なのか兄弟なのか?
判断の範疇に同性愛は入っていません、今の世の中は。
関係性が判然としない、容認されていない男の同居は奇異の目で見られます。
もちろん、当人同士は関係性が判然としているのですが、世の中はそれを認めません。
そして長い二人の生活が続いて一方が死亡した時、遺産はどうなるのでしょう?
遺言でもなければ、残された男は赤の他人です。
財産を相続できないのです。
これが異性愛であれば、結婚していなくても内縁関係ということで法律的な保護を受けられます。
理不尽ですね、実に。

一般的に男と男の同居は長続きしないそうです。
制度の縛りがないからです。
一緒にいる意味がなくなったら簡単に解消できるからです。
これが良いことなのか悪いことなのかは一概には判断できません。
又、現状の結婚制度が良いのか悪いのかも一概には判断できません。
しかしその制度がある恩恵を持っている以上、それを選択する権利は全ての人に与えるべきだとは思います。
同性愛者を排除する理由がないからです。

前述した「オール アバウト マイ マザー」を観た後、わたしは主人公の親友である同性愛者の精神の自由さが心に残りました。
何故彼女(彼)はあんなに自由なのか?
何故どんづまりの境遇にいてあんなに明るいのか?
主人公は父を知らない自分の子供に、父親の写真をけっして見せませんでした。
二人で写っている写真はどれも半分に引きちぎられていました。
女装した父親を見せたくなかったのです。
そんな主人公が親友の彼女(彼)によって変わっていきます。
多分、彼女(彼)は知っているのですね、人が生きることの意味を。



最後にゲイカルチャーについてちょっと書いてみます。
ハウスミュージックがシカゴのゲイのクラブから発生したのは有名な話です。
同性愛者独自の文化、ゲイカルチャーの一端です。
芸術、文化とよばれる分野には同性愛者が多いのも良く知られています。

わたしは、ゲイ独自のひねった表現が好きです。
あるゲイバーで、夜店で売っているガラクタ同然の点灯する金魚のオモチャが素敵な輝きを放っているのを見たことがあります。
価値の転換とでも言えるのでしょうか、思わぬところに思わぬモノを置いて遊ぶ心。
大量生産されてすぐに捨てられてしまうような安物が、生き生きと自分を主張しています。
これは粋(いき)だなと思いました。

こういったセンスは同性愛者である写真作家のGさんから多くを学びました。
Gさんはタダモノならぬセンスの持ち主です。
古典的な正統派のセンスとキッチュなセンスの両方を持ちあわせている希有な人です。
Gさんの部屋に遊びに行くと、そこは正統とキッチュが混在した遊園地です。
Gさんが熱帯魚に凝っていた時期があり、それを見せてもらいに行ったことがあります。
六畳ほどの部屋の二方が水槽で埋まっていました。
五つぐらいあった水槽にはいろんな魚と水草がアレンジされていて、見ていると飽きることを憶えません。
全体と細部が巧妙にアレンジされていて小宇宙のようでした。
上品さと下品さのバランスも絶妙。
そこには、Gさん独自のひねりがありました。
(これをゲイカルチャーと言ってしまうのは語弊があるかもしれませんが、少なくとも異性愛者には出来ない表現だと思います。)

「ピエール&ジル」、「ギルバート&ジョージ」。
「ピエール&ジル」はデザインの世界で活躍するユニットです。
「アンテナ」というベルギーのグループのアルバムジャケットで彼らの仕事を知りました。
ステレオタイプでチープなイメージを逆手にとってディープな世界を構築する名手です。
スウォッチもデザインしています。
海上の岩でセーラー(水兵)と人魚が愛をかたってる姿が文字盤に描かれています。

「ギルバート&ジョージ」は現代美術界では既に巨匠です。
多くの作品がありますが、わたしはポストカードを使った「WORLDS AND WINDOWS」が好きです。
この作品は観光絵葉書やスターのポートレイト絵葉書数種を、縦横15枚づつ(総計225枚)並べた作品シリーズです。
作品によって枚数の増減が多少あります。
キッチュな絵葉書が、シンメトリーに計算されて並べられています。
それを全体で見ると荘厳な曼荼羅に見えます。
1枚1枚の絵葉書もはっきり見えますので、見る者はそのチープさと荘厳さの入り交じった世界を体験することになります。
スターの絵葉書は東西の映画スター(男優)を使っていますが、唯一女性ではサッチャー元英首相が起用されています。
笑えますね。



「性」について考え始めるとその奥深さに翻弄され、自分でも収拾がつかなくなってしまいます。
同性愛者は異性愛者にとっては良き隣人のはずなのですが、きちんと理解することは大変です。
自分の頭を軟らかくすることから始めなければならないからです。
わたしの頭は硬い方ですから。
この研究では女性の同性愛=レズビアンには知識がないので触れていません。
当然、男性の同性愛とは違った側面があるはずです。
インターセックス(半陰陽)についての知識もありません。
又、ゲイという言葉は同性愛の総称として使われる場合もあるようですが、便宜的にここでは男性の同性愛として使用しました。

「性」は複雑でやっかいなものですが、どんな「性」であろうと関係の基本はX+Y=LOVEではないでしょうか?
ちあきなおみの魅力を教えてくれたYさんが久し振りに遊びに来ました。
相談事があるようです。
話を聞いてみると、彼と旦那(?)の老後の心配でした。
Yさんは自分一人が苦労していると言ってましたが、そう言ってる顔はどこか幸せそうでした。

<第十二回終わり>

 




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