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iの研究


第十一回 <同性愛>の研究(1)


ちあきなおみの六枚組CDが発売されました。
異例の売行きで、一部ではちょっとした話題になっているようです。
全118曲、まだじっくり全部を聴いてませんが今のところは「X+Y=LOVE」が気に入ってます。
他愛ない歌詞ですが、結構本質をついているような気がします。
(ちあきなおみをご存じない方へ。ネスカフェのCFのバックに流れる「黄昏のビギン」を歌っているのがちあきなおみです。)

ちあきなおみの魅力を教えてくれたのは友人のYさんです。
たしか「夜へ急ぐ人」が流行っていた頃です。
フォークの友川かずき作詞作曲で「おいで おいで」のパフォーマンスが話題になりました。
ちあきなおみを聴いてるとあの頃を思い出し、Yさんを思い出します。
Yさんは車でふらりと私どものアパートに来ては、テレビを見ながらいろんな話をしたものでした。
当時、Yさんは独身でした。
Yさんは新宿二丁目のゲイバーにも連れてってくれました。
Yさんは同性愛者でした。
その事で当時は悩んでいたようでもありました。
その後Yさんは恋人と一緒に生活を始め現在に至っています。

Xの
「性」とYの「性」は、男であろうと女であろうと構わないのではないでしょうか。
男+男=LOVE 男+女=LOVE 女+女=LOVE。
(男と女の間の
「性」であるインターセックス=半陰陽が、XあるいはYの場合もあるかもしれません。)




雑誌を読んでいたらこんな話が載っていました。
「ゲイにとって新幹線の開通は画期的であった。」
えっ、どういう事?
わたしはその結びつきが解りませんでした。
答えは、新幹線の開通によって日曜夜に新宿二丁目で遊んでも月曜の始発で帰れば仕事に間に合う。
この話の話し手は関西の方です。
つまりこういう事です。
日本の中でゲイの解放区は新宿二丁目です。
そこに行けば、自分をありのままの自分として振る舞える。
週末そこに行って自分を解放した時、帰りの時間を気にしなくてもいい。
シンデレラが12時を恐れることがなくなった、と言えば解りやすいでしょうか。
一番楽しい時間に帰らなければならないのは誰だってツライですよね。

そういう事だったのかと合点がいったのですが、引っかかったのはありのままでは存在できないゲイの日常生活です。
裏返しに見ると、新宿二丁目の存在がある意味を持ち始めます。
ゲイバーは日本各地にあると思いますが、新宿二丁目のように区(ブロック)としてある例はないでしょう。
お店を出て通りに佇んでいてもありのままの自分でいることが出来るし、ゲイのためのいろんなショップもあるし、情報交換の場でもあります。
規模としては非常に小さいものですが、そこは街であり解放区でもあるのです。
同好の士が集まる場所といった意味を超えて精神的なシンボルになっているのではないかと思います。
世界中でも新宿二丁目のような場所は例がないと聞きます。

Yさんに連れて行ってもらった最初のバーは美男を揃えたオシャレなバーでした。
次の店は、気取りがないざっくばらんなバーでした。
こちらの方が好みだったんでその後何回か遊びに行きました。
客を飽きさせない会話の妙、意表をついたインテリア、選曲が面白いジュークボックス等々。
お上りさん状態の客でしたね、わたしどもは。
ジュークボックスでかかっていた箱崎晋一郎(この字だったか自信がない)の「熱海の夜」、「夜の銀狐」はディープで濃い曲でした。
その曲はお店にぴったりでした。
あんなに濃い曲は、それ以前もその後も聞いていません。
随分昔のことですが妙に良く憶えています。
わたしにとって、ある意味ではカルチャーショックだったと思います。



ありのままの自分を隠すとはどういう事でしょうか?
自分が同性を好きだということを隠さねばならない事です。
つまりそれを顕(あらわ)にすると好奇の目にさらされ、非常に不利な立場に立たされます。
実際のところ、異性愛者であるわたしにはそれらの悩みを実感するのは難しいと思います。
常識以前のところで異性愛者は自分の「性」を無条件に肯定し、しかしながらその「性」を持て余しているので同性愛者の事が眼中になく、同性愛の知識も皆無です。
同性愛に対する正確なインフォメーションが全く与えれず、それを変態化する俗説的な知識しかもっていません。
そんな環境の中でありのままの自分をさらけだすのは相当な勇気を必要とするでしょう。
そのくらいは想像できます。
しかもその悩みを相談する相手がなかなか見つからないのも問題です。
事が「性」だけに家族にも打ち明けにくいと思います。
結局自己を否定して、悩みを抱えたまま生活を続ける事になります。
(このへんはわたしも在日韓国人として良く解る気がします。)
そんな多くの同性愛者にとって新宿二丁目がどういう意味を持つか、想像してみて下さい。
そこに行けば自分を否定する必要もないし、悩みも打ち明けられます。
雑誌の話を読んで、わたしの持っていた単純な新宿二丁目のイメージが大分変わりました。

「ハッテンバ」という言葉があります。
漢字で書くと「発展場」になるでしょうか。
関係が発展する場所、といった意味です。
わたしが「西瓜糖」(CAFE&GALLERY)をやっていた時、常連だったHさんから聞いた言葉です。
Hさんはモデルと見まがう美男の同性愛者でした。
「ハッテンバ」とは同性愛者が出会うための場所です。
わたしが学生を卒業した頃、新宿西口の小さな映画館に行った時のことです。
席は終始3分の1程しか埋まっていませんでした。
映画を観終わり席を立って出入り口のある後ろに行ってみると、そこに大勢の男が立って映画を観ていました。
その時わたしはちょっとビックリしましたが、そこが同性愛者の交流の場であることはすぐに判りました。
「ハッテンバ」だったんです。

異性愛者には「ハッテンバ」は必要ありません。
世の中いたるところが「ハッテンバ」だからです。
異性愛者との出会いは、道であろうが、電車の中であろうが、学校であろうが、会社であろうが、そこら中にあるのです。
別に「合コン」だの「お見合いパーティ」だのがなくたって出会おうと思えばどこでも出会えるのです。
信号待ちの間、たまたま隣にいた女性にプロポーズだって出来るのです。
だって異性愛者は世の中のほとんどが異性愛者だと盲目的に信じてますから。
異性との出会い=恋。
このフレーズがはからずもそれを実証しています。
同性の出会いは最初から恋の範疇に入っていません。
恋とは異性との出会いである、という断言が何の疑いもなく示されています。

同性愛者にとって、好きになった相手が果たして同性愛者なのかどうなのかを確かめるのは難しい問題を含んでいます。
確かめることで理不尽に傷つく恐れがあるからです。
「ハッテンバ」ではお互いが好きかどうかを確かめればいいだけです。
相手は同性愛者だと判っていますから。
つまり、異性愛者がいつでもどこでもやってることが「ハッテンバ」では行なわれているのです。
先日、東京の夢の島で同性愛者と思われる青年が殺されました。
そこは「ハッテンバ」でした。
この事件は同性愛者に対する偏見、無知が大きな原因になっていると言われています。

<第十一回終わり>




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