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「美」と「術」展 1995〜1999
「美」と「術」展はふくだまさきよが企画を担当した藍画廊の展覧会です。
(1998のみ倉品みき子の企画。)
個展とグループ展の境界に展覧会を設定しました。
グループ展でありながら個々の作家の個展でもあるような展覧会を目指しました。
次回の予定につきましては決まり次第このページでご案内いたします。展覧会データとテキスト(1997、1999) 「美」と「術」1995
1995.12.11〜10.23
高野麻紀 北澤孝幸 石塚雅子 川口尚子 大塚泰子 西村文広 市川治之
「美」と「術」1996
1996.12.16〜25
伊東篤宏 安田千絵 松本 旻 増田史朗 岡 典明「美」と「術」1997
1997.12.15〜25
佐藤梨香 井川淳子 郷司基晴 加藤 泉 上野茂都 奥村綱雄「美」と「術」1998
1998.11.16〜28
浅見貴子 山本まり子
「美」と「術」1999
1999.12.13〜25
浜田涼 長塚秀人 渡辺寛
「美」と「術」についてのメモ/1997展テキスト
「美」と「術」展は今回で3回目になります。
わたしと関りのある作家の方々に、テーマを決めず自由に作品を作っていただく形をとってきました。
藍画廊の狭い空間に5〜6人の作家の作品がならぶわけですが、小品展ではなく通常の作品制作の延長として作家の方々にはお願いしてきました。
タイトルの『「美」と「術」』ですが、ま簡単にいえば「現代美術」のことです。
「現代美術」をわたしなりに<表現の核>とそれを具現化する<技術>という視点で表したタイトルです。(実に安直ですが。)
今回わたしなりに現在と「現代美術」を考え、文章化することで再び自分自身で考えてみたい、と思いました。
直接的には「美」と「術」展とは関係ないかもしれませんが、企画者はこんな事も考えている、と受け取っていただければ幸いです。さて「現代美術」です。西洋美術の現在形のことですね。
もうちょっと限定すると西洋近代美術の現在形です。
美術において現在形に関心があるとしたら、「現代美術」をやるでしょう。
形式の確立された表現には、技術の保証がありますがその分<今>を相手にするのは非常に困難です。
勿論例外は存在しますが。
わたしが興味をもっているのは、西洋近代美術の「近代」の部分です。
ここに日本の現在と「現代美術」が抱えている問題の多くが在るように思えます。
近代とは西欧の歴史の時代区分です。
それだけのことでそれ以上でもありません。
ところがわたしのように1949年に生まれていますと、戦後民主主義教育の直撃を受けて、それが絶対だと思ってしまいます。
物心ついた頃から近代を大好きになってしまうのです。
相対化出来ないんですね。
でもよく考えてみると世界中にはいろんな国、民族があり、それぞれの歴史をもっているわけです。
ローカルな時代区分をスタンダードと考えるのはちょっと危険ではないでしょうか。
欧米が軍事力、経済力を背景に、躍起になって後進国と言われる地域の近代化をはかろうとして失敗しているのは、自分たちがローカルだという視点がないからです。
(それだけ躍起になるのは背後に自分たちの利益があるからですけど。)
問題はそれを絶対視して、外に出ることです。
来られた家には家の事情があるわけですから。来られた家=日本の話です。
明治に近代化がはかられましたが途中でこけて、戦後改めて近代化が始まりました。
どちらも外からやって来ました。
ちょっとここで、近代そのものについて考えてみます。
前近代は身分を基準にした共同体ですが、近代は個人の契約による社会です。
その個人は、一般には市民とよばれます。
市民は<個人>の幸福を第一義に考え、契約という方法で共同体を形成します。
その共同体が社会です。
政治的には民主主義形態をとります。
勿論西欧で最初から近代が完成されていたわけではなく、理想の社会にむかって更新を続ける事が必要となります。
更新はヴァージョン・アップですね。
より新しいヴァージョンを持つ国が先進国と呼ばれます。
日本では一人前になることを、別名社会人になるといいます。
契約の当事者になるってことです。
しかし、日本の社会人=近代人ではない様です。
洋服はいつになっても似合わない、しかし着物の着方は忘れた。そんな感じです。
着物の着方は忘れても身体つきはまだ着物のほうが似合います。
つまり、身体に前近代が染み付いているんですね。
(別に前近代が悪いわけではありません。言葉としては悪い意味に使いがちですが。)
そして、そっちの方が自然というか無理がないというか。
だって日本の近代はたかだか百何十年です。
前近代はそれ以前ずーっとですから、人間、制度だけでそうは変わらないのです。
しかも外から来た制度ですから、なんか実感がないんでしょうね。
政治で言えば戦後の自由民主党の長期政権と復活はその現れでしょう。
近代の象徴みたいな党名ですが、その実は....先日風邪をひきまして、暇つぶしにヴィデオを借りました。
「ニッポン無責任野郎」。
植木等主演で1962年制作です。
植木等扮する源等(みなもとひとし)は、背広を着てサラリーマン以外何者にも見えないいでたちで忽然と東京に現れます。
彼は映画の最後まで何者か解りません。
出生も現住所も家族もなにもかも。
唯、名前の由来の説明(人はもとをたどれば皆同じ)はあります。
彼は偶然ぶつかった男の会社にもぐりこみます。
その会社は専務派と常務派に分かれて次期社長のポスト争いの真っ最中です。
源等(植木等)は専務派の男にひろわれるんですが、そんな義理人情おかまいなく自分自身の幸福の為にひたすら合理的に行動します。
日本の会社はこの当時も今も、中身は江戸幕府の藩です。
終身雇用で年功序列に代表される運命共同体ですね。
彼の合理性と会社や家族の前近代性のギャップがギャグの基本になっています。
残念ながらさすがに制作年度が古くて笑えないんですが。
彼の合理性が恋愛のキューピッドになったりもします。
つまり彼源等(植木等)とは「近代」なんですね。
名前のとうり。
自由な恋愛は近代の産物でもありますし。
彼は入社してあっという間に会社のOL(当時はBG)と結婚してしまうのですが、彼にとって結婚とは契約なんです。
合理的生活を営む為に、そのことを理解できる女性と、契約に基ずく結婚という同居を始めます。
この映画のオチはある人物(植木等の二役)の登場です。
源等(植木等)の潜り込んだ会社はスッタモンダのあげく他の会社に乗っ取られ、そっちから次期社長がきます。
源等(植木等)はいつのまにかその社長の秘書になっていて新社長を紹介します。
彼の名前は平等(たいらひとし)。
うーん、日本の近代史をテーマにしたような映画ですね。
タイトルが「ニッポン無責任野郎」。制作年度の1962年というと高度経済成長の真っ只中ですから、画面の中は明るさに満ちています。
生活の豊かさが幸福と直結すると信じられていた、ある意味で牧歌的な時代です。
資本主義も近代と共に手をつないで歩んでいた時代です。
ところがこの後、日本は世界史的にみても例のない繁栄を短期間に達成します。
近代の制度のヴァージョン・アップがなされないまま、近代人は近代人の道を進みます。
映画の主人公源等(植木等)のように、帰属するものから脱して、個人の幸福を追い求めるようになります。
これは近代の理念が個人の幸福を第一義にしている以上当然です。
地域共同体、家族の崩壊はその結果としてあらわれます。
前近代の基盤は無くなっても前近代意識、身体は消えることなく宙ぶらりんの状態に置かれます。
なぜなら歴史スケールからいえばちょっと前までは前近代だったんですから。
日本の「現代美術」は、そんな日本の社会の中にあります。
日本の社会の制度は先進してるとは言い難いですね。
ヴァージョンアップがなかなか進まないように見えます。
「現代美術」をとりまく環境も例外ではありません。
しかしやり直しの近代=戦後から現在までは五十数年しかたっていないのです。
経済の異常な発展(=情報の異常な高速化)で錯覚しまいがちですが、時間軸で考えると実は正常な歩みではないでしょうか。
豊かになるスピードが尋常でなかったので、それに制度が対応できなかっただけです。
けしてそれがイイとは思いませんしギャップがあるのは事実ですから、それをうめる作業はやはり必要です。
しかし<先進国>と言われている国々は、制度の更新にはそれだけ時間を費やしています。
追いかけているかぎりは、何時までたっても追いかけざるをえないでしょう。
アメリカでは、ヨーロッパのドコソコでは、が限りなくつづくでしょう。
わたしの本音では、制度の更新は進んでいても<先進国>の多くはトータルでみると、そんなイイ国々だと思いません。
<近代>を人間が生んだ素晴らしい知恵の一つというぐらいに捉えたらどうでしょうか。
相対化して制度の進む道をパラレルに考えたら、<近代>の呪縛から逃れられるかもしれません。
同様に<前近代>も相対化して、そこにあった知恵を発見してみるのも方法です。さて「現代美術」の中身の<近代>です。
西洋近代美術は、近代人が近代人について考え表現することをやってきました。
日本人も実態はともかく、そっから出発したわけです。
それから<近代>との二重の苦闘が始まりました。
自分自身という個の問題と方法論の二つです。
その辺の歴史については、いろんな本に書かれていますのでここでは触れません。
苦闘の末、気がついたら日本人は近代人の奇形になっていました。
近代制度の中で前近代意識、身体をもちながら、資本主義の高度化が超スピードで遂行された為に(突然豊かになっちゃたんですね)、個だけが<先進国>より<先進>してしまいました。
近代の必然である個人化が、急速な情報化/消費化社会によって世界のトップに躍り出たたわけです。
解りやすい例としてはオタクですね。
現実のある部分で日本は突出し、それが部分であるからこそ奇形なのです。
オタクとはたまたま顕在化した奇形の名称で、名付けられない奇形や潜在化した奇形と基本は変りません。勿論わたしも立派な奇形です。
考えてみれば源等(植木等)は奇形の原型だったんですね。
(興味のある方はレンタルで観て下さい。)
これが日本の現在形であり、「現代美術」が関わりを持たざるを得ない現在だと思います。
紙数の関係でここで終とさせていただきます。
バランスが悪く、「現代美術」よりも近代としての現在に偏った文章となりましたが、メモということでお許し下さい。
「術」に長けた作家による本展、御高覧宜しくお願い致します。藍画廊 福田
「美」と「術」1999展テキスト
今回の「美」と「術」1999は長塚秀人、浜田涼、渡辺寛の三作家の展示となります。
三作家とも写真を表現の手だてとして作品を制作してきました。
このテキストを書くにあたり写真についてちょっと考えてみました。
そこでわたしは<現実>という言葉にぶつかりました。
普通、写真は<現実>を写し撮ると思われています。
<現実>というモノがまずあってその一部を切り取るのが写真であると。
しかし、本当に<現実>というものが予め存在するのでしょうか。
ここがまず疑問に思いました。うーん、<現実>は実はそこに無い、としたら<現実>とはいったい何なんでしょうか。
多分情報の集積が<現実>ではなかろうか、と考えました。
人は生まれてから(胎内にいるときからも知れない)情報を意識、無意識に関わらず集めます。
五感や体内を通して集めます。
例えば、朝起きて空気がちょっと冷たいと感じれば、外出に少し厚手の上着を着たりします。
皮膚が空気の冷たさを情報として伝えそれを<現実>だと認識し、その<現実>に対応したと言えますね。
そういったことの積み重ねが今ある<現実>だと思います。
(勿論情報を判断する情報というのもあって、深く考えるとややこしいことになりますがそこまではこの小文に任ではないと思いますのでここでは触れません。)
とすると、個々の情報の積み重ねに見合った個々の<現実>がある事になります。
しかしそれでは困ったことになります。
わたしと貴方の<現実>が違うということは関わりあうすべが無いわけですから。
人は関わりあいが無いと存在できない動物です。
そこで<現実>の共有ということをします。
同じ<現実>に立っていると認識することです。
これは多分、人が自分だけの<現実>では生きていけないと思ったとき、システムを<必要>としたのではないかと思います。
ここのところの関係性の始まりはよく解りません。
が、その時から人はシステムに対する情報を中心に集めだします。
社会生活を営むための情報です。
ここで言うシステム、社会生活の意味は広範にわたります。
国家も地域も会社も家族も友人も共通の<現実>を前提としたものは全てです。
そのようなシステムが何層にも複雑にからみあっているのが<現実>です。
つまりあっちこっちで<現実>の共有をしているのが<現実>ということになります。
話が抽象的になりすぎてすみません。
本人もどこまで解って書いているのやら。写真の話に戻りますと、写っているのはあらかじめ存在した<現実>ではなく、作家の<現実>ではないかとわたしは思いました。
作家の<現実>の投影とかではなく作家の<現実>そのものではないかと。
作家個人の<現実>がそこ=作品にあると。
正直に言うとここは上手く説明できません。
作家がそこに立っていてもわたしには作家の現実はわかりませんが、作品を観ると作家の<現実>がすごく解ります。
<現実>そのものが。
ここまで書くと話は写真の作品に限らず作品全般にわたります。
といっても解るのは観た作品全部じゃないですよ、全然解らないのもいっぱいあります。
作品の鑑賞は作家の<現実>に触れるということでもありますから、それを共有出来ればシステムが生じるわけです。
システムって言葉はちょっと誤解を生みそうですから、コミュニケーションと変えてみますが、意味はおんなじです。
作品が<現実>になったわけです。
鑑賞者の<現実>が共有しないかぎり作品は<現実>以前であるとも言えます。
共有することが<現実>の実像と言ってもいいでしょう。さて、その先の話になります。
ある作品はなにげない風景を撮った写真です。
ありふれた風景です。
わたしはこの作品に何かを感じました。
この作品を「美しい」と思いました。
この作品を制作した作家の<現実>が美しいと思ったわけです。
どこにでもある風景なのに。
でも、わたしは見たことがありません。
ところが実は見ているのです。
情報としては取り込んでいるのですが、そういう<現実>の視点が無いだけです。
そういう視点とはわたしが共有している、又共有せざるを得ない大きなシステムが、<必要>無いものとしてわたしに要請してきたものです。
そのシステムと共有している<現実>には<必要>無いものです。
しかしわたしはその作品を観て、<必要>なものと認識しました。
その時わたしはその大きなシステムに懐疑的になりました。
美術の批評性とはのはそういうものではないかと思います。
わたしは美術に批評性がないと退屈だと感じます。
ま、懐疑的にならなくても、<必要>とされなかった美しい<現実>を共有できたことでわたしの<現実>が変わることは素敵ではないでしょうか。
美術が力を持っているとしたらそういう力だと思います。システムの中心は実体の無いものです。
実体が無いからこそ強いのです。
人がシステムを<必要>とする以上、そのシステムが切り捨てたものでシステムを更新する力を持っている美術は、<必要>とも言えるかも知れません。御高覧いただければ幸いです。
藍画廊 「美」と「術」企画担当 ふくだ まさきよ
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