宮崎啓太展
"Excursion"
MIYAZAKI Keita
宮崎啓太展の展示風景です。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。
左から、作品タイトル「fragile」(ブロンズ)で、作品サイズ61(H)×53.5(W)×1.5(D)cm、
「autumn」(ブロンズ)で、4.7×19×1cm、
「float」(ブロンズ)で、44×44×1.5cmです。
入口横右の壁面です。
「trace」(ステンレス)で、52×49×2cmです。
左の壁面です。
左から、「silence」(ブロンズ)で、112×111×4cm、
「RAM」(ブロンズ)で、27×17.5×1cmです。
以上の六点が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに一点の展示があります。
藍画廊の展示照明には白熱灯と蛍光灯があります。
展示によって使い分けますが、両者をミックスした照明もよく使用されます。
白熱灯にはボリューム(光量調整)が付属していて、光量も作品によって調整されます。
宮崎啓太展は白熱灯のみの使用で、光量も少なくありません。
しかしそれにもかかわらず、蝋燭の灯で照らしたような雰囲気を感じさせます。
洞のような、非日常の空間に入り込んだような感覚を覚えます。
上は左壁面の「silence」です。
展示作品はすべて金属製で、描画はレリーフの形状になっています。
制作には複雑な過程がありますが、描画のほとんどは最初の粘土で行われます。
具体的には、手と指を使って粘土に描いていきます。
(それを石膏で型取りし、最終的には金属の作品に仕上げます。)
「silence」。
沈黙と題された作品ですが、植物が描かれています。
それもどれと特定できないような、植物の原形を思わせる、姿形です。
遠い記憶の底にある、植物の始まりを描いたような図形です。
同じく左壁面の「RAM」です。
RAMは羊ではなく、コンピューターの記憶装置のことです。
描かれているのは、やはり植物ですが、深い記憶に誘われる形状と図です。
正面壁面の「fragile」です。
わたしが宮崎さんの作品を見て頭に浮かんだのは、洞窟画や化石。
その古(いにしえ)の壁画や痕跡が、思い出されました。
しかし、作品はそれらをモチーフにして作られたものではありません。
逆に無心の状態から、手と指が導いたものです。
長方形と円形の作品。
正面壁面の「autumn」と右壁面の「float」です。
懐かしさを感じますが、その懐かしさは個人的な懐かしさではありません。
わたしの遺伝子に組込まれている、懐かしさのようなものです。
入口横右壁面の「trace」です。
金属の重みと質感、様々な形状、微妙な色調。
体裁は平面に近いのですが、通常の平面、絵画とは異なった面白さ、味わいを覚える展示の数々です。
宮崎さんの作品は、天空に向かうのではなく、地面に潜り込みような表現で、それでいてどこかエレガントな感触があります。
重さの中に、軽やかさが潜んでいるような作品です。
前述したように、宮崎さんは手と指を粘土に触れて、そこから制作をスタートさせます。
エスキース(下絵)もなく、白紙、無心の状態で、手と指が粘土と対話します。
泥の中から人間が生まれたという神話のように、粘土の中から何かを紡ぎ出そうとして。
紡ぎ出されるのは、宮崎さんの遠い記憶です。
いや、正確にいえば、宮崎さんの基底にある人間という類(るい)の記憶です。
その記憶はとても古く、しかも深いところにあるので、日常では表出しない記憶です。
それを、粘土と対話しながら紡ぎだす。
記憶は、人間と世界の創生に触れています。
なぜ、どのようにして、人間と世界は生まれたか。
そのような記憶が、人間の奥底にはセットされていて、逸脱を逃れてきました。
それが壊れ始めたのは、遠い過去ではありません。
宮崎さんの作品に触発されたわたしの妄想は、二つの問いに突き当たります。
土は、なぜ記憶を呼び覚ますのか。
そこに表象されるものが、なぜ植物なのか。
これは意外に大きな問いだと思います。
この問いを考えなければ、リセットは不可能かもしれません。
ご高覧よろしくお願い致します。
会期
2007年7月21日(月)-7月26日(土)
11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)
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