上野さんの作品を最初に見たのは、ポストカード、あるいはポストカード状の写真だったと思います。
場所は青山で、1986年頃のことです。
当時青山にあったギャラリー葉で、写真に写った彫刻作品を見ました。
ギャラリーに行って実物を見ないで、写真を見た。
不可思議なことですが、これには訳があります。
その時、わたしはギャラリー葉に知人の展覧会を見に行きました。
そして、上野さんはギャラリー葉のアシスタントを務めていた時期でした。
以前に面識があったのかどうか忘れましたが、上野さんから作品の写真を渡されて、初めて作品を知りました。
(上野さんとわたしの友人、知人はダブっていたので、出会うべくして出会ったと思いますが。)
写真で見た上野さんの作品。
見事に角がない、物凄くシンプルな人物像でした。
鏡餅のように頭部と胸部があるだけの、これ以上は単純化できないような像でした。
わたしの美術の概念では、どこを見たら良いのか分かりませんでした。
わたしの戸惑いは、(多分)作意の欠如にあったと思います。
この彫刻には、作意らしきものが見当たらない。
芸術家の芸術たる何かが、欠けているように思われたからです。
作意という言葉には二つの意味があります。
一つは、芸術作品における作者の意図。
もう一つは、(良からぬ)たくらみです。
今考えると、わたしの直観は間違っていませんでした。
もっと正確に書けば、わたしに作品を見る眼はなかったが、この作品の只ならぬ成立ちは理解できたのです。
上野さんの作品には、二重の意味で作意がありません。
まず第一に、作者の意図を消す方向で作品が制作されています。
余計なモノを消去していって、何が残るか。
それが、上野さんの制作理念です。
つまり、意図を消していった後に残ったもの、それが作品だと考えています。
第二に、(良からぬ)たくらみもありません。
芸術家とは、たくらみを持たぬから芸術家ではないか、という意見があります。
確かにその通りですが、それは神話に属することで、現実の芸術家は競争をしています。
競争をしていれば、勝者と敗者が生まれます。
敗者になりたくなければ、競争に勝つしかありません。
そうなると、良くも悪くも、たくらみ=企みは必要になります。
しかし、上野さんは、それをバッサリ捨てしまっています。
余計なモノとして、捨てています。
上野さんの弁によれば、自分の性格(たち)ではない、ということで。
残念なことに、今の世の中では、企みのない人は不遇に甘んじます。
企みを言い換えれば前向きの姿勢で、それのない人は不遇になってしまうのです。
これ又残念なことに、歴史上の優れた表現者は、おしなべて不遇でした。
企まなかったか、企みがヘタだったのです。
(それが又、純粋な芸術家像という神話を生むのですが。)
何かを作るということは、白紙の状態から始めることです。
ところで、白紙というのは、観念の産物です。
白紙は白い紙の意味ではなくて、何もないところからスタートするという、観念のことですね。
で、その白紙に何かを描く。
描いたものがオリジナルで、創造的であれば、作品として認められます。
しかし、上野さんの考え方は違っていると思われます。
最初に、すべてがあるところから、スタートします。
白紙という観念を否定して、すべてがある状態から、制作を開始します。
すべてがある状態の所とは、俗な世界のことです。
俗な世界にどっぷり浸かって、余計なものを削ぎ落としていく。
そういう、考え方です。
俗を極めれば洗練に行き着く、という言葉がありますが、それとも少し違います。
というのは、上野さんが早くから着目していたのは「五百羅漢」や「三十三観音」に観る、数の不思議であり、「道祖神」や「石塔」宿る、情(なさけ)のかたちでした。
当時としては、かなり「後ろ向き」な態度ともいえましょう。
今でこそ、現代美術にも「和物」が流行の感がありますが、常に海外の動向に目を向ける姿勢を是とする、スタイリッシュな潮流には、相変わらず根強いものがあるからです。
すべてがある世界では、オリジナルの出番はありません。
すべては、バリエーションです。
そうだとしたら、バリエーションであることを認めてしまって、その意味を探ることが大切です。
なぜ、多様であるかを、考えることです。
ここに、上野さんの作品の秘密があります。
上野さんの作品には群像が多い。
人物に限らず、群れて展示されることが普通です。
その一つ一つは、実に丁寧に造られていて、表情も多彩です。
並べられた似ている像も、よく見ると様々です。
群像には中心がなくて、それぞれが密やかな物語を有しています。
喩えてみれば、(これも上野さんの弁ですが)テレビの大河ドラマではなく、沢山の小さなドラマの流れです。
沢山の小さなドラマが、大きな河を形成している。
そういうことになります。
ですから、そこにドラマティックな要素はまったくありません。
主役、脇役、端役の区別もありません。
あるのは、多様です。
多様が佇(たたず)んで、大きな河になっている。
そういう世界が、上野さんの世界です。
ところで、大河ドラマは歴史上の人物や事件をテーマに作られています。
大河ドラマとは、権力者の人間性に焦点をあてた物語です。
わたしたちが歴史と呼んでいるのは、一般に権力者の歴史です。
歴史は権力者によって作られ、塗り替えられてきたという認識(教育)が、そこにあります。
俗な世界に生きる人々は、そのような歴史に翻弄されるのも事実ですが、それだけが歴史ではありません。
その人その人の、生まれて、生きて、死ぬという歴史があります。
それこそは多様で、同じものは一つしてありません。
共通するのは、生まれて、生きて、死ぬことだけです。
意外なことに、人類の歴史とは、その繰り返しに過ぎないのです。
余計なモノを削ぎ落とせば、歴史とはそのようなものなのです。
進化、進歩も何もなくて、ただそれだけ。
そのような歴史認識、歴史観が、上野さんの作品には見られます。
生まれて、生きて、死ぬを繰り返す人間の歴史。
そこに、何らかの意味はあるのでしょうか。
恐らく、そこに意味があると思って、上野さんは作品を作り続けています。
あるいは、意味がないとしたら、その意味のなさを知りたくて、作り続けていると思います。
歴史が権力者のものでないならば、歴史とは多様の大きな流れです。
繰り返すことを繰り返してきた、多様の流れです。
歴史の真意を知りたければ、権力者の像を作ることではなく、より多くの(俗な)像を作ることです。
より多くの像を作れば、多様の大きな流れに近づくことができます。
上野さんが、群像を制作する理由(わけ)を、わたしはそのように想像します。
多様であることは、上野さんの制作態度にも表れています。
立像と座像があるなら、寝像(布団で寝ている像)があってもいいはずだと考え、寝像を作る。
素材も石に限らず、紙や布や粘土、石鹸も使う。
彫刻だけではなく、絵も描けば、三味線片手に唄も歌う。
群像の多様と直接の関係はないにしろ、その態度は俗そのものです。
多芸な芸術家ではなく、むしろ芸術家であることを忌避するために、多芸を為しています。
誤解を恐れずいえば、サービス精神の旺盛な優れた芸人に近い感じです。
上野さんの価値観では、芸人の方が芸術家よりも上、かもしれません。
このような上野さんの制作態度は、美術家として非常に無防備に写る事があります。
作家には、とかく自分の領域のガードを固めて、突き入る隙を見せまいとする傾向があるからです。
そんな柵作りには、さして時間を割かないところにも、上野さんの、芸術以上に芸を重んじる性格(たち)があるのかもしれません。
芸術という言葉の持つ、ある種の気恥ずかしさに、身を置ききれない一面を持っている・・そんな気がします。
その辺りのことを本人に伺ってみましたところ、大変興味深いコメントが返ってきました。
上野さんの話しを要約すると、「芸」とは、祭礼から発達したこともあり、見聞きをする者に「福」を授けるべきものである、またそうでなければ、それが興行されて、人々が集う理由は無く、今日我々が観る演芸も「笑う門には福」という基本線がある・・との事。
つまり「芸人」とは「人」と「神(幸福)」との間を取り持つ、という原型があるそうです。
これは、非常にスケールの大きい見方だと思いました。
一般には「芸」というと、何かの糧を得るための手段のように、とらえてしまいがちだからです。
今わたしの机の上には、小さな人物像が載っています。
上野さんが和紙で作った像で、芯には粘土が使われているようです。
像は、頭部と胸部だけのシンプルなもので、最初に見た作品の発展系ともいえるものです。
少しうつむき加減の頭部に、天井から光が注がれ、顔には陰ができています。
この前向きとは言いがたい像には、深い何かが宿っています。
眼も鼻も口も耳もない、頭部としか形容できない上部と、それを支える下部としての胸部。
余計なモノを削ぎ落として、辿り着いた形。
手に持つと、ほど良い重さで、なぜか安心します。
実は、これが本当の人間の体重かもしれません。
生まれて、生きて、死んでいく人間の体重とは、重すぎず、軽すぎない、これくらいが丁度です。
そう思って、陰になった顔を見ると、それほど深刻な感じでもない。
とても自然な表情に見えてきます。
前向きでないのは、やはり身体の重心が自然なだけに過ぎません。
自然な人間像を作る。
これは至難ともいえます。
作意があったら、できません。
まず、作る側が自然な状態にならなければなりません。
そして、削ぎ落としていく。
できあがった像は、自然な人間の像です。
しかし、この像一つで人間を代表するわけにはいきません。
前述したように、人間は多様だからです。
多様な、生まれて、生きて、死ぬがあるからです。
美術とは何か、を純粋に追及して行けば、どうしても「それが存在する事の正当性」を問い正されていく事になります。
作品として最高にして最強の状態を、追い求めていけば、辿り着くところは、どうしても、一神教的な考え方になるのではないでしょうか。
上野さんも求道者としては、その方が正しいと言います。
しかし、それに寄って出てくる物は、観る者が恐れを為して、ひれ伏すだけの物になりはしないか、やってはいけない事が、増えていくだけではないのか、との思いもあると言います。
あえて回答を絞り込まない、無防備な「赦し」の世界を、大切にしているのかもしれません。
上野さんは一つ像を作り、又像を作り始めます。
沢山の自然な人間の像を作って、河を見てみたい。
それが、上野さんの小さな野望です。
このテキストを書いているのは新作展の前で、出品作は見ていません。
大理石と砂岩による新作、楽しみです。
前回は色とりどりの石鹸を使用した彫刻でした。
そこで印象に残ったのは、立像や寝像に混じった鳥や魚でした。
植物の像もあった気がします。
多様が河を形成しているとするなら、人間だけが多様ではありません。
動植物や無機物だって、多様で、河を形作っています。
上野さんが人間の像を作り、わたしが人間の像に見入るのは、たまたま二人とも人間だからです。
多様の中の、たまたまです。
そのように、多様とは奥が深く、自然なのです。
最後に、作品について上野さんと話していて、とても心に残った言葉を載せてみましょう。
「 彫刻の原点は、大別すれば『碑』(いしぶみ)と『偶』(ひとがた)のいずれかだと思います。
『碑』は残すべきものであり『偶』は捨てられないものでしょう。
執着・・・この宿命ともいえる彫刻の業(ごう)が、私には重くて重くて仕方がないんですよ。
ところが、気が付いてみると、相も変わらず【 彫り刻む 】作業を繰り返しているんですね。
何故それをやるかとといえば、制作している間は、自分を忘れる事が出来るから・・のようです。
これは一つの快楽と云えるでしょう、快楽の代償は重い・・・と、いうことですかねぇ。」
ご高覧よろしくお願いいたします。
藍画廊企画
上野茂都展
UENO Shigeto
2008年2月18日(月)-3月1日(土)
日曜休廊
11:30-7:00pm(最終日-6:00pm)
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