岡田健太郎展の展示風景です。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。
中央の床置きの作品は、タイトル「カエサリア」(黒御影石・鉄)で、サイズ73(H)×62(W)×86(D)cmです。
壁面左から、「エンマノ」(黒御影石・鉄)で、5×7×8cm、
「アニマムス」(黒御影石)で、3×6×15cm、
「カエサリア-a」(黒御影石・鉄)で、10×9×9cm、
「カエサリア-b」(黒御影石・鉄)で、10×8×6cmです。
入口横右の壁面です。
縦長の作品、「ピスピット」(黒御影石・鉄)で、80×5×5cmです。
左側の壁面です。
左から、「モンジパカ」(黒御影石・鉄)で、3×5×17cm、
「サシエビラ」(黒御影石・鉄)で、7×3×4cm、
「サシ」(黒御影石・鉄)で、5×5×4cm、
「サイシ」(黒御影石)で、8×2×8cmです。
以上が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに70点の小さな作品の展示があります。
画廊の中央にドンと置かれた、黒御影石の石彫「カエサリア」です。
真ん中から割れていますが、二つの鉄の契りで結ばれています。
両横に穴が開いていて、中は刳り貫かれています。
はて、これは何でしょうか。
これは、墓です。
作者である岡田さんの墓です。
岡田さんはまだ青年期の若さですが、自身の墓を作ってしまいました。
しかも、風化しているような、時間の捻じれた墓を。
なぜでしょうか。
それは又、後ほど。
左壁面の「モンジパカ」lと「サシエビラ」です。
墓の作品と雰囲気は似ていますが、若干アブない感じもします。
左の「モンジパカ」で手を拘束されたら、どんな気持ちがするでしょうか。
苦痛だけど、何となく心地良いかもしれませんね。
岡田さんはそう思って、この小品を制作したそうです。
そのアンビバレンツ(相反する感情)の通底は、墓と繋がっています。
左壁面の「サイシ」と正面壁面の「エンマノ」です。
SMシリーズ(?)の作品ですが、開いているようで、閉じている空間が特徴でしょうか。
黒御影石の磨かれた部分の光沢と、その他の部分のワイルドな痕跡。
その対比も、苦痛だけど、心地良い。
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右壁面の「カエサリア-b」と、横右壁面の「ピスピット」です。
「カエサリア-b」はタイトル通り、墓の作品の小品版です。
横穴の部分が上になり、石も磨かれていません。
「ピスピット」は杖のようでもあるし、用途の不明な器具のようにも見えます。
これも中央から割れていて、鉄の契りで結ばれています。
道路側ウィンドウの70点の小品群です。
タイトルは「タマ」で、石の表面に二つの数字が描かれています。
一つは岡田さんの身長で、もう一つは体重。
日々の記録です。
勾玉、ストラップをイメージして作られた作品です。
岡田さんの石彫は、丁寧に作られた彫刻作品です。
古のカタチが、モダンな感覚で蘇った感があります。
しかし、どこかに禍々(まがまが)しさが潜んでいます。
隠されていたものが、そっと眼の前に出されたような、奇妙な倒錯があります。
なぜ自身の墓を作ったのか。
岡田さんに訊いてみました。
「大きな石の固まりを割って、その中に自分を入れてみる。
そのイメージが最初にあり、それは閉塞であると同時に安楽な居心地かもしれない。
誕生前の胎内と同じで、それが始まりであるならば、最後も同じような環境に還っていくのかもしれない。」
他方、岡田さんは墓が観光名所になってしまう不思議さを常々感じていました。
ピラミッドや古墳や横浜の外人墓地。
墓の前でピースマークを作って、記念写真に収まる。
確かに、不思議な現象です。
(多磨霊園だって、風化すればそうなるかもしれないと、岡田さんは想像しています。)
死と拘束。
それは苦痛と快楽が入り交じった、日常を超えた感覚です。
人が密かに憧れる、禍々しさです。
岡田さんの作品には死と拘束がありますが、それは逆説的に生(と自由)を語っています。
生きること、生きていることの意味を問うています。
その根源的な問いは、墓のように重く、「タマ」のようにどこか飄々としています。
死を隠すようになったのは、近代からです。
死とは、もっと身近なものではなかったか。
画廊に展示された石彫を見ていると、そう思います。
死を見つめることによって、生が生として、その意味や輝きを持ち始めます。
一過としての生ではなく、終点としての死でもなく、それをサイクルとして捉えれば、永遠の文字がうっすらと浮かんできます。
生者である岡田さんが、風化した墓に身を横たえる夢想の中に、わたしはそれがあるような気がします。
(奇妙なタイトルについては、あえて訊きませんでした。推理を楽しんで下さい。)
ご高覧よろしくお願いいたします。