川口美穂展の展示風景です。
入口から見て、正面と右側の壁面です。
左から、作品タイトル「ばかやろう」(油彩 ・キャンバス)で、作品サイズ652(H)×530(W)mm、
「花火 」(油彩 ・キャンバス)で、652×530mm、
「September」(色紙・アクリル・ケント紙ボード・パネル)で、257×364mm、
「トラとオリ」(油彩 ・キャンバス)で、455×379mmです。
入口横右の壁面です。
「魔法使いP」(油彩 ・キャンバス)で、805×653mmです。
左の壁面です。
左から、「フォトグラフ」(ラムダプリント・アクリル板)で、210×297mm、
「トリップ 」(ラムダプリント・写真コラージュ・アクリル板)で、652×489mm、
「上下左右」(ミクストメディア)で、サイズ可変、
「アラウンド」(ラムダプリント アクリル)で、549×413mm、
「世界のはて、たったひとりで立小便 」(アクリル絵の具 ダーマトグラフ ケント紙ボード)で、257×364mmです。
以上の十点で川口美穂展は構成されています。
左壁面の「フォトグラフ」です。
タイトル通り写真で、千切った写真を再び貼りあわせています。
千切ったときに生じる白い部分を、露出して貼りあわせているので、画像に歪みが生じています。
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左壁面のインスタレーション「上下左右」です。
壁面には海の写真のコラージュ、床面にはイスとライトテーブルと赤いカーディガン。
海の写真は水平線を基準に、各地で撮影された海がコラージュされています。
ライトテーブルの上にはフィルムに描かれた平面があり、「魔法使いP」(入口横右壁面)の一部がトレースされています。
同じく左壁面の「世界のはて、たったひとりで立小便 」です。 雪の荒野で立小便する男。 オシッコの黄色がリアルですが、何ともいえない可笑しみがある作品です。 |
正面壁面の連作です。
「ばかやろう」と「花火」で、それぞれ人物像と花火が描かれています。
ポジとネガが同一画面に同居しているような、画面です。
右壁面の「トラとオリ」です。 この作品もネガとポジが同居しています。 中央右の白い部分は、描いてから消去した跡です。 トラの表情が、ユーモラス。 |
最後は入口横右壁面の「魔法使いP」です。
この眼鏡の少年、どこかで見たことがありますね。
そうです、「ハリー・ポッター」の主人公です。
降っているのは、光でしょうか。
中央部の白い部分はトラ同様、描いてから消した部分です。
この部分が、インスタレーションのライトテーブル上の平面にトレースされています。
とっ散らかったような展示(失礼)ですが、各作品に結びつきもあり、面白く拝見しました。
視覚的秩序の紊乱(びんらん)とでもいうべきアナーキーさが、川口さんの作品の魅力です。
視覚には一定の秩序があり、時空を限定するこによって成り立っています。
ところが、川口さんの展示はその階層が乱れていて(乱されていて)、あたかも視覚は「かけもちひと」のようです。
これを論理で説明することは、できます。
人間の頭の中は、こことあそこが同居し、過去と現在と未来が目まぐるしく交錯しています。
特に現代のような情報化社会においては、距離感は消滅し、時間の秩序も錯綜しています。
携帯電話の普及やYou Tubeを例に出すまでもなく、そのような事態になっています。
しかし、そのような論理で川口さん作品を見ても面白くありません。
ペインティングやコラージュという古典的手法が、そのような論理を裏切っていますし、散見するユーモアが別の次元にわたしたちを導いています。
つまりは、遊びの感覚が大胆に導入されていて、批評性を凌駕しているのです。
あるいは、直接的でアナログな手の動きを遊ばせて、情況の裏をかいているのです。
それは携帯電話のディスプレイに直接ペインティングしているような、一捻りした、面白さです。
美術は、効率の世界ではありません。
無駄の、世界です。
どのように役に立たないかを、表現する世界です。
しかし無駄というものは大切なもので、そこから世界を眺めれば、世界もまんざら捨てたものでないことが分かります。
というわけで、川口さんの作品は、立派に無駄の世界を表現しているのでした。
追記:重要な点を一つ見逃していました。
それは空白の問題です。
わたしたちはすべてを埋めることで納得しようとします。
(ワイドショーが答えを出すように。)
しかし、埋めることの出来ない空白も存在します。
それが、作品に表現されています。
ご高覧よろしくお願いいたします。