藍 画 廊



高橋美羽展
「ベルベットの舌」
TAKAHASIH Miwa


高橋美羽展の展示風景です。


画廊入口から見て、正面の壁面です。

左から、作品タイトル「リリイのソファー」で、サイズは21(H)×29.7(W)cm、
「シャンデリャが降る」で、33.3×24.2cm、
「リリイ」で、26.8×21.8cmです。
右側の壁面です。

「白い孔雀の靴を履いて、緑のなだらかな丘を下る夢を見る」で、196×97cmです。
入口横右の壁面です。

「マリアと犬」で、21×29.7cmです。
左側の壁面です。

「パウダー」で、162(H)×260(W)×130(D)cmです。


以上の六点が画廊内の展示で、その他道路側ウィンドウに一点の展示があります。
仕様画材は、パネル、キャンバス、紙、アクリルガッシュ、油彩、金箔、鉛筆で、作品によって使い分けています。



左壁面の「パウダー」です。
屏風仕立てで、リアルに描かれた肉に、背景は金箔。
いきなり見ると、その生々しさにたじろいでしまいそうです。
食(食品)をテーマにした作品ですが、(とっても良い意味で)暴力的な作品です。



正面壁面の
「リリイのソファー」と「シャンデリャが降る」です。
ソファに横たわる人の上半身は、イチゴのスイーツ。
ファンシーで、幾分グロテスクな描画です。

右の「シャンデリアが降る」は、鹿の首の剥製に花とシャンデリア。
こちらはコラージュ的手法で、キッチュな雰囲気を漂わせています。



右壁面の「白い孔雀の靴を履いて、緑のなだらかな丘を下る夢を見る」です。
金箔を背景に、上半身が七面鳥(?)で下半身が女性の人間が描かれています。
中央に、各種のフルーツが果汁(血?)を滴らせている図を、オーバーラップさせています。
日本画様式と現代の食が、一枚の絵に暴力的に結合されています。


入口横右壁面の「マリアと犬」です。
とある町の、グランドで散歩する少女と犬。
町は何処にでもある風景で、画面の暗さと、唐突な青年のポートレイトが不気味です。
他の作品とは感触が異なりますが、底を流れている不安感は同じです。


高橋さんの作品を拝見していると、現代人の不安が強く意識させられます。
いったいわたし達は何に不安を感じているのでしょうか。

人間にとって食は、生そのものを意味します。
食べなければ、死んでしまうからです。
今の日本では、人間は飢えから解放された言われています。
しかし、その食の内実が、どうやら不安の基になっているようです。

かつて人間にとって食は、生活する土地の気候風土と不可分でした。
自給自足が原則でしたから、食を通じて人間と土地は連鎖関係にありました。
今の食は、商品としてスーパーなどで購うことが主であり、生産地との関係は遮断されています。
その変化は、市場経済の拡大と交通の発達、冷凍技術等の科学技術の発展が生みました。

歴史的にみれば、人間は獣を狩って、その肉を食糧とした時代が大半です。
今でも(工場のような)牧場で獣を飼育して、食肉としています。
本来はグロテスクな人間と獣との関係は、原始の宗教的のように世界観として昇華されることもなく、隠蔽されて市場に出されます。
そしてわたし達が食を購う基準は、食物そのものではなくて、それに付随した情報であり、意匠です。

高橋さんの作品は、そのような現代の食の不気味さを、ヒネリを加えて表現しています。
そのヒネリ方が、とてもユニークで、面白い。
というか、理屈より先に感性で不安の核心に迫っているように思います。


さて、わたし達がグロテスクと感じるモノは、何でしょうか。
それは多分、生(性)と死を孕んだものです。
生(性)と死を孕んだものは、今商品として、わたし達の日常に溢れています。
情報と意匠でパッケージされ、消費され続けています。
生(性)と死が不在となった状況は、実体と関係を失い、空虚で賑やかです。
その日常こそが不安の基で、実はグロテスクなのです。
高橋さんの作品には、隠された生(性)と死が表面化しています。
その表れ方に、強く惹かれました。


会期

2006年10月9日(月)-14日(土)


11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)


会場案内