左は壁際に置かれた灰です。
木を燃やしてできた灰です。
右は、床置きの木の作品にあった枝を芯にした作品です。
枝を芯にして釘を打ち、鉄片を溶接したものです。
枝は周りの形ができた時点で燃やされています。
床置きの作品と違い、中は空洞になっています。
展示作品の中で目を引くのは、鉄片を数限りなく溶接した鉄の塊です。
この形は、喩えようがありません。
ただそこにある、鉄の塊です。
黒田さんの作品の根底にあるのは、生と死ではないでしょうか。
象徴的なのは、木の生と死です。
木は無機物である鉄に囲まれて生き、死を迎えるとその形を無くしますが、無機物の灰に(形を)変化します。
そのサイクルが「現象」の実体かもしれません。
では、鉄の塊は何でしょうか。
これも「現象」です。
現われるもの、としての現象です。
黒田さんは約一年かけてこの作品を作りました。
毎日毎日少しづつ鉄片を溶接していったそうです。
最終的にどのような形になるかは考えていなかったそうです。
少しづつ変わる形に触発され、鉄片を溶接していきました。
そして、展覧会の出品期限で制作を打ち切りました。
この形は、黒田さんの生そのものではないでしょうか。
だから、喩えようがないのです。
恐らく、黒田さんは生の実感を形にしたかったと想像します。
予め予想された(形としての)生ではなく、日々の営みが育んでいく生。
その現われを、形にしたかったのではないでしょうか。
このことに意味があるのかどうか、それは一つの疑問です。
わたしは意味があると思います。
通常わたし達が生を認識しているのは、広い意味での情報です。
その情報には、実体や実質が欠けています。
それは実体、実質のイメージだったり、輪郭を表す数値に過ぎません。
わたし達の時代の不幸は、実体、実質が見えない不幸です。
鉄片を日々溶接していく。
鉄片の集合は形になり、形は日々変わっていく。
それは紛れもない、実質、実体の現われです。
イメージや数値ではない、実体、実質の「現象」です。