中村元展の展示風景です。
壁面に設置された白い台と金属の器、赤い液体に浮かぶ白い球。
一体これは、何でしょうか。
展示を各壁面ごとにご紹介いたします。
画廊入口から見て、正面と右側の壁面です。
低い位置に規則正しく並べられています。
入口横右の壁面です。
一つ一つの作品はすべて同じに見えますが、実は微妙に違います。
それが、このインスタレーションのミソです。
左側の壁面です。
作品は全部で三十あり、それらで一つのインスタレーションを構成しています。
画廊に中村さんが記した挨拶文があります。
観賞の手引きともいえるテキストですので、全文を転載いたします。
ニューヨークから帰国して初めての個展です。
今回の展示はギャラリーの壁面を利用した同一のオブジェクト30個によるインスタレーションです。
同じ高さ、同じ間隔に取り付けられた個々のオブジェクトは、白い樹脂製の台座と、
12個の白い球が浮かぶ液体を張ったステンレス・スチールの容器からなります。
台座にはマイコンで制御された駆動機器が搭載されていて、
容器の液中にある12個の白い球体が台座内の駆動機器に反応してゆっくり回遊します。
このインスタレーションで私が表わしたいことは、記憶や夢、暮らしや経験の中で、
名状し難いまま、零れ落ちてしまうような、曖昧な瞬間です。
浮遊する球は、水溜りをのた打ち回る寄生虫のようであり、羊水の中で蠢く不完全な
命のようでもあり、グロテスクな生命体を連想させます。
しかし、それらはマイコンで制御された「もの」であり、生のない冷ややかな動きに過ぎません。
また、大量生産の工業製品を思わせるオブジェクトは、全てハンドメイドです。
職人的な丹精さで仕上げることが、手仕事の痕跡、温もりをぬぐい去り、
オブジェクト自体が旧近代的なマスプロダクトのように見えるという皮肉さがここにあります。
またオブジェクトは、洗面台や台所用品、手術器具などを思わせる機能美にデザイン
されていますが、実際にはそういった雰囲気のみが与えられているのです。
それは作家によって意味を剥ぎ取られた「もの」なのです。
一見、清潔で快適に見えるものが、不潔で苦痛や恐怖を伴うものにすりかわってしまう不安。
シンプルで、明確な目的を持っているようなものが、
突然機能しなくなり、不確定なものになってしまう困惑。
相反する要素を織り交ぜて、幾重にもなりうる、
そういったアンビギュアスな状況を創り出したかったのです。
それは、「そうである」と大方で認められている役割、物語性、歴史、コンセプトといった
ものに対する私のささやかな抵抗なのです。
ご意見をお寄せ下されば幸いです。
2006年 2月
中村 元
作品の上部と側面です。
白い球は人が近づくと微かに動きます。
耳をすますと球と球が擦れ合う音も聞こえます。
その仕掛けは台座の下にあるセンサーと内部の駆動装置ですが、容器の内(なか)は原始(原子)的な生命体を思わせます。
旧近代的なマスプロダクト。
清潔で不潔、快適で苦痛。
機能的な外観と非機能な内実。
テキストの通り、相反する要素が一つのオブジェクトに内包されています。
作品を文字で理解すると、批評性の強さが目立ちますが、実際に見ると印象が少し異ります。
この作品には、ある痛みがあります。
血を連想させる赤い液体に浮かぶ、漂っているような白い球。
それはわたし達が持っている、ある痛みです。
歴史上最も快適な生活の中に存在する、どうしようもない痛みです。
作品を見ていて、わたしはドイツのテクノポップグループ、クラフトワークを思い浮かべました。
機械が歌っているようなヴォーカルと無機的な演奏、フリもぎこちない動作の連続。
マン・マシーンです。
クラフトワークの奏でるメロディは、トラッドなドイツ歌謡を基にしています。
その相反する要素が一体となって、わたしの心を心地良く揺さぶります。
中村さんの作品にも、心地良いリズムがあって、無機と有機が同居しています。
有機とは、生命体を思わせる白い球の動きと連鎖です。
そういえば、クラフトワークの音楽にもある痛みがあります。
叫ぶ肉声を失い、歌声はクールで平静を装っていますが、その音楽の核には時代の痛みがあります。
クラフトワークの音楽が心に響くのは、その為です。
ある痛み、とは何でしょうか。
規則正しい機械の機能と、表層のイメージに取り囲まれた世界。
その世界で、肉体や実体は姿を消しています。
それを垣間見たとき、その痛みが襲ってきます。
何ともいえない、後味を残して。
ご高覧よろしくお願いいたします。