藍 画 廊
画廊入口から入って左側の壁に箒(ほうき)が立て掛けてあります。
この箒はとても美しい。
均整がとれていて無駄がありません。
しかし、この箒を作家である冨井くんが作ったとも思われません。
はて、この作品は?
箒の柄の部分を良く見て下さい。
柄の先端の部分です。
何か白いモノがくっついていますね。
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拡大してみました。 パテにペンキで着色してあるようです。 果たしてこれは何なのでしょうか? |
次は入口入って正面の壁面の作品です。
右が拡大画像です。 鉄板に白いモノが突き刺さって(?)います。 これもパテに白くペンキを塗ったものです。 どうもこれは人体のようです。 首から下の人体。 かなりデフォルメしてありますが、良く見ると人間の身体(からだ)です。 首から上が壁(鉄板)にのめり込んでいます。 箒の作品ですと、柄に首から上がすっぽり埋没している感じです。 |
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わたしは作品の意味するものが今一つ解らなかったので、画廊にある作品ファイルを見てみました。
以前から、この人体にはかなりこだわっているようです。
展覧会に寄せた冨井くんのテキストも載っています。
私にとって人間は非常にとらえどころのないものです。触っても手応えを感じることがあまりなく、形も本当にこんな形をしているのかと不思議に思います。目の前に誰かがいたとしても、次の瞬間消えてしまうのではないかという気がします。人間には絶対的な質量や形はあるのだろうか、そして人間は本当にこの世界にいるのだろうか?という疑問に駆られるのです。
私の制作はそういった疑問から来ています。しかし作品は、疑問に対する答えになりません。飽くまで、私が人間という存在と向き合うためにあるのです。そして存在の本質は、対面することの連続の中からしか、見えてこないのではないかと思います。
2000.9.21 冨井大裕
わたしなりに考えてみました。
人はもっぱら頭で世界を認識します。
自分が存在する世界を視覚や聴覚や嗅覚で知ります。
様々な情報を、脳が最終的に一つの像に結んで世界と自分を認識します。
認識するのはもっぱら頭で、身体(からだ)は置いてきぼりを食った感じになります。
観念と身体の「乖離」とでも言っていいのでしょうか。
こんな疑問は、わたしも持ったことがあります。
認識の不確かさ。
世界が、自分が、存在することの不思議さです。
冨井くんの作品に対するわたしの考えが、正解なのかどうかは解りません。
それが正解であるかどうかは意味のない事です。
冨井くんのテキストで言えば、「人間という存在と対面することの連続の中からしか」見えてこないものだからです。
冨井くんの作品を観ること、そこからわたしはわたし自身で人間の「謎」に迫らなければいけないのですから。
上は画廊床に設置された作品。
下は道路側ウィンドウに設置された作品です。
その他、ドローイングの作品三点が画廊入口に展示されています。
冨井くんの作品には、「考えるスリル」とでも言っていいような快楽があります。
そこには、「考えるスリル」を成立させている作品の強度があります。
ミニマムな構成にもかかわらず、と言うより完成度の高いミニマムな構成だけが持つ、拡がりのある世界が表現されています。
御高覧よろしくお願いいたします。
2001年2月19日(月)-2月24日(土)
11:30am-7:00pm(最終日6:00pm)