作家にとって、生きる、生きていくとはどのようなことでしょうか。
それは申すまでもなく、作品を作っていくことです。
もちろん、作家も人間ですから、呼吸を忘れては生きていけません。
当たり前ですが、これは結構重要なことです。
呼吸は、速すぎても遅すぎても、いけません。
もし、速すぎたり遅すぎたりしたら、息を整えることです。
そうすれば、又作品に向かうことができます。


当間裕子さんは、感性に恵まれた作家です。
わたしのような人間には羨ましいかぎりですが、それを当人に伝えたとしても意味がありません。
「それが、どうしたっていうの?」、と返されるのがオチだからです。
感性は作品を作る才能の一部ですから、当然の応えですね。
それでも、当間さんの感性は羨ましいと思います。

感性に恵まれた作家が感性だけでやっていけるほど、美術の世界は甘くありません。
順調にスタートしたとしても、道程(みちのり)は平坦ではありません。
当間さんに限らず、作家であれば誰でも、山を登ったり下ったりする苦難を強いられます。
それは致し方ないことですが、登ったり下ったりしていると、呼吸が乱れます。
呼吸が乱れたら、息を整えなければいけません。
途中で、一休みすることです。

息を整えて、ふと見回せば、当たり前の風景が眼に入ります。
日常の風景ですね。
しばらく見ていると、自分の立っている場所が分かります。
その世界で流れている時間も、感じることが出来ます。
そして、知らず知らずのうちに、時間の流れに呼吸が合ってきます。
その時、作品は変化します。

当間さんの2004年の藍画廊個展に、雨滴の連作があります。
雨が水溜りに落ちる様子を描いた作品です。
当間さんとしては珍しく、モチーフが明確な作品です。
この連作を見た時、わたしは変化を感じました。
当間さんが息を整えて、自分の立っている場所から、再び一歩を踏み出したことを。

その連作がどのような作品かといえば、以下に引用する文章のような作品です。
文章は吉田健一『時間』の冒頭です。

冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どのくらいの時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。

(句読点のない独特な文章ですが、これが『時間』の文体で、最後まで延々と続きます。吉田健一は吉田茂首相の長男で評論、小説、翻訳の分野で多くの著作があります。1977年没。)

枯れ葉が水のように流れる朝日に洗われている。
当間さんの連作は、雨が水溜りに落ちて沢山の波紋を作っている。
ただ、それだけです。
ただそれだけなのに、画面には新鮮な世界があります。
なぜなら、当間さんは時間の流れと共に、画面に向かったからです。
吉田健一が、朝という時間の流れに、身を任せたように。



時間は、ただ流れている。
わたしたちが流れている時間を知るのは、世界の変化です。
陽が昇り、沈んで、春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がくる。
あるいは、人が成長して青年になり、青年はいずれ老人になっていく。
そのような、変化です。
ですから、時間の本質は変化です。

時間の本質と混同しやすいのが、時計の時間です。
時計の時間も変化しますが、それは針が動いているだけです。
世界は、それとは関係なく変化しています。
そのことを承知していながら、わたしたちは時計の時間で生きています。
朝から晩まで区切られた時間で、その日その日を送っています。

ですから、引用した吉田健一の文章を読むと、一瞬キョトンとしてしまいます。
長くもなく短くもない時間が、ただ確実にたって行く。
あまりに分かり切ったことで、疑問の余地もない言葉に、不意をつかれてしまう。
時間に追われ、時間との戦いに明け暮れているわたしたちは、その単純な物言いに脱力してしまいます。

朝日は水のように流れている。
これは、時間に対する至言です。
朝の光線が、刻々と変化していて、あたかも水の流れのように枯れ葉を洗う。
そう、時間とは川のようなものです。
この喩えは使い古された表現ですが、やはり、時間の喩えとしては適切です。
川の流れを、時計時間のように数値、数量で区切るのは不可能ですし、流れが止まることもありません。
川が川である以上、それはいつも流れています。

昔の人は、その流れの中で生活していました。
昔とは、少なくとも近代以前です。
陽が昇れば、起きて食事をし、日中は畑や田圃に出かけ、日が暮れれば、家に帰って食事をして寝る。
その生活には季節もあって、四季折々の変化にあわせて、内容が変わっていきます。
それは農業だけに限った話ではなく、ほとんどの職業がそうでした。

自然の変化が時間であり、それにあわせて、人びとは生活を送っていました。
もちろん、その生活にも突発的な出来事はありますが、納品の期限の急な変更とは性質が違います。
多くは、(それでも)自然の理による変化で、組織や人の都合ではありません。
昔の人の時間は、自然界の変化そのものでした。
時間と呼吸があった、生活をしていたのです。

今は、「タイム・イズ・マネー」の時代です。
時間の有効活用や賢い時間の使い方が、人生や仕事の目標になっています。
休日も強迫観念のように、有意義な時間の過ごし方を求めています。
区切られた時間やカレンダーが、わたしたちの生活の基本です。
それでも、陽は昇って沈み、季節も変わりますが、もはやその時間と日常は離れています。
わたしたちの毎日は、時計が決めているのです。

時計の時間は、社会的時間と表されます。
自然の時間(変化)とは異なった時間という意味です。
では、わたしたちはいつ頃から社会的時間の中で暮らすようになったのでしょうか。
ここからは回り道になりますが、わたしたちの社会的時間について考えてみたいと思います。

人間が時計を発明したのは、それが便利だからです。
朝の八時は、全国的に八時です。
太陽が射さない部屋にいたとしても、目覚まし時計があれば、朝の八時に起きられます。
待ち合せで朝の八時といえば、誰にとっても朝の八時です。
便利ですね。

もっと便利なのは、仕事を始める時間です。
就業午前八時が規則なら、従業員は八時に職場にいなければなりません。
適当な朝の時間から、仕事を始めるわけにはいきません。
八時と決めた方が、管理もしやすく、生産性も上がります。
その上時計があれば、時間あたりの生産量も計算できますから、無駄な時間を省いて生産性を上げることができます。
まったくもって便利で、「タイム・イズ・マネー」です。



便利であること自体、問題はありません。
時間に追われたり、時間に忙殺されなければ、それはそれで結構なことです。
しかし、わたしたちにはどこかで時間を見失っています。
潤いのない時間に、辟易しています。
時計を発明したのは人間で、その人間が主役だったはずが、いつの間にか時計に支配されています。
この倒立の起源はどこにあるのでしょうか。

それは遠い昔にありました。
六世紀のヨーロッパのキリスト教修道院にありました。
ベネディクト修道院です。
修道院では、時間管理のシステムによって、毎年、毎週、毎日の決まった習慣というかたちで社会的活動が同期化されました。
この時間管理システムの導入によって、革命的な変化がもたらされ、怠惰が許されなくなりました。

規律が厳しいのは修道院の常ですが、それでも怠惰があったので、より合理的な時間管理システムに作られたのです。
怠惰とは、無駄な時間の過ごし方のことです。
この無駄は、神に仕える身にとっての無駄であって、幸いにも時間管理システムは一般に及びませんでした。
普通の人々は、自然の時間で毎日を過ごしていました。

不幸は、それから相当な年月を経て訪れました。
近代、です。
産業資本主義の勃興であり、市民社会の始まりです。
マックス・ウェーバー(社会学者)が論じたように、プロテスタントの倫理は、人々を「自然の衝動」への従属から解き放ち、時間の節約ならびに活動の最大化を志向する主体として育成しました。
そして禁欲的なプロテスタント気質の強い地域ほど、(相反すると思われた)資本主義が発達していきました。
そこから、ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」という産業資本主義の金言が生まれます。
(ベネディクト修道院、ウェーバーの論はジョン・アーリー『社会を越える社会学』を参照しました。)

以上は簡略ですが、時計時間、社会的時間の大きな歴史です。
それに付け加えるとすれば、懐中時計、腕時計(リストウォッチ)の普及があげられます。
これは携帯電話の普及で空間概念が変容したことを考えれば、説明の要はないと思います。
では、小さな歴史、つまりわたしの歴史で時計時間はどのように現われたのでしょうか。

考えてみました。
これも遠い昔で、小学校の入学です。
それまで通っていた幼稚園の、アバウトな時間の流れは断ち切られ、登校日、登校時間、時間割が厳密に決められた生活が始まりました。
授業も、開始と終了のベルで正確に区切られます。
考えてみれば、小学校が義務教育であるのは、当然かもしれません。
やがては一員となる、産業社会の基礎(時計時間)を叩き込まれるわけですから。
学校の校舎に大きな時計があったのは、その所為だったのですね。
(社会的時間の側面から小学校を見てみると、意外な発見で、自分自身で驚きました。)

そんなわけで、大きな歴史と小さな歴史で、わたしたちは社会的時間の中で過ごしています。
「なんてこった!」は、わたしの独り言ですが、近代とは実に罪深い文明ではないでしょうか。

ところが、時間の倒立を今でも進歩と考える人は多くいます。
それどころか、多数派です。
先日テレビで、キャノンの工場のシステムを紹介した番組を見ました。
ビデオカメラの組立工場で、ラインの標準タイムが設定されています。
もし標準を一秒でも下回った場合は、従業員の身体や手の動きを総点検して、そこに無駄な動きがないか調べます。
ちょっとした手の動きも見逃さず、時間を縮める努力を怠りません。
競争に勝つための努力と知恵、といった視点でテレビは紹介していました。

工場のラインの流れる時間は、時計時間です。
それが基準となって、身体の動きが制御されます。
無駄な動きかどうかは時計時間が決めることであり、人間が決めることではありません。
たとえ人間の自然な動きであっても、時間の無駄であれば、動きを変えなければいけません。
つまり、時計は身体の細かな動作まで管理することになります。
(ベルトコンベア導入以来の管理ですが、時間の細分化は極限まで進んでいます。)

これは、やはりおかしいですね。
身体に楽な(無理のない)作業が合理であるならば、納得できますが、時計の支配は違う視点です。
無理であろうとなかろうと、そこに無駄があれば修正させます。
自分自身の身体が、時計によって繰られているのです。
結果として、時間に追われ、心身がストレスの塊になります。

さて、ここから少しずつ美術の話の方向に舵を取っていきます。
前述した吉田健一『時間』には、時間の本質が考察されています。
社会的時間、時計時間ではない、本当の時間について考えてみましょう。



吉田健一によれば、「時間はただ流れている」になります。
長いも短いもなく、何の為に流れているかも分からない。
しかし、人間の意識は時間に依って生まれ、その意識こそが時間の流れを認識して、現在(時間感覚)を作っている。
つまりは、『時間』は意識と現在を中心にした時間の論考です。

ちょっと難しい話ですが、本書において論理と共に興味を惹かれるのが、文体です。
句読点のほとんどない、途中で文意を見失いがちな、独特の文体と言い回しこそが時間を雄弁に語っています。
(それが文庫で、234ページも続きます。)
そう、『時間』を読むことは、流れていく時間を味わうことであり、時間とは何かを体験することです。
そのような意味で、希有の書物といえます。

先に引用した朝に関する一文の後で、吉田健一は次のように書いています。
時計の十時を見て朝と思うのは用向きの上でしか意味を持たないが、光線の具合で朝を感知するのは朝の世界を認めることで、朝の十時を知る知らないに関係なく、朝であるのは世界が朝なのである。
省略した引用ですが、最後の「朝であるのは世界が朝なのである」とはどういうことでしょうか。

吉田健一にとって、世界の基盤は時間の流れです。
時間の流れがあって、世界は成立していると説きます。
朝という状態 を、人間は太陽の光線の具合で、朝と認識します。
しかし、その状態は自然界全体の変化でもあって、動物や植物にとっても、朝です。
山や川にとっても、朝です。

そして、「世界が時間に緊密に結ばれて一つである」状態があります。
状態は固定されたものではなくて、刻々と変化を続け、その総体の流れが世界です。
もちろん、人間の生もその中にあって、時間は常に現在という形で存在します。
「時間がたって行くのを知るのが現在なのである。」
『時間』文中の一節ですが、時の流れが時間であり、それを知りうるのは現在だけという意味です。

「世界が時間に緊密に結ばれて一つである」。
『時間』の中で最も印象的で、時間の核心を突いた言葉です。
その認識を持つことによって、世界との間に一体感、親和性が生まれます。
疎外や断絶がなく、世界の只中で生を育んでいくことが可能になります。
それは、吉田健一の『時間』では、世界観から人生観への転換になっています。

ここで吉田健一から少し離れて、考えてみます。
人間の身体と世界の関係です。
身体を取巻く環境は、自然界です。
人工的環境が増えていても、身体は自然に依存します。
身体の内側は、自然そのものです。

この境にあるのは、意識です。
(ないしは、境を設けているのは意識です。)
しかし、意識のあるなしに関わらず、外と内の自然は交流しています。
主たる交流は、酸素を吸入し、二酸化炭素を吐き出すことです。
呼吸ですね。

酸素は自然界の変化によって、生じました。
地球が生まれた時からあったわけではありません。
ある時、変化が生じ、空気(酸素)が出現したのです。
そして、酸素が必要な生物である人間が、生まれました。
もちろん、時間の流れの中での出来事です。

呼吸は酸素を吸入し、血液によって全身に運搬され、生体活動を維持、促進します。
この活動は時間の流れの中で行われ、停止すると、現在(時間の流れ)が失われます。
つまり死であり、意識にとっても「世界が時間に緊密に結ばれて一つである」状態の終りです。

呼吸の大切さは言うまでもありません。
呼吸は運動で、時間の流れも大きな運動です。
その間には、深い関係があると思います。
ただし、そこに神秘的な事柄を見るつもりはありません。
時間はただ流れているだけですが、人間がその流れと共にあるならば、呼吸は同期の始まりであり、持続になります。
そして、同期がズレれば、呼吸の乱れとなって現われます。

古来からある武道や芸能で、呼吸を重視しているのはご存知ですね。
息を整え、自然体の所作で臨むのが基本です。
自然体とは、力(りき)みを抜いて動作を円滑にし、気の集中を呼び込む体勢です。
異なる視点でみれば、身体を自然の状態=世界と同期する状態におくことが、自然体です。



さて、当間さんは息を整えました。
やっと、美術の話です。
当間さんの雨滴シリーズには、時間があります。
息を整えた時間であり、それは同時に、世界の時間の流れそのものです。

水溜りに降る雨は、極めて日常的な風景で、珍しいものではありません。
しかし、それをじっと眺めていると、そこに時間を見出すことが出来ます。
時間はただ流れているだけですが、雨滴とそれを見ている自分の間にも、同じ時間が流れています。
その緊密性が、雨滴シリーズの作品です。

一般に、映画や音楽、小説などが時間芸術と呼ばれているのに比べて、絵画は時間を含まない二次元の表現といわれます。
しかし問題にすべきは、形式ではなくて、そこに時間が流れているかどうかです。
表現者と世界(時間)に親密な関係があるか、どうかです。
時間の経過ではなくて、作品に時間の流れが存在するかどうかです。
単に過去、現在、未来があるのは、時間の区切りであって、流れではありません。
流れとは、川の流れのように、途切れることなく続く変化です。

例えば、吉田健一は『時間』でこう書いています。
夕方の光線を描く場合、朝と昼を過去として見れば、ただの奇妙な黄色の光線になる。
しかし、朝から夕方まで続く多彩な光線の、刻々と変化する表情の重なりが含まれていれば、それは豊かな眺めであり、これに続く夜の闇も親密なものとなる。

(以上も省略した引用です。)

ここで重視されているのは、時間の流れの中の夕方です。
時間帯として区切られた夕方ではなくて、時間の流れの中で存在する夕方です。
朝が消えて昼になったわけでもなく、昼が消えて夕方になったわけでもありません。
その段階のすべてがあって、その重なりが夕方の光線に艶を生じる。
そう、吉田健一は書いています。

つまり、絵画にも時間の流れは存在するのです。
優れた映画、音楽、小説などが優れているのは、そこに時間の重層的ともいえる流れの変化があるからです。

当間さんの雨滴シリーズで、時間に気付いたわたしは、他の作品を改めて見てみました。
すると、どの作品にも、時間の流れを見ることが出来ます。
これは発見ですが、既に感じていたことでした。
感じていたことですが、その表現を表す言葉や概念が見当たりませんでした。
そこに「時間の流れ」を置くと、実にしっくりときます。

雨滴シリーズは、息の整えと、時間がストレートに描かれた作品でした。
流れる時間の、新鮮さを描いた作品です。
雨の一滴が次第に数を増し、水溜りに多くの波紋を作っていく時間の流れが、画面にあります。
この作品を、色彩や形状で見たとしたら、ただの美しい絵画に過ぎません。

当間さんの作品は、色彩や形状が明確ではありません。
淡い色と不確かな形が、ボンヤリと重なるように描かれています。
しかし、空間を強く感じさせる絵画です。
その中に入って身を委ねたい誘惑に駆られる、心地良い空間があります。

空間を眺めていると、それが静止した空間でないことが分かります。
空間に運動があるのです。
といっても、動きではありません。
流れ、です。
穏やかな、多層の流れです。

透明度の高い画面は、水の流れのようです。
ある時は、それが紋様のような形をとります。
それでも、そこには流れや変化があり、時間が存在します。

当間さんの絵画(というよりは絵)は、景(ながめ)という言葉がびったりします。
絵の当初に具体的なモチーフはあったにせよ、景には具体はありません。
どこの景色でもない、瑞々しい景です。
景は、緩やかでありながら、ほど良い締まりがあります。

絵は、布に絵具を染み込ませるようにして描かれています。
布は、画布ではなく、ごく普通に使われている綿です。
布に薄く溶いた絵具を染み込ませていくと、滲みます。
滲みとは、時間の流れです。
多層の滲みは、多層の時間の流れです。
景の秘密の一つは、そこにあるのかもしれません。


夕方の光に、朝から続く光線の重なりを見るは、優れた眼の持主です。
それこそが美術家であって、それを表現できるのも美術家です。
世界が時間の流れだとしたら、世界を探す必要はありません。
わたしの、現在が世界だからです。
このことに気付いた時、美術家は無縁ではなくなります。
なぜなら、美術家とは、世界の存在が確かなことを告げる人だからです。

ご高覧よろしくお願いいたします。


iGallery企画 「世界」2006
当間裕子展
TOHMA Yuko

2006年12月11日(月)-12月23日(土)
日曜休廊
11:30-7:00pm(最終日-6:00pm)

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