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「Car」


それは二年前の暮のことでした。
長らく乗っていたクルマが故障して、新しいクルマに換えようとしていた時のことでした。
父の病院通いにどうしてもクルマが必要だったので、少し焦ってクルマを探していました。
結局同じクルマの新型を買うことに決めて、セールスマンと話を進めました。

話が一段落して、雑談になりました。
都市部と地方の経済格差が広がる中で、イナカのクルマの売れ行きは芳しくありませんでした。
セールスマンが嘆くには、今の若い人はクルマに興味を持っていないとのことです。
「自分達が若い時は、何が何でもカッコイイクルマに乗りたかったのに」と、セールスマンは溜め息をつくのでした。



わたしが若い頃、セールスマンと同じように、クルマが好きでした。
クルマの先進的なカタチが、クルマの醸し出す豊かさが、ドライブの解放感が、好きでした。
その当時、たとえローンでも若者が簡単に新車を買える時代ではありませんでした。
しかし、若者の多くにクルマへの憧れは存在していました。
とにもかくにも、若者はクルマが好きだったのです。

今、クルマが売れていません。
アメリカのビッグスリーも、日本のメーカーも、ドイツのメーカーも販売不振に喘いでいます。
あのトヨタが、大幅な赤字で日本中を震撼させています。
日本国内に限れば、クルマが売れないのは以前からで、売れない分を輸出と海外生産で稼いでいました。
若者のクルマ離れは、(セールスマンの言葉のように)前から進行していたのです。
トヨタの富士スピードウェイ買収(とF1開催)は、その辺りの事情が大きく絡んでいます。
若者のクルマ離れ、トヨタ離れを、逆の流れに変えようとする投資だったのです。



クルマが売れない。
それには幾つかの理由がありますが、トヨタが恐れたのは、何よりも若者のクルマ離れだったと思います。
その危惧は、間違っていません。

クルマの道具としての機能は、遠い昔に完成されています。
後はその機能を補ったり、洗練させているだけで、基本的な進化はありません。
それでもクルマが売れ続けたのは、クルマが記号として輝いていたからです。
クルマが新しい生活や快適な生活を示す記号として、存在していたからです。
それは具体的には、意匠や造形、過剰な性能で表現されました。

記号を、流行という言葉に置き換えても良いかもしれません。
そう、クルマは洋服と同じように、流行に遅れたらその存在価値を著しく損なってしまいます。
そして、(仕掛けた)流行が流行として実体化するかどうかは、概ね若者の動向で決まります。
多くの流行と同じように、クルマの流行の実体を担っているのは若者なのです。



その若者に見放されてしまったら。
クルマがまったく売れなくなるわけでも、なくなってしまうわけでもありませんが、産業としての地位は大きく揺らぐでしょう。
それを、トヨタは恐れていたと思います。

さて、先ほどからクルマの画像をご覧いただいています。
この画像は広報写真ともいうべきもので、自動車メーカーからメディア媒体に配布されて、Webに掲載されたものです。
主に発売前か発売直後の新車の画像で、それなりに手間暇かけたプロモーション素材です。
今回の掲載には許可を受けていませんので、もし削除要請があったら、ページごと削除する予定です。

画像を見てみると、メーカーの違いはあっても手法はほとんど同じです。
精緻に撮影されクルマ本体と、Photoshopなどで加工された流れるような背景。
恐らくクルマと背景は合成と思われますが、確証はありません。
流れるような背景は、写真が基になっていますが、フィルターで絵画風に変えられています。

メーカーが違っても同じような手法なのは、これがトレンドということです。
それを踏まえての感想ですが、これらの画像には曰く言い難い貧しさがあります。
クルマの描写が精緻であればあるほど、その貧しさは際立っています。
なぜか。
それは、背景の世界がとてつもなく痩せているからです。
そのバランスの悪さが、貧しさを表出させているのです。



画像を貧しいと感じるか感じないか、それは個人の感覚の問題です。
わたしがそう感じたかといって、他の人もそうだとは限りません。
何も、どうとも感じないのが普通かもしれません。
これはクルマのプロモーション画像ですから、クルマさえ精緻に、魅力的に映っていれば良いことかも知れません。

いってみればそういうことですが、もしかしたらこの貧しさがクルマの行く末を象徴しているのかもしれない、と思ったのも事実です。
時代が模索している豊かさと自動車メーカーの提示する豊かさのすれ違い。
あるいは、いつの間にか存在していた、クルマと世界の間の不和。
その時唐突に、クルマの時代が終わったという予感を覚えました。
この方向性を変えられない限り、若者のクルマ離れは止められないでしょう。
かつての豊かさは既に豊かではなく、一歩間違えば、それは貧しさなのです。