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「正義」


人は何処で正義を学ぶのでしょうか?
実人生で、小説で、映画で、テレビで、マンガで・・・・・・。
さて、何処でしょうか。

物心ついたころ、マンガで正義を学んだ記憶があります。
マンガには正義の味方が多く登場しました。
彼らの顔が輝いていたのは、端正な顔立ちに相応しい、正義が内面にあったからです。
成長するにしたがって、映画で正義を学ぶ機会が多くなりました。
チャンバラ映画や西部劇、社会派の映画やヤクザ映画。
最後に訪れる(お約束の)正義の勝利で、安心して映画館の席を立ちました。

いつ頃からだったでしょうか、映画の中の正義に素直に喝采できなくなったのは。
主人公の、ヒューマンでネバー・ギブ・アップの正義に嫌気がさしたのは・・・・。
あの屈託のない善意と正義よりも、屈折した悪の陰りに肩を持つようになったのは、いつ頃からだったのでしょうか。

時代は進み、かつての正義の味方はパロディの対象になり、正義と悪が簡単に二分できないような映画も増えました。
ヒーローの造形も、陰影がないと受け入れられなくなりました。
わたしの暗さと時代が一致したのか、大通りには正義の姿がめっきり少なくなりました。



そんな折に、正義の映画が二本です。
クエンティン・タランティーノ『デス・プルーフ』とロバート・ロドリゲス『プラネット・テラー』。
この二本の映画は、アメリカで二本立てで公開された『グラインドハウス』のそれぞれ一本です。
『グラインドハウス』とは日本でいう三番館のようなもので、B級映画を専らとした映画館です。
つまりB級映画大会と称された興行が『グラインドハウス』で、内訳が上記の二本の映画になります。

二本の映画が、文字通り正義の映画かといえば、言葉に詰まります。
文字通りではないが、内実は正義の映画、と説明する方が正確かもしれません。
もっと正確に説明すれば、良識や善意とは程遠い描写がほとんどだが、映画のどこかに輝く正義があります。
その正義は、裏通りの正義ですが、大通りの正義よりは面白く、信用できます。

ともかく、『デス・プルーフ』のラストでは、思わず拍手喝采をしそうになったほどでした。
その痛快さは、久方ぶりです。
続けて見た『プラネット・テラー』の笑いとアクションも、『デス・プルーフ』に負けない痛快さです。
これはお得な二本(レンタルビデオ)でした。

内容を簡単に説明しましょう。
『デス・プルーフ』はカーアクションスリラー映画で、主人公は変態のカースタントマン。
こいつがピチピチのガールズをつけ回し、自慢のデス・プルーフ(耐死仕様)カーで皆殺しにします。
それが前半、後半は新たなガールズとの死闘(カーチェイス)です。
見事なB級仕立てで、『プラネット・テラー』共々、フィルムの傷(雨降り模様)や唐突なロールの切り替えなどで遊びまくっています。

『プラネット・テラー』はゾンビ映画で、こちらはヒロインがGOGOダンサー。
全編半裸で大活躍。
ゾンビに片足を食いちぎられますが、恋人の解体屋がそこに機関銃を仕込みます。
ゾンビの大群が襲ってくると、仰向けになり、喪失した足を上げて、機関銃を乱射。
丹下左膳も座頭市も真っ青な、痛快活劇です。

『プラネット・テラー』は大スプラッター(大爆笑)映画ですが、見終わるとなぜか爽快感に満たさます。
ロドリゲスの前作『シン・シティ』で全開になった、独特の美意識も健在です。



わたしはB級映画のファンでもマニアでもありません。
大昔に見たB級映画は映画体験の基礎になっていますが、思い入れはありません。
しかしわたしの好きな監督は、なぜかB級のセンスを映画に取り入れています。
ティム・バートン、コーエン兄弟、タランティーノにロドリゲス。

今やメジャーか準メジャーな監督ですが、初心を決して忘れない人たちです。
映画とは嘘で、嘘であることに照れずに、嘘をつく。
その姿勢は一貫しています。
その嘘は、感動映画やリアリズムの嘘臭さの反対側にあって、正直です。

もし貴方が『デス・プルーフ』と『プラネット・テラー』を見て正義を覚えなかったら、貴方の好きな言葉に置き換えて下さい。
愛でも真でも善でも、何でも良いです。
それでもシックリ来なかったら、相性が悪かったと諦めて下さい。
くれぐれも、わたしを責めないで下さい。
騙されたと思って、余裕で笑顔の一つも浮かべて下さい。
映画とは、そういうものですから。