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iGallery's eye vol.5
永冶晃子展ー時間を思う場所ー
テキスト

 

WebサイトのiGalleryは、iGallery's eyeという展覧会を企画してまいりました。
今回、vol.5として永冶晃子展ー時間を思う場所ーを開催いたします。

本展のサブタイトルはー時間を思う場所ーです。
永冶さんの表現の特質を簡単に挙げれば、水と時間をテーマに扱っていることです
2006年に藍画廊で開催された永冶さんの個展も、水の景色が映し出され、そこから時間が浮かび上がってくる展示でした。
この小文では、時間に焦点を絞って考えたことを綴ってみます。
執筆時点では永冶さんの作品は見ていないので、作品とクロスするかどうか不明ですが、観賞の一助となれば幸いです。

タイムマシンという機械があります。
想像上の機械ですが、誰でも知っている機械です。
時間軸を自由自在に移動して、好きな過去や未来に行ける夢の機械です。
この機械の存在が有名になったのは、1895年に刊行されたH・G・ウェルズのSF小説『タイム・マシン』からです。

テレビの普及期(1960年代)に、『タイムトンネル』というアメリカのテレビドラマがありました。
当時このドラマの影響力は強く、タイムマシンをこの番組で具体的(概念や構造)に知った人も多いと思います。
かく言うわたしもその一人で、トンネルの向こう側に想像力を馳せました。
タイムマシンには、時間を自由に行き来するという、人類の夢が込められていました。

H・G・ウェルズの『タイム・マシン』が刊行されたのは、産業革命の後です。
産業革命によって移動手段が一気に飛躍し、空間の移動が格段に拡がりました。
科学万能主義が加速して、今度は時間軸の拡張として、タイムマシンは夢想されました。
科学と技術によって、人間は、空間も時間も思いのままにできると考えたのです。

小説『タイム・マシン』が旅立っていく舞台は遠い未来です。
わたしは未読ですが、その未来は予想外に陰惨で、ウェルズの時代の資本主義の階級構造の結果として描かれているそうです。
SF小説の描く未来が暗いのは、さほど珍し事ではありませんが、タイムマシンの存在自体には影が落ちませんでした。
タイムマシンは夢の機械として、その後も人々の想像の中で生き続けました。

わたしたちは今、時間に追われた生活を送っています。
あっという間に一週間が、一月が、一年が経ちます。
それが、年々速くなっているような気がします。
歳の所為ばかりとも思えない、時間の経ち方です。

どうしてなのか、考えてみました。
時間の経過を速く感じる原因は、わたしたちの現実の希薄さと関係がありそうです。。
わたしたちはカレンダーに予定を書き込み、それを消化することで日々を送っています。
直線上にある遠い未来から、今から一時間後の未来まで、視線は常に未来に向いて生活を組み立てています。
今という現在は、その過程としてしか存在していません。

産業革命は、大量の人やモノの空間移動を可能にしました。
しかも、それ以前とは比べ物にならない短時間で。
都市に建てられた工場には、農村を出た農民が大量に就労しました。
彼らが住み着いた都市や郊外は、農村と違って、いつまでも仮の地としてしか意識されません。
生活の場であっても、その土地と自分の繋がりを見出せないからです。

産業革命は、何よりも効率的な大量生産を目的にしています。
時間あたりの生産量がその目安であり、その為には、時間を徹底的に管理することが必要です。
そう、あの「時は金なり」です。
このムダな時間を省く指向は、現代のトヨタのカイゼンまで脈々と流れています。



産業革命による資本主義、市場経済の浸透は、それまでの時間の観念を変えました。
時間を数値として捉え、計画の中にその数値を流し込んで、わたしたちの行動を時計時間で決めていったのです。
そして視線は常に、一時間後から一週間後、一ヶ月後、あるいは数年後に向いています。
その結果、わたしたちは今という現在に生きながら、その実感に乏しい生活を送ることになりました。

旅行会社のパンフレットには、美しい洋上の南の楽園(リゾート)が載っています。
その写真には「豊かな時を過ごす」というコピーが添えられています。
南の島の浜辺で、何もせず、ひたすら身体を横たえて、爽やかな風と共に過ごす時間。
ここで謳われているのは、人と時間の親密な関係、経過です。
つまり、パンフレットの商品は現在という濃密な時間で、ここで貴方は時間を取り戻すことが出来ますよ、という意味なのです。
それは逆説的に、日常における現在という時間の希薄さを証明しています。

観光は、時間ばかりか、喪失した空間までも提供します。
わたしたちは大地と人の繋がりを求めて、遥かなる僻地に足を運びます。
そこに自分(と人類)の存在証明があるかもしれぬ期待を抱いて、歴史的な遺産を巡ります。
あるいは、自然の只中で、自分の生を確かめようとします。
これも逆説的に、日常生活の中に、生や存在を確認できる空間がないことを証明しています。

わたしたちは今、当たり前のように時間を認識しています。
過去、現在、未来へと直線上に伸びる、時間の認識です。
その認識の歴史は意外に浅く、産業革命が大きな契機になっています。
その昔、地球上の多くの地域では、時間は円環や往復の運動として捉えられていました。
そこでは、人の生と死は過去、現在、未来の直線上ではなく、現在という時間に同時に存在するものでした。
現在は、過程ではなく、時間の要(場)のようなものとして機能していました。

タイムマシンは、夢の機械です。
しかしその夢は、現在という時間と引き換えに得られたような気がします。
皮肉なことに、タイムマシンが想像された時代から、わたしたちは時間に囚われるようになりました。
時間からの自由を可能にするタイムマシンの誕生は、それが発想された時代と無関係ではありません。
その前提となった直線的な時間軸は、その時代の産物であり、数値となった時間は現在を見失ったのです。


わたしたちの頭は、直線上の時間に馴れすぎていないでしょうか。
充実した時間を取り戻す為に、旅に出るのも良いでしょう。
リフレッシュして、時計のネジを巻き直すことも必要です。
しかし、もっと必要なのは、時間そのものを再考することです。
時間とは何か。
それを考えて、現在という時間を自分の手許に引き寄せることだと思います。

2009年6月 iGallery ふくだ まさきよ

(掲載画像は実際の展示作品とは無関係です。)

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