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「探偵物語(85)」


今年の夏は記録的な猛暑でした。
その所為ではないと思いますが、仕事がバッタリと暇になってしまいました。
もともと少ない調査の依頼が、夏以降めっきり減ってしまったのです。
ネコもあの猛暑で出歩かなくなったのか、ネコの捜索依頼も来ません。
そうなると、一日事務所で来客と電話を待つしかありません。
あの暑さでは個人的な探索も出来ないし、その余裕もありません。
今夏はエアコンの音を聞きながら、事務所のイスに座り続ける日々でした。

(残念なことに、夏が過ぎた今になっても、イスに座り続ける日々ですが・・・・。)



そんなわけで、今回お見せする写真は今年の春から初夏に撮影したものです。
仕事中にこっそり撮ったものもありますが、大半はプライベートな探索中に撮ったものです。
それをご覧いただきながら、近頃感じていることでも書いてみたいと思います。
よろしかったら、お付き合い下さい。

上の写真、廃屋のようにも、現役の農業の納屋のようにも見えます。
確かめませんでしたが、あまり使われている様子はありません。
建て増しの形状と、様々な建材の混合具合が面白く、トタンの色褪せた様子が目を惹きました。
こういう建物を見ていると、なぜか安心します。
アンバランスな形体とは裏腹に、人間的な温もりを感じるのです。



さて、時代を10年ごとに区切ることに、どれほどの意味があるのか分かりませんが、この10年の変化は大きいことは確かです。
21世紀という、かつての未来が現実になってから10年。
世の中の中身は大きく変化しました。
その変化から比べれば、20世紀の最後の30年ぐらいは、比較的なだらかなカーブで過ぎていったような気がします。
あのバブルという大きな変動、そして、その後の予想を遙かに超えた後遺症。
しかし人間の内面や人間と社会との関わりには、大きな変化はありませんでした。

それは60年代末の激震と地続きで、そこから質的に変化したわけではありません。
揺れが大きくなっただけで、人間の中身に及ぼした影響はそれほどでもありませんでした。
ここ10年の質的な変化は、いうまでもなくインターネットと携帯電話に代表される情報通信技術によるものです。
丁度10年ほど前からインターネット(主にWebとメール)と携帯電話が一般に普及し始め、そこから加速度的に世の中が変わり始めました。
それは想像以上に、世の中の構造と人間の内面を変えていきました。


例えば、テレビ局という事業は今や単独では成り立たなくなってしまいました。
テレビは20世紀の情報通信を大きく変えたメディアです。
そして、新聞と並んでマスメディアという一つの権力に成長しました。
そのテレビが、テレビ局の収入(広告収入)だけではやっていけなくなったのです。
映画やテレビ番組に付属する版権ビジネスなどで収入源を補っています。

そしてその権力もかつての勢いはありません。
インターネットで次から次に現れる情報のサービス(SNSやTwitterなど)に、主役の場を奪われてつつあります。
情報の速報性や多様性において、インターネットの進化のスピードが圧倒的だからです。

ITの世界では、テレビに代わる権力が発生してきました。
それは、今はGoogleという名前の権力です。
この権力は、テレビのような単純な権力ではありません。
国境を跨いで、世界中にフラットに浸透していく権力です。
そしてその権力の大きさ、影響力も、テレビの比ではないかもしれません。
そういう権力が、わたしたちの日常に空気のような形で存在しています。



権力といえば、Amazonのような突出したWebショップも一つの権力です。
その圧倒的なスケールメリットを活かした商法と、徹底したサービスと情報力は脅威といえます。
この権力にも国境はなくて、フラットに世界中に拡大していっています。

わたしの事務所はK市の中心部から少し離れたところにあります。
駐車場の確保と賃料の関係もあって、そうなりました。
今、県庁所在地であるK市の商店街はゴーストタウンのような有様です。
日曜の昼日中に行ってみたら、人がほとんど歩いていません。

それは、郊外のショッピングセンターとAmazonのような通販に客を奪われたからです。
そのショッピングセンターも、大概は大手の全国資本の系列です。
ショッピングセンターの中でも、勝ち組と負け組があります。
ユニクロやヤマダ電器のような量販店だけが潤っている構図が目立ちます。



再び、前掲の写真のモノクロヴァージョンです。
わたしはこのような風景がよほど好きなのでしょう。

21世紀から10年、この間の人間の内面の変化。
これをうまく説明することはできません。
一介の探偵の手には余ることですが、60年代末の激震以来の変化であることは間違いありません。
ただし、その揺れ方は大きく違います。

近代以降、自分が何者であって、どこから来て、何処へ行くのか、常に問われてきました。
それが深刻化したのが、近年でいえば60年代末です。
そしてその深刻さが一層増したのが、この10年と言うことはできます。
あらゆるモノや情報を消費しながら、自身の不在が進んでいきました。

考えてみれば、わたしの個人的な探索(探し物)とは、その不在を回復する手がかりかもしれません。
街の中に、かつては存在したであろう確かなモノを求めて、右往左往しているのです。
そこにあるのかどうかも分かりませんが、わたしにはそれしか方法がないのです。

郊外のショッピングセンター。
いずれそれも淘汰されて、廃墟となるショッピングセンターが出現するでしょう。
そこには、時代の荒廃と、不在の確かな証拠が残っていると思います。