iPhoto



「iPhone's photo(22)」


iPhoneを3Gから4に換えたので、付属のカメラも大幅に性能が向上しました。
画像は、明らかに鮮明になり、ノイズも少なくなっています。
画素数も500万と携帯カメラの特質と性能に見合った数値です。
これがむやみに大きいと、画像のどこかに無理が生じたり、アプリでエフェクトを施した場合、処理に長い時間が掛かってしまいます。



上は無造作に撮影した、手を加えていない、レタッチなしの画像です。
この程度に写れば、ヘタなコンパクトデジカメは不要のように思えます。
デジタルズームも付いていますが、これは(少し使った感じでは)実用的ではありません。
ともあれ、3Gの最低ラインのカメラから、普通のデジタルカメラになったことは間違いありません。
(3Gが最低ラインだったので、逆にトイカメラ的な使い方の楽しさはありましたが。)



ガソリンスタンドです。
住居の近くにあるESSOで、いつもここでガソリンと灯油を調達しています。
しかしこのスタンド、数週間前から休業中の掲示があって、営業を休んでいます。
スタンド事務所の前の貼り紙には、長期の休業と記してあります。

ここ数年、多くのガソリンスタンドが有人サービスからセルフサービスに変わっています。
当然セルフの方が安いので、客はセルフに流れています。
そうでなくても、ガソリンスタンドの経営は厳しいと聞いています。
ここのESSOのオーナーは高齢の方ですが、サービスの先頭に立っていました。
もしかしたら、オーナーの健康問題が休業の発端かもしれません・・・・。



過日、『ドボク・サミット』 という本を読みました。
内容を紹介記事から転載してみます。
《ダム、工場、団地、ジャンクション、鉄塔、水門など、見られることを意識しない「土木的な」巨大建造物に魅せられた名物鑑賞者たちが一堂に集結、サミットを開催!2008年武蔵野美術大学で開催された模様を収録。さらに、それぞれの対象をどのように発見し、伝導してきたのか。人びとが魅了されてならない、その人気の秘密とはなにか?「ドボク」の現状と未来を語る。》

いわゆる「工場萌え、コンビナート萌え」などに代表される、「ドボク」の魅力を熱く語り合った本です。
「ドボク」という総称もユニークですが、「サミット」という会合名も遊びがあってナイスですね。
しかもサミット会場が武蔵野美術大学。
その風変わりなマニアックさと、自己を相対化する遊び心とが、いわゆるオタクとは違った面があります。
最近では一般にもすそ野が広がって、夜のコンビナートや工場を海から見学するナイトクルーズも流行っています。
かくいうわたしも、上記のドボク関係には興味を持っていて、iGalleryにも多くの画像を掲載しています。
鉄塔やダムなどの画像をご覧になった方も多いと存じます。



その「ドボク」関係者には、ガソリンスタンドを愛好の対象にしている方がいるそうです。
頷けます。
わたしもガソリンスタンドの形態にはとても興味があるからです。
最新の直線を基調とした、モダニズムを体現したようなガソリンスタンド。
もしくは、アメリカの街道筋の田舎町にありそうな、古びた小さなガソリンスタンド。
そのどちらにも愛着を感じます。



上は休業中のスタンドのタイヤコーナー。
すでに商品(タイヤ)は片付けられれていて、空っぽの状態です。
映画などで見ると、アメリカの田舎町ではスタンドに雑貨屋が併設されていて、独特の雰囲気があります。
たしかコーエン兄弟『ノーカントリー』では、その雑貨屋で、殺し屋と老主人の息詰まるようなシーンが展開されたと記憶しています。
コイントスで殺し屋が一方的に生死を賭けさせる場面でしたが、その緊張感と恐ろしさで、身体が映画館のイスに縛り付けられました。




ガソリンスタンドはガスステーションとも言います。
ステーションの直訳は駅ですが、スタンドには鉄道の駅のような役割もあります。
ガソリンを入れる間、サービスマンとの間には短いコミュニケーションもあります。
あっそうそう、映画といえば、カトリーヌ・ドヌーブ主演の『シェルブールの雨傘』では、ガソリンスタンドは重要な舞台でした。
セルフサービスのスタンドでは、このようなドラマは生まれ難いでしょうね。

ともあれ、長年使っていたスタンドが休業となれば、近所のセルフを使うしかありません。
初めてセルフでガソリンを入れようと思ったら、案の定、やり方が分からない。
係員を呼んでお世話になりました。

いつの間にかETCに馴れて、料金所のささやかな触れあいが消え、スタンドもサービスなしで一人作業。
普段は気にしないような小さな接触が、徐々に少なくなっていきます。
そのうちコンビニもセルフレジ(会計)になるでしょう。
人がいなくなるのと反比例するように、マニュアルに添った、過剰なコミュニケーションを押しつけられる場面も増えています。
人と人との適度で普通な距離が、難しい時代になりつつあるようです。