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「探偵物語(82)」


30年ぶりに、多数の人と再会しました。
初めて、高校の同窓会に出席したのです。
高校卒業後上京し、大学と就職が東京で、その間に実家の引っ越しがありました。
そのために、同窓会やクラス会の案内が届かず、その存在を知らずに過ごしてきました。

ところが先日、ある会合がきっかけで同窓会の幹事を紹介されました。
今年は卒業後30周年ということで、是非参加して欲しいと誘われ、出席することにしたのです。
わたしは仕事以外の付き合いが少ない方なので、高校の同級生とは滅多に会いません。
それに愛校心もないので、そういった催しにも興味がありませんでした。

30年ぶりに会う、同級生。
その変貌は、楽しみのような怖いような・・・・。



わたしの卒業した高校は同窓会が盛んで、毎年催されています。
大まかな卒業年度単位に会場が区切られていて、そこで歓談し、後半は大きなホールでアトラクションなどが行われます。
わたしたちは卒業後30年ということで、特別に歓談ブースが設けられていました。
しかしわたしが知った顔はごくわずかです。
しばらくすると、何人かに話しかけられ、遠い昔の思い出が蘇ってきました。
それと同時に、知った顔が次々に増えていきました。

予想通りに歳を取った人もいれば、そうでない人もいます。
ただし残念なのは、不良系の同級生の姿がほとんどなかったことです。
どのクラスにもいた、ツッパッた生徒たち。
彼らの大いなる変貌も見たかったのですが。



歓談の時間が終わる頃、一人の女性から話しかけられました。
わたしの名前を確かめると、彼女は自己紹介しました。
聞き覚えのある名前で、徐々に当時の彼女のことが思い出されました。
お互いの近況に話が移り、わたしの職業が探偵と知ると、急に顔を近づけて小声で話しかけてきました。
「ちょっと頼みたいことがあるの」。

数日後、彼女はわたしの事務所にやってきました。
依頼は失踪人の所在確認です。
調査対象は、夫。
いや正確にいえば、元夫で、二年前までは内縁の夫。

結婚は20数年前で、それから数年で離婚し、いったんは無縁になったそうです。
ところがお互いがお互いを忘れられず、二年後に再婚。
しかし性格に不一致なところがあったようで、それからは離れたりくっついたりの繰り返し。
結局籍は別々の、ややこしいい内縁関係を五年前から続けていたようです。
幸いなのかどうなのか分かりませんが、子供はもうけなかったそうです。



二年前、男は忽然と姿を消しました。
彼女の勘(と経験)では、女の影が見え隠れしていたそうです。
二人の関係だけ聞くと、彼女と男はまともな生活を送っていないように思えますが、実際は二人とも実直な職業人です。
ただ、関係だけが常軌を逸しているのです。

この種類の調査は難しくありません。
失踪した年月が比較的最近ですし、交友関係も複雑ではない。
幾つかの線を辿っていけば、そう時間がかからず、所在は確認できます。

わたしは同級生という親しさから、所在確認の動機を彼女に尋ねてみました。
ほんの少しの沈黙の後、「一人だったら会いたいし、誰かと一緒ならどうでもいい。」とうつむきながら答えました。
わたしは同級生のよしみで、若干のディスカウントで調査を引き受けました。
(本来なら実費だけでやってもいいのですが、今の事務所の経営事情では・・・・。)



彼女の勘は、当たっていました。
男は女と生活していました。
しかし、それは過去のことでした。
男は、一年前に死亡していました。

心不全、突然死です。
彼女とは離婚状態だったので、何の連絡も行かず、葬儀も行われなかったようです。
男は、元々が親族や親戚関係とは縁が薄かったようで、そちら方面からの連絡もありませんでした。

わたしは報告書を書きながら、ふと妙な考えに囚われました。
もしあの時同窓会で彼女と会わなかったら、今回の調査はなかったでしょう。
つまり、男の死を知ることはありませんでした。
もちろん、彼女がわたし以外の探偵に依頼する可能性は否定できません。
何かの拍子に、そうなることは予想できます。
しかしそれが何年後になるか分かりませんし、あるいはそのままになることも充分考えられます。

そういえば、今回の同窓会で、逆のケースがありました。
以前、事務所である依頼人と世間話をしていた時のことです。
その人の仕事場が高校の同級生の実家の近くだったので、級友の様子を聞いたのです。
驚いたことに、五六年前に癌で死んだというのです。
これはちょっとしたショックで、人の一生について少しばかり考えさせられました。

ところが、その級友が同窓会に来ていたのです。
しかも、昔とさほど変わらぬ顔つきと、姿形で。
あれは誤報だったのか、それとも話の食い違いだったのか。
しかも彼の現在の職場は、わたしの住居と同じダイナマイトシティ。
皮肉な話といえば、話です。



知人に、不幸にして、若くして死去した子を持つ親がいます。
その親御さんは、「息子は死んだわけではない、東京に居て、帰ってきていないだけだ」と自分を無理矢理納得させるそうです。
そうでも考えないと、身が持たないそうです。
その気持ちは、解ります。
死とは永遠の不在で、その不在が空間だけの問題だけだったら、不在を受け入れられるからです。

男の死を告げると、彼女の表情には微妙な変化がありました。
諦めと未練が同居したような、複雑で微かな変化でした。
感情を押さえているは、わたしにも分かりましたが、それは彼女の精一杯の意地だったと思います。
事務的な報告書の受け渡しと精算が終わると、丁寧に礼を述べて、彼女は事務所を後にしました。



わたしは街を、個人的に探索しています。
何を探しているのか分からず、それでも、徘徊しています。
そして時々、つい最近まであった建物の喪失に出会うことがあります。
見事なほどに更地になった、その建物の跡。
それが旧ければ旧いほど、その空間にあった時間を想像します。

不在とは、本来いるべき場所にいないことです。
しかし、その場所に限定がなく、不在が永遠であれば、それはある種の哀しみです。
その哀しみは人間だけが持つ感情ではないかもしれません。
それでも、その不在に死という言葉と意味を与えたのは、人間だけです。