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「iPhone's photo(19)」


今、情報通信関連の話題では、何といってもTwitterとUstreamでしょうね。
特にTwitterは、社会現象といってよいほど注目を集めています。
ブログやmixiがブレイクした時か、それ以上の盛り上がりです。

しかし困るのは、一般の人に、肝心のTwitterがどういうものであるのか解らないことです。
これはブログの時もそうでした。
言葉で説明されても今ひとつ理解できず、実践してみて、やっとそれが何であるか解り始めます。
そして、その利用者数がある時点(ブレイクポイント)を越えると、日常として認知されます。



わたしはTwitterについてはよく知りません。
それに関するベストセラーの新書も読みましたが、今一つ理解できません。
概略は分かっても、Twitterの面白さの核心の部分が不明なのです。
ただ、それがコミュニケーションと、情報の速報性(LIVE)の革新であることは察しが付きます。

しかしながら、情報通信の流れの速さには、今更ながら驚きます。
今ここでわたしが書いているWebページ(ホームページ)などは、Twitterに比べれば、化石のように思えます。
でもわたし自身は、気の向いた時に自由に書けて、画像も挿入できる、このスタイルが気に入っています。
おなじ「つぶやき」ですが、Webページで妄想的な独り言を綴っている方が向いているようです。



突然、(Twitterとはまったく関係ない)上の画像の話です。
ドラム缶、積んであると素通りできません。
ついiPhoneで撮影してしまいます。
ドラム缶では、現代美術のクリストの作品が有名です。
その作品のスケールの大きさには圧倒されますが、上のような少量の展示(?)もなかなかです。
ドラム缶はカタチもですが、そのペイントに捨てがたいものがあります。
メタリックではない、プレーンな塗装に惹かれます。
その塗装が古びてくると、又色合いに味が出てきます。

話を戻します。
Twitterのセールスポイントは、ゆるい繋がり/コミュニケーションです。
メールのように返信する必要がないのが、特徴の一つです。
あくまで「つぶやき」ですから、それに即して対応すればよろしいのです。
世の中の流れは、自分の都合を優先するような方向に行っています。
(消費の上位には、そういうツールや機器が多くあって、売れています。)



Twitterはコミュケーション(発信)のツールです。
それだけがTwitterの特色ではありませんが、コミュニケーションを中心に置いているは間違いありません。
それは便利であるばかりでなく、現代人の人心を突いた何かがあるから、ブームになっていると思います。
前述したように、わたしには、その何かが理解できていないので、Twitterの話はひとまず置いておきます。
問題をコミュニケーション全般に広げて考えてみます。

コミュニケーションとは、人間同士の意思や思考や感情の伝達です。
人間は一人では生きていけません。
人間は社会的動物であって、社会という集団を形成して生きていきます。
その時に必要になるのが、コミュニケーションです。



コミュニケーションが発生するのは、いうまでもなく、生活の場です。
その昔は、コミュニケーションツールなどというものはなくて、直の人間と人間の間にしかありませんでした。
それから文字の発明や紙の発明があって、大きくコミュニケーションの形態が変わっていきました。
それに輪をかけたのが、グーテンベルグの印刷機です。
これがキリスト教の宗教改革に大きな影響を及ぼし、ひいては近代という時代を用意しました。

話をはしょりますが、双方向、即時という点では、電話は画期的なコミュニケーションツールでした。
と同時に、今の時代に続くコミュニケーション不全の始まりでした。
(私見ですが)電話という<ネットワーク>の拡がりが、今日の生活に大きな影響を及ぼしました。



今の時代、コミュニケーションが上手く取れない人間が増えているそうです。
それは他人事ではなくて、多かれ少なかれ、大多数の人間が抱えている問題です。
家族や職場や学校の状況を考えれば、この論はさほど間違っていないと思います。
他方で、コミュニケーションの範囲だけは飛躍的に広がっています。

ここで携帯電話の話を持ち出せば、もうこれ以上書くことはありません。
コミュニケーション不全の原因を、携帯電話に特定すれば簡単だからです。
ですからあえて携帯電話やパソコンに特定せず、コミュニケーショーンツール(メディア)全般に話を広げます。
つまり、コミュニケーションを手助けして、利便性をはかるツールが発達すればするほど、コミュニケーションが不全になっていくという現象の問題です。



コミュニケーションを円滑にしようとするツールが、逆にコミュニケーションを阻害(疎外)する。
これは何とも皮肉な現象ですが、わたしたちの抱えた問題です。
前述したように携帯電話にそれが顕著です。
Webのページもブログもmixiも、双方向のコミュニケーションツールとしては、程度の違いはあっても、同じことがいえます。
話題のTwitterも、同じです。

コミュニケーションを計りやすくするコミュニケーションツールが発達すると、コミュニケーション不全が増える。
この因果関係を詳細に論じることには、今興味がありません。
ただわたしはそう思っているだけで、それが間違っているとは思っていません。
興味は別のところにあります。



再び記しますが、コミュニケーションが発生するのは生活の場です。
問題の在りどころは、その生活の場です。
そこにコミュニケーション不全の真の原因があるような気がします。

情報通信やツール、メディアの進化の速さには驚きますが、生活の変化も戦後は急激に起きています。
基本の生活の場である家庭は大きく様式や意識を変えました。
職場、学校も変わりました。
その変化の根底にあるのは何でしょう。

わたしは経済だと思います。
上部構造、下部構造といった難しい話ではなく、戦後の経済の動向が生活の場を変えたと思います。
恐らく、歴史上これほどの短期間で生活の場が変動した時代もないと思います。
市場経済、消費経済が戦後の短い期間に日本の全国津々浦々に浸透しました。
日本の景色がどこに行ってもそう変わらないのが、その証拠です。



生活の場の経済の変化は、少しずつ、知らず知らずにコミュニケーションの量と質を変えていきます。
人と人の距離が広がって、コミュニケーションは間接的になります。
そうなると、それを補うツールが出てきますが、そのツールはあくまでも個人(私)的ツールとして普及します。
個人が快適に使えるツールとして登場します。
その快適さ、利便性が、コミュニケーションの補助と同時に不全を招きます。
そしてその不全さは、結構性質(たち)の悪い不全さになる場合があります。
悪循環というヤツです。

三段論法でいけば、コミュニケーション不全を解消するには、まず生活の場を変えなければいけません。
それが一番面倒でも、順序からいけばそうなります。
もちろん、社会のコミュニケーション不全に興味のない方は、あるいはコミュニケーションが健全に機能していると思っている方は、生活の場を変える必要はありません。
さしでがましいようですが、そのままで結構です。

どのように生活の場を変えるか。
それは無責任のようですが、自分自身で考えるしかありません。
しかも根が深い問題なので、とても厄介です。
でも、考えるしか方法はありません。