先週は佃島界隈を歩きましたが、今週は対岸の明石、築地から、勝どき橋を渡って月島方面に向かってみることにしました。
今朝も晴天で風もなく、散策には絶好です。
整備された岸辺の公園には、朝の暖かい陽が射していて、エサに群がる鳩と、ベンチにはホームレスの人々。
明るさと陰が同居している、今時の典型の風景です。
勝どき橋を徒歩で渡るのは初めてですが、思ったより短い距離で、勝どきに着きました。
橋から見る明石、佃島方面は、やはり壮観で、超高層ビルのスカイラインが青空に映えています。
晴海通りを真っ直ぐ行くと、最初の交差点の角に、古い区立月島第二小学校があります。
辺りには超高層ビルが建っていたり建築中で、この古い小学校は余計に目立ちます。
なおも晴海通りを直進すると、地下鉄の駅から流れてきた人々と合流しました。
かなりの人数で、男女とも皆ビジネスマン/ウーマンで、早足です。
どこに行くのかと思って後について行くと、晴海トリトンというオフィスタワーに吸い込まれて行きました。
晴海トリトンは運河の向うで、トンネル状の橋は動く歩道になっています。
上は、動く歩道で移動しながらのショットです。
運河の右側は超高層のオフィスタワーと商業施設、集合住宅で構成された晴海アイランドトリトンスクエア(長い名前!)になっています。
先ほどの動く歩道の橋(トリトンブリッジ)を渡ると、住所は勝どきから晴海になります。
晴海には、遠い思い出があります。
今日はその話をしながら、晴海、月島、石川島の運河の画像をご覧いただきたいと思っています。
晴海といえば、その昔は東京国際見本市会場が有名でした。
なかでも、そこで開催される東京モーターショーは多くの観客を集めました。
又、コミケの会場としてもオタクの間では知れ渡っていました。
東京国際見本市会場は老朽化に伴い、1996年東京ビッグサイトの完成で閉場され、役目を終えています。
わたしは小さい時からクルマが好きでしたが、東京モーターショーに行ったのは一度きりです。
しかしその思い出は鮮明で、今でもハッキリ記憶にあります。
その東京モーターショーでは、初代の三菱デボネアが発表されました。
Webで調べてみると、モータショーでの発表は1963年になっています。
東京オリンピックの前年です。
(当時の呼称は「全日本自動車ショウ」という時代かかった名称でした。)
その時わたしは中学生で、父と叔父に連れられて、山梨から晴海まで出掛けました。
今振り返ると、1960年代中期は日本のモータリゼーションが開花した時代です。
性能や信頼性が格段に進歩し、何よりもクルマのスタイリングに夢が芽生え始めました。
ズングリムックリの山型スタイルから、四灯ヘッドライトのスマートなスタイルに華麗に変化しました。
夢のアメリカ車と同じようなものが、日本にも誕生したのです。
そのシンボルが、あのショーでは三菱デボネアでした。
それもそのはずで、デボネアはGM出身のアメリカ人デザイナーの手によるものだったのです。
翌年発売されたデボネアは、わたしの予想に反して販売不振で、後年、三菱系会社の専用車と陰口を叩かれました。
まぁ、売れなかったは、それなりの理由があったんでしょうね。
ともあれ、1964年の東京オリンピックと時を同じくして、日本の自動車産業は大きく花開いたのでした。
その数年後に大衆車のカローラやサニーが発売され、クルマを所有することが一般的になっていきました。
そして、東京と地方の生活は徐々に変化をとげていきます。
とりわけ、地方は劇的ともいえる変化の波を受けることになります。
あのモーターショーでは、クルマ以外の思い出もあります。
それは東京国際見本市会場のレストランで食べたパスタ(スパゲッティ・ナポリタン)です。
その不味さは空前絶後で、オリンピックで世界にデビューした日本の、まだ残されていた貧しさを象徴していました。
現代の豊かさの歪みから見れば、貧しさには学ぶことが多々あります。
しかし味気なく平均化された外食(美味くも不味くもないファミレス)には、極端な不味さはなくなりました。
貧しい時代の日本には、(今から見れば贅沢な)ごく普通の美味と同時に、極端な不味さもありました。
貧しさも様々で、ただ単に乏しいだけが貧しさではありません。
クルマに乗ることが日常になれば、行動範囲はぐっと広がります。
好きな時に、行きたいところに行ける自由を手に入れられます。
その自由が、日本を、特に地方を疲弊させるとは、あの時の晴海では想像もつきませんでした。
モーターショーの会場のクルマの輝きの先に、確かに豊かさはあったのですが、それが及ぼす変化には気がつきませんでした。
今、日本の産業界をリードするトヨタがピンチです。
景気の変動と産業の構造的変化(電気自動車などへの移行)で、先行きが見えません。
産業の自動車関連への偏重は、国ばかりではなく、地方でも顕著です。
地方の幹線道路(バイパス)を走ってみれば、クルマのディーラーや中古車業者、用品業者の多さが目につきます。
町中にも自動車修理工場が必ず一つや二つはあります。
それに、自賠責や任意保険の代理店。
一家に一台から、地方では一人に一台の時代です。
それの購入費用と維持費は相当なものです。
収入の少なからずは交通費が占めています。
あの晴海の時代から、随分と時が経ち、生活の質も変わってしまいました。
地方都市のシャッター街は、今や珍しく何ともなくなりました。
郊外の大型量販店に押されて、格差は広がる一方です。
地方はクルマ社会ですから、駐車場がない小店舗は競争相手にならないのです。
その点では、東京の個人商店はまだマシな方といえます。
しかし、クルマのもたらす豊かさの真の陰は、人の心に係わる問題です。
その移動の自由さ、行動範囲の広がりは、日本全土をフラットにして行きました。
そして地域の独自性や共同体を解体し、ただ平らな地平だけが残ります。
テレビの普及と共に、クルマは日本の国土と人心を知らず知らずに変えて行きました。
人とモノと情報の、大量の移動は、確実に人の何かを変えてしまったのです。
この橋は清澄通りの、月島と越中島にかかる橋です。
晴海から運河沿いに月島に行き、この橋の下を通ると石川島になります。
石川島は超高層ビルと岸辺の公園だけで、他に見所はほとんどありません。
運河沿いを歩きながら、昔の晴海に思いを馳せてみました。
東京モーターショーは現在幕張メッセが会場になっています。
そのモーターショーも今後どのような形になるか、不透明です。
自動車産業自体が構造的な変革期なので、予想がつきません。
しかし、自動車が幸せのシンボルであったり、進歩の象徴であった時代はありました。
その時代において、晴海は特別な場所でした。
1963年、晴海のモーターショーの入場者は120万人余り。
その多くは、輝くクルマに明日の夢を見て、晴海を後にしたのでした。