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探偵物語(64)


わたしは今、座り心地の良い椅子に座っています。
いえ、わたしの部屋ではありません。
依頼人の客間で、椅子に身を預けています。

この家のご主人が亡くなったのは、半年前です。
同居していた長女夫婦から、調査の依頼を受けています。
よくあることですが、遺産相続に絡むトラブルです。
この家の長男は早くから家を出ていて、長女が婿を取る形で同居しています。
次男と次女も結婚を契機に家を出ています。

遺言が無かったので、法定で遺産相続が決まりました。
ところが、長女夫婦が知らない間に、家の土地と建物が他人の名義になっていたのです。
父親はこのことを誰にも告げずに他界しました。

どういうことなのか。
長女夫婦は登記簿をあたって調べましたが、分かりません。
思い余って、わたしの事務所を訪ねてきました。
この手のトラブルには、大概、悪質な不動産屋が一枚噛んでいます。
素人の手に負える問題ではありません。

わたしの調査の進み具合を見ながら、弁護士と連携して対策を練ったらどうか。
そうアドバイスして、調査を引き受けました。
不動産関係に強い弁護士も知っているので、紹介することも約束しました。



座っている椅子から見える、窓です。
高いテーブルには厚手の紙が一枚。
何か書かれているようですが、ここからは見えません。

窓は東向きで、軟らかな夕陽の反射がロールカーテンから射し込んでいます。
窓の前は雑多な物が置かれていて、亡くなられたご主人か長女の夫の趣味道具ではないかと思います。
その道具を背に夫婦が座り、わたしは窓の方を見ながら話を聞いています。

話の内容は、生前のご主人の交友関係です。
概ねその話が終り、世間話に移りました。
わたしは陽の光と、座り心地の良さで、話を聞き流していました。
とても、気持ちが良かったのです。



窓の中央前には、何の用途か分かりませんが、薄いプラスティックのシートが立て掛けてありました。
シートは鉄のフレームで固定されていて、どういうわけか、両端に透明の破れたビニールが洗濯バサミで留めてあります。
軟らかな逆光で、それは映画のワンシーンのようです。

長女夫婦は、最近のガソリン高について話しています。
専ら話すのは夫で、妻は頷きながら、合間を縫って小声で話します。
高い天井のせいか、話し声も心地よく響きます。



わたしは、視線を夫婦の右に移しました。
背後にあるのは、薄いプラスティックのシートです。
目を凝らすと、そこに傷がありました。
破れた跡です。

傷は丁寧にステープラー(ホッチキス)で修復されています。
その傷の左にも小さな破れがあって、そちらはセロテープが使われています。
反対側には先ほどと同じビニールが吊るしてあります。
その右は濃いカーテン。

わたしの悪い癖は、話の途中で他の考えに入ってしまうことです。
もちろん、話が大事でないことを知っていてのことですが。
(わたしの妻に言わせれば、大事の時にも上の空になるとのことですが。)

この傷跡は、美しい。
ロールカーテン越しの陽は、少しずつ角度を変えて傷を浮かび上がらせます。
その変化も、美しい。
室内はかなり暗くなっているのですが、幸いなことに、夫婦は照明を点けようとしません。
お陰で、傷の美しさに魅入ることができました。

人は、傷つきながら成長します。
その傷が生涯癒えない不幸な人もいますが、大概は、傷を癒しながら人生を歩みます。
わたしのような、傷に弱い人間が言うのも何ですが、傷を負うことは大切です。
その傷は治るに従って、愛おしい傷になります。
傷は糧(かて)となって、いずれは美しい軌跡を残します。
このシートの傷のように。



わたしの仕事は、傷を負った人間から依頼されることが多々あります。
傷を回復したくて、探偵に調査を依頼するのです。
わたしは手助けはできますが、傷を治すことはできません。
治癒するのは、本人しかできません。
遺憾なことに、手助けが傷を一層深くすることもあります。

一般に、今の世の中は傷を負うことを嫌います。
ガードを固めて、人と接します。
皮肉なことに、携帯のような通信機器が発達すればするほど、人と人との距離は開きます。
傷をつけ合う距離から、遠ざかるのです。
さもなければ、取り返しのつかないような重大な傷を、自分と他人につけてしまいます。
距離感が働らかなくなっているのです。

わたしの考えはさらに遠くに飛び、高校生の時に見た映画の一場面が浮かびました。
それは、性愛の場面です。
女性の身体に触れる男性。
男性の手は、女性の太もも辺りを探り、そこで手が止まります。
男性はそこに生々しい傷を見つけて、愛撫し始めます。
手で、口で、優しく愛撫するのです。

今思えば、傷は心の傷を暗喩していたのですが、高校生のわたしには理解できませんでした。
未知の世界の秘め事に、興奮していただけです。
傷を舐め合うのではなく、優しく傷を愛撫する。
そんな人間関係が薄れたような、気がします。


「ところで、弁護士の先生にはいつお会いしたら・・・・」。
長女の夫の声が、上の空のわたしの耳に飛び込んできました。
わたしはちょっと間を置いて、「調査の進み具合にもよりますが、二週間後ぐらいに・・・・」。
遠くに飛んだ考えを引き戻し、今後の予定をかいつまんで説明して、わたしは席を立ちました。

座り心地の良い椅子から離れると、いつの間にか、天井の照明が点灯されていました。
白熱灯に照らされた傷も、それはそれで、見応えがありました。