iphoto



「探偵物語(58)」



暫くの、ご無沙汰でした。
暇だ暇だといっていたら、一月末から仕事が一気に入ってきました。
それも、調査期限の短い仕事ばかり。
休み返上で連日調査に歩いていました。
昨年とは違い、今年は冬らしい冬だったので、張り込みの寒さは堪えました。
まぁそれも、仕事がないことに比べれば、贅沢な悩みかもしれません。

一段落したところで、街の探索に出かけました。
この頃は、寒さも峠を越して、春がそこまで来ていることを実感させます。
そんな一日の午後です。



ごく普通の家です。
右側が個人住宅で、左側が集合住宅(アパート)でしょうか。
色を塗り分けて区別していますね。
地方都市の倣(なら)いで、広い駐車場が手前にあります。

街を探索していて、わたしが最も切り取っている光景は家や建物です。
なぜだか分かりませんが、結果としてそうなっています。
保存した画像の70パーセントは、家や建物です。
家や建物の形や色に、興味が向くのかもしれません。



集合住宅ですね。
県営か市営の団地です。
少し風のあった日で、空がきれいに澄んでいます。
白い雲が、綿のようです。

家の外観に興味があるわたしですが、内側にも興味があります。
間取りとかインテリアですが、それ以上に興味があるのは、そこに住む人々の在り方です。
端的にいえば、家族です。
仕事柄でしょうか、そこに興味がいきます。

家族の崩壊。
相当前から耳にしている言葉です。
家庭内殺人などの大きな事件があると、必ず語られる言葉です。
その反動で、家族愛をテーマにした映画やドラマが多く作られています。

一昨年ヒットした『ALWAYS 三丁目の夕陽』もそんな映画です。
昭和三十年代の東京下町を舞台にした、地域の暖かい交流を描いた映画ですが、核になっているのは家族です。
この映画がヒットしたのは、家族が家族らしい暮らしをしていた時代を、リアルに再現したからです。
しかし皮肉なことに、家族が崩壊しはじめたのも、その時代からなのです。



家族とは何か。
これは難しい問題です。
一介の探偵には、簡単に答えが出ない問題です。
ごく当たり前に存在している、ありふれ存在こそ、いざ考えると答えに窮してしまいます。

つい最近一冊の新書を読みました。
橋本治著『日本の行く道』です。
日本がヘンなことになっている、このまま行ったら日本はどうなるのか。
多くの人が感じている不安に対する、橋本流の考察です。

考察は多岐に渡っていますが、結論は、産業革命前に戻ることです。
具体的な処方は本を読んでいただくしかありませんが、考え方はまったくの正論だと思います。
この本の後半に、「家」についての記述があります。
これはとても参考になりました。

<「家族」という成員によって成立っている「家」は、本来は一つのシステムです。>
そう、家というシステムがあって、家族とはそれを維持運営する役割を持つ存在なのです。
本来という言葉が出てくるのは、それが忘れられ、家族だけを取り出して議論されるからです。
家族の崩壊を語るなら、システムがなぜ壊れたかを探らなければ意味がありません。

重要なのは、橋本さんも述べているように、家族を愛情で語らないことです。
愛情はシステムの付随物であって、愛情で家族が成立っているわけではありません。
あくまでも、家族はシステムを支える役割として存在するのであって、それ以上でもそれ以下でもありません。
その認識に立てば、システムは崩壊しているのですから、家族も(当然)崩壊しています。
家という建物の中で、バラバラに居るだけです。

システムを崩壊させたのは、近代という概念と、便利で豊かな生活です。
この二つが生まれたのは、前述した産業革命以後です。
故に、橋本さんは産業革命以前に戻ることを説いているわけです。

近代の概念で重要なのは、個人の自由です。
家というシステムは、個人の自由を奪います。
家族の一員には役割がありますから、それから離れることを許しません。
家が封建的で閉鎖的だと糾弾されるのは、自由を認めないからです。

便利で豊かな生活を実現したのは、機械による大量生産が可能になったからです。
人手による生産には限界があって、コストにも限界があります。
安価で便利な商品が誰にでも行き届くことは、機械による大量生産で初めて可能になりました。
わたしたちが恩恵を受けている、便利で豊かな生活は、家族の役割を知らず知らずのうちに解消していきました。



個人の自由と、豊かで便利な生活。
そのどこが悪いのかと問われれば、返答に困ります。
歩きながら考えているわたしは、立ち止まって、考え込みます。

家というシステムが立ち行かなくなったのは、それに替わる魅力的なシステムが現れたからです。
個人の自由や豊かで便利な生活を提示したシステムは、人々を魅了して、取って代わりました。
その時、人々は代償には気が付きませんでした。
代償とは、生活の生活たる何かです。
人が生きていることを実感できる、何かです。

結局のところ、個人の自由と豊かで便利な生活の実質は、消費生活です。
ひたすら消費することを続ける、家族生活です。
どういうわけか、魅力的なシステムが実現した生活は、そういう生活です。
そこにドップリ浸かって、こんなはずではなかった、と密かに嘆いているのです。
このわたしと、わたしたちは。

家族の役割。
それが何であったかは、すでに定かな記憶として残っていません。
考えてみれば、役割のない生活とは著しく生活感に欠けます。
一日中、会社の窓際の席でボーと外を見ているような、空しさが付きまといます。

家族の再生や家族に替わるシステムの構築は、今のところ、上手くいっていません。
前者が愛情や道徳に囚われている所為で、後者は、役割はあっても共同生活の最小単位になりうる何かに欠けるからです。
袋小路です。
意外に、家というシステムは手強いものだったのです。
(死者までも含む、時間の循環を、家は持っていましたし・・・・・。)

これ以上歩きながら考えると、わたしも袋小路に入ってしまいます。
例によって、どこにいるのか、分からなくなってしまうのです。
便利なGPS付きの携帯を持つなどと考えれば、それ以上の袋小路です。
道に迷った探偵は、迷ったままの方が良いのです。
少なくとも、なぜ迷ったかを考えるからです。

思考の続きは、次の探索までお預けです。