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 探偵物語(4)


わたしが探偵という職業を選んだのは、探偵に憧れたからではありません。
推理小説や探偵小説のファンでもありませんでした。
わたしは大学で社会学を専攻していました。
といっても、大学で専門に勉強したわけではありません。
まぁ、何となく社会に興味があって、それで何となく社会学部に入っただけです。

卒業して就職するとき、それでも社会に関係する仕事に就きたいと思っていました。
ある時、就職課で小さな探偵会社の求人が目に留まりました。
探偵。
社会を裏側から見られる職業です。

陽の当たっている表側の社会と陰の裏側の社会。
その両方を見れば、社会の本質が分かるのではないか。
そう単純に思って、わたしは入社試験を受けました。
幸いなことに応募者が少なく、わたしは探偵として社会に出ることになりました。



人は多かれ少なかれ、秘密を持っています。
表側の顔とは大きく異る秘密を持っている人も、少なくありません。
探偵は、仕事でその秘密に触れることができます。
それを心の引き出しにしまって、探偵は調査に走り回ります。

どんな仕事にもイロハはあって、それを習得するまでには何年もかかります。
わたしも仕事を覚えるまでは余裕がなく、ひたすら先輩の後を追うばかりでした。
やっと調査全般を任されるようになって、わたしの社会に対する興味が再浮上してきました。
陰の社会を、自分の手で掻き分けて調べる自信がついたのです。

分け入った陰の社会は思いの外複雑で、足を踏み外すことも度々でした。
陰の社会にも陰の社会のルールがあって、それを尊重しないと前に進めません。
最初はそのルール自体が面白く、社会がより分かったようなつもりになりました。
しかし、陰の社会も馴れてしまうと、表とそう変わりません。
陰が表を動かしているわけではなくて、陰はやはり陰でしかなかったのです。



社会の裏と表を見ても、本質は分からない。
わたしは失望しましたが、仕事は順調にキャリアを積んでいきました。
自分の興味とは別に、仕事が面白かったのです。
わたしは自分の能力を信じて独立しました。
小さいとはいえ事務所を構えて、わたしは一人前の探偵になりました。

わたしは走り続けました。
そう、五年ぐらいはひたすら走り続けたでしょうか。
そうして、ある日転機が訪れたのです。



その日、わたしは事務所を十一時頃出ました。
数日前から始めた調査が佳境に入って、今日は遅くまでかかりそうでした。
一時ごろ簡単な昼食を摂り、電車を乗り継いで調査を続けました。
仕事が一段落した四時ごろ、休憩で喫茶店に入りました。
これは、日頃の習慣です。
疲れた時はためらわず休んで、衰えた集中力を復活させるのです。

コーヒーを飲みながら、ボーと三十分近く過ごします。
肩の力を抜いて、頭をできるだけ空にします。
タバコは三本だけにします。
それ以上喫すと、頭の働きが鈍るからです。

コーヒー代を払って店を出たとき、いつもと違う感覚に襲われました。
景色が、違って見えたのです。
いえ、景色自体は少しも変わっていないのですが、わたしの目に違って見えたのです。

喩えてみましょう。
通常はクルマで走っている所を自転車で走ったとします。
そうすると、景色は違って見えます。
自転車で走ったところを、今度は歩いてみます。
又、景色は違って見えます。

毎日往復している通勤路。
目を閉じても歩けます。
しかし、そこで目にしているのは記号化された景色です。
何処に何があるかと、際立った変化だけしか注意がいきません。
つまり、見ているのは表層で、景色の全体ではないのです。



その町は、調査で良く来た町でした。
町の地理にも明るいし、そこを曲がれば何があるのか知っていました。
しかし、眼前にある景色はいつもの町ではありません。
一つ一つの事物が、その存在を明らかにしていました。
景色には、たっぷりとした時間と空間がありました。

季節は冬で、時刻は夕暮れでした。
陽は最後の輝きを見せ、影は対抗するように距離を延ばしています。
わたしは、わたしの勘違いに気が付きました。
社会の本質は、走り回って調べることでは分からないということに。
歩いて、見ることで、そこに姿を現すということに。

わたしはじっと景色を見ました。
景色は、わたしに語りかけてきます。
わたしは仕事用のカメラで、対話を記録しました。
それは、至福といっても良いような時間でした。



気が付けば、陽はすっかり暮れていました。
わたしは景色につられて、町のあちこちを歩き回ったようです。
わたしは今何処にいるのか、わたしは何をここでしていたのか。
直には思い出せませんでした。
夢の中でワルツを踊っていたのかもしれません。
事務所に戻って、やっと今日の仕事を思い出したのでした。


今回掲載の画像は、同じ冬の夕暮れですが、あの時のものではありません。
違う日に切り取ったものです。
夕暮れは、昼と夜が交差する時間です。
そのすれ違う様の表情は、特別です。
景色の秘密が垣間見られる、希有な時間かもしれません。