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「住宅」(3)


家(住宅)は人の住むところですが、現代では同時にモノを収納する場所としての役割が重要になっています。
どの部屋に誰が住むのかと同様、どの部屋に何を置くかが、住まいでは大切な問題です。
人とモノがセットになって、居住空間が決められていきます。

前回、家(家庭)についてのわたしの夢想を書きましたが、実はもう一つの夢想がありました。
これはわたし自身についての夢想ではなく、もっと一般的な家(家庭)の夢想ともいうべきものです。

若い夫婦が住んでいるのは中央線の沿線で、時代は戦後から十年ほどです。
一軒家の二階が貸し室になっていて、そこに夫婦は住んでいます。
一階は大家さんですね。
夫は月給取り(サラリーマン)で、妻は主婦ないしは共働きです。
部屋は六畳と小さな台所で、家具は鏡台とタンスと卓袱(ちゃぶ)台だけ。
天井から吊るされた電球には、妻が選んだ(電球の)傘が添えられています。
電気製品は、その電球とタンスの上のラジオだけ。

夫の勤務先は都心方面で、時々残業と飲み会で帰りが遅れますが、夕食はいつもこの住まいで摂ります。
夫の給料は、生活費と少しの蓄えでほとんど消えてしまいます。
休日には近所を散歩したり、時には動物園や近郊の遊園地に行ったりします。

実に小市民的でレトロな生活、住まいですが、この夢想のポイントは、部屋に何もないことです。
六畳の畳と家具とのバランスが、人の住まいの必要と充分を表していることです。
多分わたしは、この夢想に清々しさと漠然とした希望を見ていたと思います。

この夢想を一般的と留保を付けたのは、わたしがそのような生活を送る資質がないこと、そのイメージには古い日本映画の影響があるからです。
ある時期の日本人の理想であり、一部の都市部では現実化していた生活です。
もっとも、わたしが夢想したのはかなり後(1970年代)のことで、過去の理想の輝きをサンプリングしたに過ぎません。

夢想は映画だけでなく、身近なモデルにも影響されています。
一回目に書いた(最初に住んだ)借室の隣室が若い夫婦でした。
ご主人は建設関係の勤め人だったと記憶しています。
子供心にも仲のいい夫婦に見え、隣室もわが家同様何もなかったのですが、ここから出発するという初々しさと希望(愛情)がありました。
(この時代は、わたしだけではなく、世の中がサラリーマンに希望と憧れを見ていた頃でした。)

何もなくて(それでも必要で充分なモノはあって)、漠然とした希望だけがあった住まい。
その漠然とした希望の結末は、この文章の冒頭が表す現実となったのでした。




わたしの住宅遍歴、最終回です。

高校卒業と同時に東京の大学に進学したわたしは、初台にアパートを借りました。
アパートといっても、部屋は三畳一間で台所とトイレは共同でした。
二階に部屋があって、共同の台所とトイレは一階。
狭い台所にガスコンロが二口並び、五円玉を入れると十分間ほどガスが出る仕組みでした。

家具は、初台の家具屋で揃えた机と椅子と本棚と折畳みの小さなテーブル。
それと、寝具と一緒に持ってきたポータブルテレビとトランジスタラジオです。
布団を敷くと三畳間はそれだけで一杯でしたが、半畳ほどの板の間が付いていたのが救いでした。
家賃は四千五百円で、当時の相場は一畳千五百円でした。

ここには三年半いましたが、狭さはさほど苦ではありませんでした。
ただ、手洗いが室内に無いのが面倒でした。
この三畳に六人寝たことがあります。
1969年の新宿騒乱事件の夜、新宿から徒歩三十分のわたしのアパートに、クラスの友人が帰れなくて泊まり込んだのでした。
一つの布団に三人づつ互い違いに寝たのを憶えています。

初台の次は、西武新宿線の都立家政の六畳のアパートです。
鷺宮高校のすぐ側で、大家さんは元農家でした。
ここもトイレが共同でしたが、今では考えられないような広い廊下が印象的でした。
この時期から同棲生活が始まって、本格化したのは約二年後の次の高円寺のアパートからです。

高円寺のアパートは新築で、六畳と三畳ほどの台所付きでトイレも室内。
引っ越しの時、荷物が納まりきらないと思ったほど余裕の無い造りでした。
この時期からアパートの新築が増え始めましたが、どこも狭苦しい間取りで、特に収納に困りました。
(それだけ、荷物も増えたということですね。)

このアパートで学生生活を終え、今でいうフリーターになりました。
結婚したのもこのアパートで、電話を引いたのもここです。
奇妙な明るさがあった1970年代の中ほどまで過ごしましたが、高円寺のアナーキーな雰囲気はとても楽しい思い出になっています。

手狭になったアパートから西荻窪に越したのは1978年前後で、今度は一階と二階が繋がったテラスハウスでした。
一階が六畳のダイニングとトイレと浴室、二階が六畳と四畳半で、狭い庭付き。
越した当座は、その広さに感動しましたが、今では家具とガラクタで足の踏み場もありません。
1979年に阿佐谷で「西瓜糖」を開店し、十五年経営しましたが、ここから毎日通いました。
今も住んでいて、すでに二十七年が経っています。
(わたし自身は山梨に単身赴任状態で、十年近い通い夫ですが。)

高校生までの住宅遍歴に比べると、上京後はかなりマトモですが、実家の方は転がり続けていました。
フリーター生活の間に度々実家の仕事を手伝いましたが、実家はいつの間にか、甲府から隣りの東八代郡石和町に居を移しました。
二店めの飲食店経営が軌道にのり、甲府から通うのに無理が生じて、まず手近な店の座敷に住み始めました。
八畳ほどの座敷で、衣類等は甲府の家に置いてあったと思います。
(自宅は甲府で仮宿舎が店、といった感じです。)

しばらくして甲府の店は親戚に委譲し(二階の住まいだけはそのままにして)、石和を本拠としてからは、近くのマンションを借りました。
わたしも二三回は泊まったことがありますが、メインの部屋は二つのベッドが占領していて、やはり宿舎の態でした。

その後店の近くに温泉付きの分譲地を買い、そこにブロック建ての風呂場を建てました。
それまで内湯がなかった恨みを晴らすかのような、広い浴室と脱衣場でした。
脱衣場は一年ほどで改装され、家人が住み始めて、マンションは引き払われます。
六畳ほどの住まいで、ここと店の座敷が再び住まいとして使われました。

それから又しばらくして、その隣りにプレハブの個室が建てられ、丁度帰ってきたわたしが住み始めます。
「勉強部屋」とか「お年寄りの離れ」と宣伝されたプレハブは、一日で組み立てられる簡易住宅です。
天井がなく、屋根も壁も薄いスティールのパネル一枚。
最初の朝、布団の上に砂が積もっていて驚きました。
屋根と壁の間に空が見えるほど隙間があって、砂は外から舞い込んだのでした。
冬も夏も外と気温が同じで、ストーブとクーラーが必需でした。
おまけに隣りがホストクラブで、夜中の三時ごろまで生バンドが演奏していました。
(ま、こっちも十二時ごろまでは仕事でしたので気にはなりませんでしたが。)

石和に開店してからここまでは、実家の混乱期といってもいい時期で、仕事も忙しい盛りでした。
1970年代初期から後半までです。

さすがにこのような生活は不便と思った両親は、分譲地の後ろの土地を購入して家を建てる算段をしました。
初めての完全な住宅です。
ところが予定した土地は建物付の物件で、建物は廃業したモーテルでした。
和風の五戸がコの字に並んだモーテルで、一見すると普通の家に見えます。
とりあえずそのままで、両親はそこに住み始めます。

住み始めると意外に住み心地の良い家で、住宅の建設は先送りになってしまいます。
(わたしも一時住みましたが、居心地が良かったです。)
一時は真剣に新たな住宅の設計を検討しましたが、気が付くとバブルがハジけ、改装でお茶を濁すことになって現在に至ります。

この間の住宅事情を文章だけで想像すると奇想天外ですが、実際はごく自然な推移で、傍目から見ても特異な感じはしなかったと思います。
一戸建て住宅を建てるという長年の夢は露と消えましたが、特に落胆もなく、「ロードムービーのような家族」は今だ健在です。





以上で住宅遍歴は終りです。
わたしの現在の山梨の住まいや興味深い友人の住宅遍歴などは、外伝として機会がありましたら掲載させていただきます。