iの研究

第八十三回 <質問>の研究

65歳になった時、住民票のある区役所からがん検診の診察券が送られてきました。
年に一回の検査で、65歳以上の区民は無料で受けられます。
これはどこの自治体でも実施していると思われますが、誕生日の前後に指定の医療機関で受けることになっています。
今年も、区からは診察券と共に身上書やがん検診説明書、注意事項、問診票などの書類が送られてきました。
これらは事前に記入して、当日受診する医療機関に提出します。
少なからずの枚数なので、前日に片端から記入していきました。

問診票は既往症や喫煙、飲酒などの習慣の有無、年齢に伴う生活の状態を尋ねるもので、多くが「はい」か「いいえ」の二択で答える形式になっています。
それほど考えることもなく次から次へと質問に答えていって、最後から二番目の質問に来ました。
質問は、「あなたは人の役に立っていると思いますか」というものでした。
そこでわたしのボールペンはハタと止まりました。

人の役に立っているか。
この重い質問がいきなりやって来て、考え込んでしまったのです。
膝や腰が痛いか、夜トイレに頻繁に行くか、といった類の質問の後に想定外の人生問答です。
これが若い人への問いだったら、現状に対する質問です。
しかし高齢者への質問になると、今までの人生を振り返っての問いにもなります。
果たしてわたしは人の役に立っているのか。
そして、今まで人の役に立っていたのか。
人生の最終段階に近づいた老人に、唐突に決算を迫る質問。
これは最後の審判なのか。
もしそうだとしたら、それを神ではなく、一介の区の担当者がして良いものなのか。
20代や30代の若者ならいざ知らず、やり直しの利かない老人には過酷な問いではないでしょうか。

腕組みをして考えるうちに、時間だけが経っていく。
思いは、幼少期から小中高、大学時代、社会人になってからの幾年月、過去を振り返ってひたすら考え込む。
人の役に立っているのか、どうか。
わたしは有用な人間だったのかどうか。
結論が出ないまま夜が過ぎて朝が来てしまった、というのは嘘で、暫しの思案の末に「いいえ」を丸で囲んだのでした。
どう考えても人の役に立っているとは思えない、それが結論でした。


思いがけない質問だったので動揺しましたが、冷静に考えればこれは老人性鬱病に対する問診です。
それ以上でもそれ以下でもありませんが、タイミングが悪かった。
その時わたしは夏目漱石の『それから』を読んでいたのです。
近代を代表する小説で、主人公の代助の人生の岐路にわたしは震えるような思いでページを繰っていたのです。
頭の中は、この人生の書に覆い尽くされていたのです。

この問診票の質問を読んだ他の受診者がどう思ったのか不明ですが、わたしはグッド・クエスチョンではないかと感じ入りました。
いつも歩いている、そこの角を曲がったら、突然問われたファイナルアンサー。
それも又、人生には有りがちなことではないかと・・・・。

さて、あなたは人の役に立っていると思いますか。
そう問われて「はい」ですか、それとも「いいえ」ですか、これを読んでいるそこの貴方は。

(追記:家人から区のがん検診は35才からという指摘がありました。たまたまわたしが65才から受診したので勘違いしていました。本文の方はフィクション混じりということでそのままにしておきますが、ご了承よろしくお願いいたします。それにしてもあの簡単な質問をこのように深く考えてしまうのは鬱の気質、兆候に違いありません。問診の役は果たしたと言えるでしょう。)